螺旋より外れて
「……気は済んだか?」
食脱医師は、裸で横たわった姿勢のまま、傍らで呼吸を整えている雷禅の長い灰白色の髪を撫でる。
愛欲の汗でうっすら湿ったその懐かしい感触が快い。
食脱医師と雷禅は、再会早々の床となった布団の上で共に横たわり、互いに剥き出しの肌を触れ合わせている。
雷禅は、自らの筋肉質の脚を食脱医師の白い貪りたいような脚に絡ませ、逃すまいとしているかのよう。
欲情で汗ばんだ肌を触れ合わせたまま、雷禅が不思議そうに食脱医師を見詰める。
「……こりゃあ、夢なのか……俺は、死んだはず……なんだがな……」
まるで盲人が何かを確認するような手つきで、雷禅は、食脱医師の艶やかな黒髪に触れている。
腕を枕にして抱き寄せ、何度も確認するように。
まだ昼下がりの明るい室内。
雪見障子越しにそれなりの広さがありそうな庭から、光が差し込んでいるようだ。
鳥の声が聞こえる。
ごく遠く、かすかに自動車のエンジン音が潮騒のように響くということは、現代の人間界で間違いなかろう。
自分が成仏しきれず、哀しい夢を見ているのではないと、雷禅は判断する。
夢だというなら、今しがたの、この女の肌の感触はなんだ。
「夢でもなければ、そなたは死んでもおらぬ。ここは人間界。安全な場所じゃから、警戒しなくて良い。霊界は、我らには手出しできぬようにしてある」
そう説明されても、雷禅にはまだしっくり来ない。
「お前……転生してたのか? 昔のままで」
「そうじゃ。以前の生とは、全く違う種類の人間になっておったで、そなたでも気づかぬようじゃったの」
食脱医師のその言葉を聞いて、雷禅は不思議そうにその体をまさぐる。
この体が、人間界のどこに存在していたのだろう。
「本当の姿は違うっていうのか?」
「……ある場所で修行をしていての。時期が来れば、この姿に戻るつもりで、かりそめの姿に変じておった」
食脱医師のその答えに、雷禅は不思議そうに。
「……酷いじゃねえか。教えてくれたっていいだろ? ずっと待ってたんだぜ?」
雷禅は食脱医師を抱き寄せ、その小さな頭を自分の古の彫刻のようなうねる筋肉に覆われた胸板に押し付ける。
「まさか、本当に、数百年断食して待っておるとは。そなたは、つくづくうつけじゃ。何を考えておる……」
小さくため息を落とし、それでも雷禅の体に自分の体を添わせて、食脱医師は呟く。
「……だってよ。お前は、俺の子を産んだばかりに死んじまったってのに……俺は平気な顔して、腹いっぱい食い散らかしながら、日々気楽に生きろってのか? 駄目だろ、そんなの」
言いにくそうにぼそぼそ呻く雷禅の髪を食脱医師はなだめるようにそっと撫でてやる。
「我は医師じゃ。身ごもったと判明した時点で、堕胎することもできた。そうやっても、食脱医師の仕事をしていれば、もって数年じゃったろう。……なら、最後にそなたの子をこの世に残してやってもよかろうと、ただそれだけよ」
食脱医師が言い終える前に、雷禅が動き彼女に口づける。
ゆっくりと。
「……すまねえ。俺は……」
「謝るな。それを選んだのは我じゃ」
ゆったり背中も撫でまわしてやると、雷禅は更にぎゅうっと食脱医師を抱きしめる。
「……俺の血を、ずっと先の代に送り込もうと思ったんだ。そうすれば、お前が直接産んだ子は人間として生まれるから、誰にも殺されないと思った。……お前が生まれ変わって来るころに、もしかしたら子供も生まれているんじゃないのかと……そしたら……」
雷禅は、一瞬躊躇し。
「……俺とお前と子供と、三人で暮らせるかと、思って」
「哀れな愚か者よ。そなたは、全く」
照れたようにしがみつく雷禅の背を撫でながら、ふと食脱医師は問いを投げる。
「雷禅。腹は減ったか?」
「ん? ……そういえば」
雷禅は改めてその奇妙な事態を思い出す。
自分は数百年、一切食事を摂っていなかった。
飢えの究極はこうなるのだと、自分で感心してしまうような酷い事態になっていたはず。
いわゆる通常の空腹感の感じ方というよりも、まるで内臓がまるごとえぐり取られて、胴体が空っぽになった気がしていたものだ。
だが、今はその、奇妙な空疎感がない。
それこそ、何百年昔にかすかに記憶にあるような、「小腹が減った」くらいの状態である。
