螺旋より外れて
そこは、広大な「谷底」である。
遠音が軀を連れて来たのは、ちょっとした町なら入りそうなほどの面積を持つ谷の底だ。
はるか開いた両側にそそり立つ崖、乾いた白っぽい空、無情な太陽光。
魔界育ちの軀には見慣れぬ、恐らくは人間界の乾燥地帯に似た気候の場所。
岩陰を流れる水に目をやりながら、軀は遠音に問う。
「遠音。ここはどういうところだ。何かいるのか? 何も見えないが」
左手の平を額の上にかざし、軀は周囲を見渡す。
石と砂でできた谷底、岩に覆われた川、無慈悲な太陽光。
動く者の気配は、わずかにいる無害な動物以外に見えない。
「もうすぐわかるわ。ほら」
遠音が、谷の上空の空を指す。
軀はそちらに目をやる。
視認するより早く、何かが空間からにじみ出るような気配を感じ取る。
認識するより早く体が身構える。
白い、白い空間だ。
焼き尽くすような太陽光は、軀の剥き出しの右目に痛いが、それより強烈な「それ」の気配。
軀は、左目をすがめる。
瞬時に近付いてくる影……
太陽光より、強烈な光が迸る。
咄嗟に空間の帳を作り出した軀の目の前で、光が弾け、逸れた光の帯が、岩を蒸発させる。
「ほう」
軀は鼻を鳴らす。
見上げる上空には、不可思議な影がある。
蛇、に見える。
虹色の金属光沢の蛇だ。
しかも、背中には真珠色の鳥の翼が輝いている。
それで宙に浮いているのだ。
その翼蛇が翼を広げると、真っ白い光が迸る。
それはぶち当たったものを溶解させる力を持っているようで、周囲の岩や地面はどんどんと溶けていく。
いつの間にか、遠音の姿は消えている。
軀はニヤリ、と笑う。
「とりあえず……これでも、くらっておけ」
軀は、右手で「空間破砕流」を放つ。
一瞬で消える翼蛇だが、まるで何かが裏返ったように、瞬時に再生する。
しかも、再生した時には二体に増えている。
軀が攻撃すればするだけ、翼蛇が増えていく。
軀は流石に困惑する。
ひゅん、と迸る白い光が、軀の脇腹をかすめる。
髪も一房持っていかれる。
これは。
「さて、まずい、な?」
だが、軀に動揺はない。
光を浴びせられた時に、軀は何かが自分の中で閃くのを感じたのだ。
そこにあった「それ」に、今気付いた、と言うべきか。
ずっと探していたなくしものが、自室の机の上に見つかった、と言うべきか。
軀は、改めて右腕を打ち振る。
何色と言うべきか――不可解極まりない輝きが空間を薙ぐ。
球状に広がるそれは、翼蛇を巻き込み……消える。
いや。
翼蛇が消えたのではない。
何か「別のもの」に変化した、と言うべき現象。
ぼとぼとと、「翼蛇だったもの」が落下する。
あるいは、空へ立ち上っていく。
薄汚れた人形。
時計。
砂の塊。
鳥。
煙。
爆ぜる火花。
そんなものが、今しがたまで翼蛇のあった場所から現れる。
全く翼蛇と関係ない物品に、翼蛇が「変化」したのである。
宙に消え、また地面に落下し。
それは完全に沈黙する。
後には、あの手強い精霊は残っていない。
「あら、やったじゃないの? 新しい力は身に着けたようね?」
どこからか、遠音が戻って来る。
ふわりと翼を広げ、軀の背後に降り立つ。
「……お前の主というやつは」
軀が、不意に遠音に投げかける。
「あら、どうしたの? 何か気付いて?」
「ああ」
面白そうな遠音に、軀は振り向く。
「お前の主というのは」
「ええ」
「まるで、俺に力をくれようとしているみたいだな。試そうというのではないように見える」
「そう思う?」
遠音は仮面の奥でにやりと笑う。
「ああ。そう思うな。この力が発現したのだって、あの蛇どもの攻撃を受けてからだ。……まるで、あの蛇どもに攻撃させることで、俺に新たな力を植え付けようとしているみたいに思える」
遠音は、軀の探るような視線を受け止め、けろけろ笑う。
「あなたが受け取ったことは真実の一端。その反対の真実もあるかも知れないの。そのことにはお気づきかしら?」
「ああ」
軀はうなずく。
「本当のところはどうなのかは、俺の今の立ち位置ではわからんのだろうな。だが、おい」
軀はついと近付いて、遠音の肩を掴む。
「?」
「お前は、何を知っている? お前の主は、俺をどうする気なんだ? 喰った時に美味い味付けか?」
真剣な目を注がれ、遠音はまた深く笑う。
「そう見えるのも真実の一端。あの人は、『呼ばれざる者』を封じている、そのことは忘れないで」
軀は遠音を覗き込み、そのまま手を放す。
「俺を『呼ばれざる者』に対抗できる個体には仕立て上げようとしている、という訳か」
それがどういう意味を持つのか、軀にはまだ判断がつかぬ。
最初は力を増大させてから喰う気でいるのかと思ったが、それほど単純なことだとも思えなくなっている。
アポフィスの目的があくまで「呼ばれざる者」に対抗することだというなら、アポフィス自身の他に「対抗できる個体」が別に存在した方がいいように思える。
すると、軀を食らうとか単純に肉体を乗っ取るとかいうのでもないかも知れない。
だが、そう親切な筋書きだと安心するのも早計だとしか思えない。
いままで課された「試練」は相当にきつかった。
試している気配は感じる。
だが、それだけではないのが問題なのだ。
魔龍アポフィスの目的は……
「さて。次はどこだ?」
進むしかない。
