螺旋より外れて
暖かい、春の日である。
新年度の重圧から解放されかけている街は、トルコ石色の空もあってか、いつになく浮きたって見える。
冬が遠のき、ふわんとした特有の春の空気が流れる皿屋敷市は、天気予報通りの快晴だ。
昨夜の春雨がまだ地面に湿り気を残す公園をすり抜ける桑原和真は、背中のナップザックを抱え直してぐぐんと伸びをする。
「おかしいな」
彼は立ち止まる。
そこだけ冬の寒い空気に当てられたかのように、ぶるりと身震いして周囲を見回す。
「やっぱりなんかあるぞここ。なんでこんなに”寒い”んだよ!?」
桑原は改めて地面を見回す。
芽吹いた春の花が、地面に落とすまだらの淡い影。
そこに向かって、彼は叫ぶ。
「おい!! 出てこい!!」
その言葉が終わるのも待たぬくらいである。
まだらの地面から、急激に更に濃い影が伸びあがる。
二次元がいきなり三次元に変換されたかのように、どんどん影は厚みを増していく。
人間の身長より髙いほど。
桑原は、思わず喉を鳴らす。
彼には強烈な悪臭を吸い込んでしまった時のような、強い吐き気がこみ上げているのだ。
「それ」は、人間ではない。
しかし、だからといって妖怪と断言していいものか、桑原にはわからない。
目の前のそれは、馴染みのある仲間の妖怪たちの相応に均整の取れた姿とは、似ても似つかぬゲテモノである。
十本もある人間の足が放射状に生えた上に鎮座する、巨人の頭部を複数出鱈目に組み合わせたような怪物。
二枚の輝く板の間に、人間にそっくりな目や鼻や口がぬるぬると移り変わり生えては過ぎる、奇怪な球体が蠢く、生き物とも思えぬ何か。
特大のサナダムシのような白いひも状の胴体らしきものから、無数の鉤爪や透明の球体が埋め込まれた「首」が生えている奇態な動くもの。
「なっ、なんだこりゃあ!!」
さしもの桑原和真が後ずさりするほど、そいつらの外観といい気配といい、異様な代物である。
妖怪だと断言できないのは、妖気とも思えないほど、そいつらの纏う気配が馴染みのないものだからだ。
肉の間に無理やり無機物を突っ込まれたように、耐えがたい違和感が押し寄せる。
この気配はなんだ。
子供の頃から馴染みのある悪霊の気配でも、比較的最近つるむようになった妖怪たちの気配でもない。
まるで地球の生き物ではないような、問答無用の拒否感を感じる奇怪さ。
「くっ……霊剣!!」
桑原は手の中に霊剣を呼び出す。
その間にも、その化け物どもはじりじり近付いてくる。
十本足が、いきなり高らかに跳躍し、頭上から踊りかかり――
「薔薇棘鞭刃(ローズウィップ)!!」
飛来した緑の棘鞭が、十本足に絡みついてひきずり倒す。
それは地響きを立てて地面に落下する。
「!?」
桑原は聞き覚えのある声、見覚えのある武器に目を輝かせる。
「蔵馬!?」
だが、それと同時に無数のサナダムシの鉤爪が、桑原をねじり殺すと言わんばかりに殺到し――
「へっ、そんなのは!!」
まとめて霊剣で切り払おうとする桑原の、剣を避けてそれは濁流のように押し寄せ……
一瞬、桑原の視界に宇宙が広がる。
深く清浄な黒。
しゅん、という軽い音。
いきなり、桑原の目の前には何もなくなっている。
さっきまで視界一杯に広がっていた特大サナダムシは、影も形もない。
「なっ、なんだ……!?」
桑原は咄嗟に状況が把握できない。
ただ、視界の端で、不気味な板と球体が、その目らしきものを自分から外して別方向に向けたのがわかる。
「霊丸!!!」
まばゆい光は、あまりに馴染んだあの技。
「浦飯ィ!?」
今はまだ魔界にいるはずの友人の必殺技が視界をよぎる。
炸裂。
しかし、とても耐えきれるほどには思えない大きさの板と球体は、まるで撥水素材に水をかけられただけのようにしれっとそれを耐え凌ぐ。
目らしき器官が現れ、それが濃いオレンジ色の光線を霊丸が飛来した方向へとブッ放つ。