自分は、一体どうしたのだろう。
「……そなたの、人肉以外食糧にできない、という奇病を、我の力で治療したのじゃ。もう、普通の人間や一般的な魔族と同じような『当たり前の食事』が摂れるはずじゃ」
食脱医師の説明に、雷禅は目を見開く。
「……そんなこと、できんのかよ?」
「前の人生を終えた後に、元々仕えていた密教の仏尊の元で修行した。前以上の治癒の力が使える上、色々便利なこともあってな……。まあ、それだけに、なさねばならぬことも……あるのじゃが」
きょとんと説明を聞いている雷禅に向かい、食脱医師は、ふっと微笑みかけ、そっと尋ねる。
「雷禅、何か軽く食べた方が良いぞ。そろそろ、体が飢えを感じ始めるはずじゃ」
白い手であやされながら、雷禅は、そういえば、さきほどまではそうでもなかった空腹が、さながら刺すようななかなか辛い段階に変化しているのに気付く。
もっとも、こんな「当たり前レベル」の空腹感など、以前のあの状態に比べれば、大したものではないのだが、それでも辛いものは辛い。
正直、前の深淵を思い出してうすら寒くなるし。
同時に。
雷禅は、あることに気付く。
「……この家、誰か他にいるのか?」
恐らくこの家の敷地内で、明らかに生きて動いている誰かの気配。
しかも、複数だ。
「ああ、我の従僕のような存在じゃ。天界での修行を終えて、地上に下る段になったら、守護のためにと、仕えていた仏が付けてくださった」
こいつは、大したことが始まったのか。
雷禅は、俄然、好奇心が湧く。
詳しく聞きたい、が。
「やべえ。急に腹が減りすぎて、痛くなって……」
「居間で食事にしようぞ。起きられるか?」
自分も上体を起こした食脱医師に、雷禅は手を伸ばし。
「なあ、その前に」
「なんじゃ?」
食脱医師が首をかしげる。
「……お前の名前を教えてくれ。なんて、呼べばいい?」
かつて自分はこの女と子を成しながら、名前すら知らなかった。
あの時代、女が男に名前を教えるのは、元よりの家族でなければ、夫となるべき男だけで。
「……聖果(せいか)。聖果と、呼ぶが良い」
ふっと笑った食脱医師のその顔は今まで見た中で、一番優しかったのだ。
食脱医師は、裸で横たわった姿勢のまま、傍らで呼吸を整えている雷禅の長い灰白色の髪を撫でる。
愛欲の汗でうっすら湿ったその懐かしい感触が快い。
食脱医師と雷禅は、再会早々の床となった布団の上で共に横たわり、互いに剥き出しの肌を触れ合わせている。
雷禅は、自らの筋肉質の脚を食脱医師の白い貪りたいような脚に絡ませ、逃すまいとしているかのよう。
欲情で汗ばんだ肌を触れ合わせたまま、雷禅が不思議そうに食脱医師を見詰める。
「……こりゃあ、夢なのか……俺は、死んだはず……なんだがな……」
まるで盲人が何かを確認するような手つきで、雷禅は、食脱医師の艶やかな黒髪に触れている。
腕を枕にして抱き寄せ、何度も確認するように。
まだ昼下がりの明るい室内。
雪見障子越しにそれなりの広さがありそうな庭から、光が差し込んでいるようだ。
鳥の声が聞こえる。
ごく遠く、かすかに自動車のエンジン音が潮騒のように響くということは、現代の人間界で間違いなかろう。
自分が成仏しきれず、哀しい夢を見ているのではないと、雷禅は判断する。
夢だというなら、今しがたの、この女の肌の感触はなんだ。
「夢でもなければ、そなたは死んでもおらぬ。ここは人間界。安全な場所じゃから、警戒しなくて良い。霊界は、我らには手出しできぬようにしてある」
そう説明されても、雷禅にはまだしっくり来ない。
「お前……転生してたのか? 昔のままで」
「そうじゃ。以前の生とは、全く違う種類の人間になっておったで、そなたでも気づかぬようじゃったの」
食脱医師のその言葉を聞いて、雷禅は不思議そうにその体をまさぐる。
この体が、人間界のどこに存在していたのだろう。
「本当の姿は違うっていうのか?」
「……ある場所で修行をしていての。時期が来れば、この姿に戻るつもりで、かりそめの姿に変じておった」
食脱医師のその答えに、雷禅は不思議そうに。
「……酷いじゃねえか。教えてくれたっていいだろ? ずっと待ってたんだぜ?」
雷禅は食脱医師を抱き寄せ、その小さな頭を自分の古の彫刻のようなうねる筋肉に覆われた胸板に押し付ける。