軀はそう判断し、遠音に問いかけたのだった。
遠音が軀を連れて来たのは、ちょっとした町なら入りそうなほどの面積を持つ谷の底だ。
はるか開いた両側にそそり立つ崖、乾いた白っぽい空、無情な太陽光。
魔界育ちの軀には見慣れぬ、恐らくは人間界の乾燥地帯に似た気候の場所。
岩陰を流れる水に目をやりながら、軀は遠音に問う。
「遠音。ここはどういうところだ。何かいるのか? 何も見えないが」
左手の平を額の上にかざし、軀は周囲を見渡す。
石と砂でできた谷底、岩に覆われた川、無慈悲な太陽光。
動く者の気配は、わずかにいる無害な動物以外に見えない。
「もうすぐわかるわ。ほら」
遠音が、谷の上空の空を指す。
軀はそちらに目をやる。
視認するより早く、何かが空間からにじみ出るような気配を感じ取る。
認識するより早く体が身構える。
白い、白い空間だ。
焼き尽くすような太陽光は、軀の剥き出しの右目に痛いが、それより強烈な「それ」の気配。
軀は、左目をすがめる。
瞬時に近付いてくる影……
太陽光より、強烈な光が迸る。
咄嗟に空間の帳を作り出した軀の目の前で、光が弾け、逸れた光の帯が、岩を蒸発させる。
「ほう」
軀は鼻を鳴らす。
見上げる上空には、不可思議な影がある。
蛇、に見える。
虹色の金属光沢の蛇だ。
しかも、背中には真珠色の鳥の翼が輝いている。
それで宙に浮いているのだ。
その翼蛇が翼を広げると、真っ白い光が迸る。
それはぶち当たったものを溶解させる力を持っているようで、周囲の岩や地面はどんどんと溶けていく。
いつの間にか、遠音の姿は消えている。
軀はニヤリ、と笑う。
「とりあえず……これでも、くらっておけ」
軀は、右手で「空間破砕流」を放つ。
一瞬で消える翼蛇だが、まるで何かが裏返ったように、瞬時に再生する。
しかも、再生した時には二体に増えている。
軀が攻撃すればするだけ、翼蛇が増えていく。
軀は流石に困惑する。
ひゅん、と迸る白い光が、軀の脇腹をかすめる。
髪も一房持っていかれる。
これは。
「さて、まずい、な?」
だが、軀に動揺はない。
光を浴びせられた時に、軀は何かが自分の中で閃くのを感じたのだ。
そこにあった「それ」に、今気付いた、と言うべきか。
ずっと探していたなくしものが、自室の机の上に見つかった、と言うべきか。
軀は、改めて右腕を打ち振る。
何色と言うべきか――不可解極まりない輝きが空間を薙ぐ。
球状に広がるそれは、翼蛇を巻き込み……消える。
いや。
翼蛇が消えたのではない。
何か「別のもの」に変化した、と言うべき現象。
ぼとぼとと、「翼蛇だったもの」が落下する。
あるいは、空へ立ち上っていく。
薄汚れた人形。
時計。
砂の塊。
鳥。
煙。
爆ぜる火花。
そんなものが、今しがたまで翼蛇のあった場所から現れる。
全く翼蛇と関係ない物品に、翼蛇が「変化」したのである。
宙に消え、また地面に落下し。
それは完全に沈黙する。
後には、あの手強い精霊は残っていない。
「あら、やったじゃないの? 新しい力は身に着けたようね?」
どこからか、遠音が戻って来る。
ふわりと翼を広げ、軀の背後に降り立つ。
「……お前の主というやつは」
軀が、不意に遠音に投げかける。
「あら、どうしたの? 何か気付いて?」
「ああ」
面白そうな遠音に、軀は振り向く。
「お前の主というのは」
「ええ」
「まるで、俺に力をくれようとしているみたいだな。試そうというのではないように見える」
「そう思う?」
遠音は仮面の奥でにやりと笑う。
「ああ。そう思うな。この力が発現したのだって、あの蛇どもの攻撃を受けてからだ。……まるで、あの蛇どもに攻撃させることで、俺に新たな力を植え付けようとしているみたいに思える」
遠音は、軀の探るような視線を受け止め、けろけろ笑う。
「あなたが受け取ったことは真実の一端。その反対の真実もあるかも知れないの。そのことにはお気づきかしら?」
「ああ」
軀はうなずく。
「本当のところはどうなのかは、俺の今の立ち位置ではわからんのだろうな。だが、おい」
軀はついと近付いて、遠音の肩を掴む。
「?」
「お前は、何を知っている? お前の主は、俺をどうする気なんだ? 喰った時に美味い味付けか?」
真剣な目を注がれ、遠音はまた深く笑う。
「そう見えるのも真実の一端。あの人は、『呼ばれざる者』を封じている、そのことは忘れないで」
軀は遠音を覗き込み、そのまま手を放す。
「俺を『呼ばれざる者』に対抗できる個体には仕立て上げようとしている、という訳か」
それがどういう意味を持つのか、軀にはまだ判断がつかぬ。
最初は力を増大させてから喰う気でいるのかと思ったが、それほど単純なことだとも思えなくなっている。
アポフィスの目的があくまで「呼ばれざる者」に対抗することだというなら、アポフィス自身の他に「対抗できる個体」が別に存在した方がいいように思える。
すると、軀を食らうとか単純に肉体を乗っ取るとかいうのでもないかも知れない。
だが、そう親切な筋書きだと安心するのも早計だとしか思えない。
いままで課された「試練」は相当にきつかった。
試している気配は感じる。
だが、それだけではないのが問題なのだ。
魔龍アポフィスの目的は……
「さて。次はどこだ?」
進むしかない。
軀はそう判断し、遠音に問いかけたのだった。