そこにいたのは、確かに、馴染みのあの三人だ。
素早く避けたのは、飛影。
微動だにしないのは蔵馬。
霊丸を連射し押し返そうと試みているのは、浦飯幽助に間違いはない。
そして――もう一人。
澄んだ碧い目が印象的な、上品な美男子。
直垂らしき古めかしい装束は淡い金色にきらめいている。
しっとりとして穏やかそうに見えるその男の放つ、神々しいまでの圧倒的な力に、桑原は思わず戦慄が駆け抜けるのを感じる。
その「彼」が口を開いた。
「一人相手に、用心深いことだ。この情勢なら無理もないが」
やはり深い響きの耳に快い声より早く、あの清浄な「黒」が奔る。
まるで暗黒の惑星の引力に呑み込まれたように。
板と球体は、そこから消えて失せる。
その反対、視界の端で、黒い炎が閃く。
「ちっ!!」
炎を纏う剣を振るい、飛影が十本足に斬りかかっている。
しかし、桑原が見る限り、どうもおかしい。
あの、邪王炎殺剣で斬り付けられているにも関わらず、十本足の奇態な肉体には焦げ跡どころか傷一つついていない。
「くっ!! やはりこれも駄目か!!」
飛影が飛び退いた跡に、化け物の頭部から緑色の液体が浴びせられる。
じゅうじゅう溶ける地面を視認し、桑原の背筋に嫌悪と恐怖の悪寒が奔る。
「飛影さん、ここは引いてください」
あの目の美しい見知らぬ美男が警告する。
咄嗟に飛び退いた飛影の向こうで、空間が黒く染まり、歪む。
あっという間もない。
十本足は、背後に現出した、黒いブラックホールのような歪みに呑み込まれ、一瞬というのも愚かしい時間で、この世から消え失せたのだ。
「おおい、桑原!! 無事かあ!!」
浦飯幽助が、もはや何の警戒心もない安心しきった足取りで、桑原に近付いてくる。
その後ろには、蔵馬、飛影、そして、あの浄闇の男。
桑原は、一体何が起こっていたのか把握しないまま、彼らを見詰めるしかなかった。
新年度の重圧から解放されかけている街は、トルコ石色の空もあってか、いつになく浮きたって見える。
冬が遠のき、ふわんとした特有の春の空気が流れる皿屋敷市は、天気予報通りの快晴だ。
昨夜の春雨がまだ地面に湿り気を残す公園をすり抜ける桑原和真は、背中のナップザックを抱え直してぐぐんと伸びをする。
「おかしいな」
彼は立ち止まる。
そこだけ冬の寒い空気に当てられたかのように、ぶるりと身震いして周囲を見回す。
「やっぱりなんかあるぞここ。なんでこんなに”寒い”んだよ!?」
桑原は改めて地面を見回す。
芽吹いた春の花が、地面に落とすまだらの淡い影。
そこに向かって、彼は叫ぶ。
「おい!! 出てこい!!」
その言葉が終わるのも待たぬくらいである。
まだらの地面から、急激に更に濃い影が伸びあがる。
二次元がいきなり三次元に変換されたかのように、どんどん影は厚みを増していく。
人間の身長より髙いほど。
桑原は、思わず喉を鳴らす。
彼には強烈な悪臭を吸い込んでしまった時のような、強い吐き気がこみ上げているのだ。
「それ」は、人間ではない。
しかし、だからといって妖怪と断言していいものか、桑原にはわからない。
目の前のそれは、馴染みのある仲間の妖怪たちの相応に均整の取れた姿とは、似ても似つかぬゲテモノである。
十本もある人間の足が放射状に生えた上に鎮座する、巨人の頭部を複数出鱈目に組み合わせたような怪物。
二枚の輝く板の間に、人間にそっくりな目や鼻や口がぬるぬると移り変わり生えては過ぎる、奇怪な球体が蠢く、生き物とも思えぬ何か。
特大のサナダムシのような白いひも状の胴体らしきものから、無数の鉤爪や透明の球体が埋め込まれた「首」が生えている奇態な動くもの。
「なっ、なんだこりゃあ!!」
さしもの桑原和真が後ずさりするほど、そいつらの外観といい気配といい、異様な代物である。