「まさか、本当に、数百年断食して待っておるとは。そなたは、つくづくうつけじゃ。何を考えておる……」
小さくため息を落とし、それでも雷禅の体に自分の体を添わせて、食脱医師は呟く。
「……だってよ。お前は、俺の子を産んだばかりに死んじまったってのに……俺は平気な顔して、腹いっぱい食い散らかしながら、日々気楽に生きろってのか? 駄目だろ、そんなの」
言いにくそうにぼそぼそ呻く雷禅の髪を食脱医師はなだめるようにそっと撫でてやる。
「我は医師じゃ。身ごもったと判明した時点で、堕胎することもできた。そうやっても、食脱医師の仕事をしていれば、もって数年じゃったろう。……なら、最後にそなたの子をこの世に残してやってもよかろうと、ただそれだけよ」
食脱医師が言い終える前に、雷禅が動き彼女に口づける。
ゆっくりと。
「……すまねえ。俺は……」
「謝るな。それを選んだのは我じゃ」
ゆったり背中も撫でまわしてやると、雷禅は更にぎゅうっと食脱医師を抱きしめる。
「……俺の血を、ずっと先の代に送り込もうと思ったんだ。そうすれば、お前が直接産んだ子は人間として生まれるから、誰にも殺されないと思った。……お前が生まれ変わって来るころに、もしかしたら子供も生まれているんじゃないのかと……そしたら……」
雷禅は、一瞬躊躇し。
「……俺とお前と子供と、三人で暮らせるかと、思って」
「哀れな愚か者よ。そなたは、全く」
照れたようにしがみつく雷禅の背を撫でながら、ふと食脱医師は問いを投げる。
「雷禅。腹は減ったか?」
「ん? ……そういえば」
雷禅は改めてその奇妙な事態を思い出す。
自分は数百年、一切食事を摂っていなかった。
飢えの究極はこうなるのだと、自分で感心してしまうような酷い事態になっていたはず。
いわゆる通常の空腹感の感じ方というよりも、まるで内臓がまるごとえぐり取られて、胴体が空っぽになった気がしていたものだ。
だが、今はその、奇妙な空疎感がない。
それこそ、何百年昔にかすかに記憶にあるような、「小腹が減った」くらいの状態である。
自分は、一体どうしたのだろう。
「……そなたの、人肉以外食糧にできない、という奇病を、我の力で治療したのじゃ。もう、普通の人間や一般的な魔族と同じような『当たり前の食事』が摂れるはずじゃ」
食脱医師の説明に、雷禅は目を見開く。
「……そんなこと、できんのかよ?」
「前の人生を終えた後に、元々仕えていた密教の仏尊の元で修行した。前以上の治癒の力が使える上、色々便利なこともあってな……。まあ、それだけに、なさねばならぬことも……あるのじゃが」
きょとんと説明を聞いている雷禅に向かい、食脱医師は、ふっと微笑みかけ、そっと尋ねる。
「雷禅、何か軽く食べた方が良いぞ。そろそろ、体が飢えを感じ始めるはずじゃ」
白い手であやされながら、雷禅は、そういえば、さきほどまではそうでもなかった空腹が、さながら刺すようななかなか辛い段階に変化しているのに気付く。
もっとも、こんな「当たり前レベル」の空腹感など、以前のあの状態に比べれば、大したものではないのだが、それでも辛いものは辛い。
正直、前の深淵を思い出してうすら寒くなるし。
同時に。
雷禅は、あることに気付く。
「……この家、誰か他にいるのか?」
恐らくこの家の敷地内で、明らかに生きて動いている誰かの気配。
しかも、複数だ。
「ああ、我の従僕のような存在じゃ。天界での修行を終えて、地上に下る段になったら、守護のためにと、仕えていた仏が付けてくださった」
こいつは、大したことが始まったのか。
雷禅は、俄然、好奇心が湧く。
詳しく聞きたい、が。
「やべえ。急に腹が減りすぎて、痛くなって……」
「居間で食事にしようぞ。起きられるか?」
自分も上体を起こした食脱医師に、雷禅は手を伸ばし。
「なあ、その前に」
「なんじゃ?」
食脱医師が首をかしげる。
「……お前の名前を教えてくれ。なんて、呼べばいい?」
かつて自分はこの女と子を成しながら、名前すら知らなかった。
あの時代、女が男に名前を教えるのは、元よりの家族でなければ、夫となるべき男だけで。
「……聖果(せいか)。聖果と、呼ぶが良い」
ふっと笑った食脱医師のその顔は今まで見た中で、一番優しかったのだ。