螺旋より外れて

「だいぶ近付いて来たわよ。ほら」

 遠音に促され、軀は谷を抜けた先の、その場所を見やる。
 不意に開けた場所に、何やら奇妙な渦がある。
 白っぽく明るい空間を占める、黒……というべきか、奇妙な色彩の渦。
 空間が歪んでいるのであろうことは、こういう感覚に敏感な軀にとっては明白な事実。
 視界がぐらぐらするような奇怪な何かを、その渦は絶え間なく放射しているように見える。

「……この向こうに、その魔龍という奴がいるのか?」

 軀は遠音を振り返る。
 遠音はくすくすと笑い、

「そうね。かなり近付くと思うの。手が触れられるくらいには、ね?」

 更に笑う遠音に、軀はふむ、と鼻を鳴らし、恐らく魔龍に近付いているというのは事実だと認識する。
 今まで敵を打ち破ることによって贈与されてきた魔龍の力の片鱗であろうものは本物であるし、次第に強くなっている。
 軀は確実に「魔龍の名代」に変化しつつあるのだ。
 だが、「魔龍」は一柱であろう。
 出会えば、どちらかが消えねばならぬはず。

「私はここで待っているわ」

 遠音が、渦の脇に控える。

「主からの命令なの。あなた一人で来させなさいって」

「ほう」

 軀は笑う。

「すると、今まで懸念していたことは事実ではない訳だな?」

「あら、何を懸念していたっていうの?」

「遠音。お前自身が魔龍そのものだという懸念だ。そして、魔龍はオレと真っ向勝負する気はない」

「あらあら」

 ますますくすくす笑う遠音を、軀は不意に真顔で眺める。

「笑いごとではないぜ。結構本気で懸念していた。お前からは魔龍の、ガキの頃から感じていたあの気配がするからな」

 軀はじっと遠音を見据える。

「お前、本当は何者なんだ? そろそろ教えてくれてもいいだろ」

 軀の言葉に遠音は謎めいた笑みで答える。

「私自身が魔龍ではないわ。でも、近いものはあるわね。全く無縁でもない」

「ここにいたバケモノどもは、全部あの魔龍の作り出した存在なんだろう? お前もそうなんだろうが、どこか違うな。魔龍にあまりに近すぎる」

 軀が水を向けると、遠音は嬉しそうに背中の翼で羽ばたいて宙に浮く。

「私は、あなたとこの魔龍の作った世界を繋ぐもの……といえばいいかしらね。これ以上は、あなたが帰ってきた時に教えてあげるわ」

 遠音が羽ばたき、ぐんぐん上昇する。
 見る間にその姿が、遠くの空へ消えていくのを、軀は特に手出しもせず見守るだけ。

「さて。種明かしを楽しみに、俺はこっちに行くか」

 軀は、ぐるぐる渦巻く渦に踏み入る。
 一瞬くらりとするような感覚があり、周囲の風景が変わる。

 ……薄暗い。

 軀は、鼻につく甘ったるいようなおかしな香の香りに眉をしかめる。
 匂いというのは、記憶に直結しているものだ。
 その香りが示唆した記憶は。

 見覚えのある場所だ。
 あの頃、体が小さかったことを差し引いても、この屋敷は広かったのだ。
 内部の奴隷たちを逃がさぬために、窓が開けられることは少なく、空気はいつも淀んでいたはず。
 それを誤魔化そうというのか、それともここの「主」の単なる悪趣味か、やけに甘ったるい煽情的な香がいつも焚かれていて、空気はますます淀んでいたはずだ。

 軀の白い肌から、一斉に冷や汗が噴き出す。
 かすかなうめき声が洩れる。
 そうだ、ここは。

 見回す。
 ここは、滅多に連れて来られない玄関の、エントランスホールである。
 薄暗いのを少しでもマシにしようとするかの如き、シャンデリアの輝きが頭上にあるが、それでも周囲は何故か薄暗い。
 広間のそこここに闇がわだかまっている。
 外から不規則に差し込む雷光が、ますます闇を濃くするが如き。

「……悪趣味、な」

 辛うじてそれだけ呻き、軀は床に貼り付いたかのように思える足を動かそうと試みる。
 逃げようというのではない。
 これが幻だと、軀は気付いている。
 恐らく、逃げ出せば「不合格」なのだ。
 前に、この屋敷の奥に進んで、「奴」に対峙しろというのだろう。

 だが。
 足は、動かない。

 フラッシュバックする記憶。
 おぞましい獣と、そしてやけに優しい「父」の顔をしていたあの姿と……


「ぐうっ……!!」

 軀はまるで腹を殴られたかのように体を折る。

 例え幻であっても、軀にはあまりにも暴力的な記憶だ。
 フラッシュバック、フラッシュバック、フラッシュバック。
 花の冠を頭に乗せてくれる大きな手……

「やめろ!!」

 軀は誰にかわからぬままに叫ぶ。
 遠ざけようとしてもその記憶は、ますます見せつけようとするかのように激しく明滅し……

 ふと、目の前に誰かいるのに、軀は気付く。
 ぎくりとする。
 顔を上げようとするその瞬間に、殴り飛ばされる。

 軀の体は吹き飛び、床に激突する。
 顔を上げるや、恐れていたものの姿。

 痴皇だ。
 素っ裸の、見慣れていたあの姿の痴皇がそこにいたのだ。
 男という要素以外は嫌悪感でできているかのような醜い姿。

「軀、帰って来たのか……?」

 これも聞き覚えのあるねっとりしたあの声で、痴皇は軀に迫る。
 ひたひたと裸足の足音が耳につく。

 軀は起き上がろうとする。
 だが、足がもつれる。

「軀ォ~~~~……」

 痴皇が、父が。
 のしかかってくる。
 あの時のように。

「うわああああぁぁぁああああぁあっ!!!!!!!!」

 軀は、自分の中にある「何か」を解放する。

 視界が真っ白にフラッシュアウトする。
 人間界の太陽をまともに見てしまった時のような、光に塗りつぶされる感覚。

 しんと、する。

 軀は顔を上げる。

 周囲には、「何もない」。

 真っ白というか、色がないというか。

 あの屋敷も、もちろん痴皇もいない。
 何もかもが剥ぎ取られたような平板な空間が、茫洋と広がっているだけだ。

 視界の端に、ちらちらする、灰色がかった何か。
 目を凝らすと、いわゆるブロックノイズに似たゆらぎがあちこちに。

 視界の端まで、そんな空間が広がっているばかり。

「この世界、なくなっちまったのか」

 オレが、壊したのか……?

 軀は怪訝な顔で、自分の右手を……

 その時。
 視界の一点に、黒味がかった虹色が侵入する。
 それが見る間に広がり、渦巻く色彩となり。

 そこから、恐ろしく巨大な影が、ずるりと姿を現わしたのだった。
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