妖怪だと断言できないのは、妖気とも思えないほど、そいつらの纏う気配が馴染みのないものだからだ。
肉の間に無理やり無機物を突っ込まれたように、耐えがたい違和感が押し寄せる。
この気配はなんだ。
子供の頃から馴染みのある悪霊の気配でも、比較的最近つるむようになった妖怪たちの気配でもない。
まるで地球の生き物ではないような、問答無用の拒否感を感じる奇怪さ。
「くっ……霊剣!!」
桑原は手の中に霊剣を呼び出す。
その間にも、その化け物どもはじりじり近付いてくる。
十本足が、いきなり高らかに跳躍し、頭上から踊りかかり――
「薔薇棘鞭刃(ローズウィップ)!!」
飛来した緑の棘鞭が、十本足に絡みついてひきずり倒す。
それは地響きを立てて地面に落下する。
「!?」
桑原は聞き覚えのある声、見覚えのある武器に目を輝かせる。
「蔵馬!?」
だが、それと同時に無数のサナダムシの鉤爪が、桑原をねじり殺すと言わんばかりに殺到し――
「へっ、そんなのは!!」
まとめて霊剣で切り払おうとする桑原の、剣を避けてそれは濁流のように押し寄せ……
一瞬、桑原の視界に宇宙が広がる。
深く清浄な黒。
しゅん、という軽い音。
いきなり、桑原の目の前には何もなくなっている。
さっきまで視界一杯に広がっていた特大サナダムシは、影も形もない。
「なっ、なんだ……!?」
桑原は咄嗟に状況が把握できない。
ただ、視界の端で、不気味な板と球体が、その目らしきものを自分から外して別方向に向けたのがわかる。
「霊丸!!!」
まばゆい光は、あまりに馴染んだあの技。
「浦飯ィ!?」
今はまだ魔界にいるはずの友人の必殺技が視界をよぎる。
炸裂。
しかし、とても耐えきれるほどには思えない大きさの板と球体は、まるで撥水素材に水をかけられただけのようにしれっとそれを耐え凌ぐ。
目らしき器官が現れ、それが濃いオレンジ色の光線を霊丸が飛来した方向へとブッ放つ。
そこにいたのは、確かに、馴染みのあの三人だ。
素早く避けたのは、飛影。
微動だにしないのは蔵馬。
霊丸を連射し押し返そうと試みているのは、浦飯幽助に間違いはない。
そして――もう一人。
澄んだ碧い目が印象的な、上品な美男子。
直垂らしき古めかしい装束は淡い金色にきらめいている。
しっとりとして穏やかそうに見えるその男の放つ、神々しいまでの圧倒的な力に、桑原は思わず戦慄が駆け抜けるのを感じる。
その「彼」が口を開いた。
「一人相手に、用心深いことだ。この情勢なら無理もないが」
やはり深い響きの耳に快い声より早く、あの清浄な「黒」が奔る。
まるで暗黒の惑星の引力に呑み込まれたように。
板と球体は、そこから消えて失せる。
その反対、視界の端で、黒い炎が閃く。
「ちっ!!」
炎を纏う剣を振るい、飛影が十本足に斬りかかっている。
しかし、桑原が見る限り、どうもおかしい。
あの、邪王炎殺剣で斬り付けられているにも関わらず、十本足の奇態な肉体には焦げ跡どころか傷一つついていない。
「くっ!! やはりこれも駄目か!!」
飛影が飛び退いた跡に、化け物の頭部から緑色の液体が浴びせられる。
じゅうじゅう溶ける地面を視認し、桑原の背筋に嫌悪と恐怖の悪寒が奔る。
「飛影さん、ここは引いてください」
あの目の美しい見知らぬ美男が警告する。
咄嗟に飛び退いた飛影の向こうで、空間が黒く染まり、歪む。
あっという間もない。
十本足は、背後に現出した、黒いブラックホールのような歪みに呑み込まれ、一瞬というのも愚かしい時間で、この世から消え失せたのだ。
「おおい、桑原!! 無事かあ!!」
浦飯幽助が、もはや何の警戒心もない安心しきった足取りで、桑原に近付いてくる。
その後ろには、蔵馬、飛影、そして、あの浄闇の男。
桑原は、一体何が起こっていたのか把握しないまま、彼らを見詰めるしかなかった。