螺旋より外れて

 雷禅は、実に久々に沸き立つ高揚感を味わっている。

 ここまで高揚したのは、絶食前にすら滅多になかったのだ。
 彼は強すぎた。
 誰も彼に命を危ぶまれるほどの緊迫した「戦い」を与えてはやれなくなって、だいぶ時間が経っていたのだ。

 しかし、今である。
 大日如来が。敵として彼に立ちはだかったのだ。
 密教教主。
 宇宙を体現する仏。

 異国の王者のような華麗ないでたちのそのきらびやかな男は、優雅に雷禅の前に立つ。
 あでやかな空間に芳しい香りが満ちるが、その発生源であるその仏は、油断も隙も無い笑みを浮かべている。
 舞うように優雅な動きだが、その奥にどれだけの力が満ちているか、雷禅ははっきり感じ取る。
 背後には無限に柱の林立する広大な神殿のような空間。
 さきほどまで大日如来が座っていた蓮台には、聖果が庇われている。

 おもしれえ。
 雷禅は狂暴に笑う。

 殺すつもりはないかも知れないが、殺さない理由もない。
 なにせ、仏教の慈悲から、俺ほどかけ離れた生き物はいねえだろう。
 どんなに愛しているとはいえ、その聖果だって俺のせいで一度は死んでいる。
 俺ははっきり疫病神かも知れねえ。
 そんな奴を滅ぼす理由が、このニイチャン仏にはあるかも知れない。

『私の、息子がな』

 ふと、大日如来がそんなことを言い出す。

「ああん!?」

 雷禅はきょとんとする。

『生真面目で。戦いには妥協がなくて。それでいて、自分なりの正義をその上において忠実に従う奴でな。そなたを見ていると思い出す。何故だろうな』

「ああ」

 雷禅は笑う。

「俺じゃなくて、俺の倅に似ていると思うぜ。上の倅が生真面目な奴でな。あれはだいぶ損する方だと思うんだが、気にした風もねえ」

 大日如来も笑い返す。

『似た者親子よな。運命を蹴鞠のように転がすところは、そなたの下の息子に受け継がれたようだが』

「物事を引っ掻き回すってことか? まったく、あいつもそんなとこまで似なくていいのによ」

 雷禅は幽助の溌剌とした表情を思い起こす。
 みっともない戦いはできない、例えあいつが見ていなくても。
 あいつをあれだけ転がした俺には、そのくらいの責任はあるだろう。

『私を倒せとまでは言わぬ。ただし、どこかに傷をつけてみせよ。そうすれば、リンクを許す』

 にわかに大日如来が申し渡してくる。

『私は宇宙。私は世界。戦えるか、雷禅、この私と』

「前置きが長ぇ!!!!」

 雷禅は突っ込んでいく。
 巨大な手の幻が、大日如来に肉迫した、その一瞬。

 強烈な光と衝撃波が、雷禅を襲う。
 柱を何本もぶちぬいて、雷禅は遥か彼方に吹っ飛ぶ。
 崩れ去った柱のガレキは途中で光となって消える。
 夏に死んだ人のように、雷禅は蛍みたいな光に包まれて倒れ伏す。

 雷禅は何が怒ったか認識せず、半ば気絶して倒れている。
 聖果だけがそれを見て取ったのだ。
 大日如来の全身が太陽のように苛烈に輝き、核爆発のように雷禅を吹っ飛ばしたのを。
 恐るべき力。
 当たり前であるが、毛の先くらいの力を出しただけで、雷禅は一撃で子犬よりも脆く吹っ飛んだのだ。
 勝負にならない。
 大日如来は何を――

『聖果。終わったと思うか?』

 ふと、大日如来が振り向いて問う。
 聖果はきっぱり首を横に振る。

「いえ、あれはしぶとい、しぶとい男にございますゆえ」

『良い答えだ。そして、その通りだな』

 いきなり、まばゆく輝く巨大な手が空間を薙ぐ。
 しかし、大日如来に触れる間際、光の粒となって消えていく。

 馬鹿な、と雷禅の呻きが聞こえた気がする。
 大日如来はニンマリと笑う。

「気配が消えた……」

 聖果がかすかに呟く。
 それも道理、まるで死んだかのように雷禅の気配が消えたのだ。

『こざかしくはないか、我が子よ』

 しかし、大日如来がどこかへ手を伸ばした次の瞬間。
 つままれた状態の雷禅が、彼の目の前に持って来られている。
 雷禅は血まみれだ。

「ちっくしょう!! てめえ、どうなってやがる!!」

『これが我が力。我は宇宙。宇宙のどこも、我の体と同じ。どんな術法も策も、我が前では意のままになる』

 ぽいっと雷禅を空中に放って、大日如来は腹に一撃。
 なすすべもなく雷禅はまたとんでもない場所に吹っ飛ぶ。
 左前方の石柱が遠くまで倒れ行く。

『さて、次は……』

 大日如来が言いかけた時、ふとその顔が笑みの形に。

『ほう?』

 しゅん、とかすかな音とともに、雷禅が目の前にいた。
 正確には、大きな大日如来の右腕に腕ひしぎの要領でしがみついていたのだ。
 しかも、雷禅の幻の手が、その真っ白い皮膚に食い込み、一筋血を流している。

「雷禅!?」

 訳が分からず、聖果は思わず叫ぶ。

『ほう。見事』

 大日如来は片眉を上げてうなずく。

「どうだい。ニイチャン仏様よう。確かに傷はつけたぜ!!」

 雷禅がにいっと笑い返す。

『ちなみに、どうしてここに来た?』

「あ? おめえはこの世界そのものなんだろ? 特にこの空間はおめえの本拠なんだろ?」

 雷禅の問いに、ますます楽し気に、大日如来はうなずく。

「だったら、どこでもおめえの体みてえなもんだろ? 思いっ切りおめえの右手ひっつかむぞって念じたら、その辺のガレキを掴んでもおめえになるんじゃねえかって」

 大日如来はもちろん、聖果も舌を巻く。
 大日如来は宇宙そのものに偏在する真理そのものである、というのは、密教の教えの基礎の基礎。
 なら、そのあたりのガレキでも、大日如来に見立てれば大日如来に通じる。
 間違いなく密教の教えなど学んだこともないはずの雷禅が、何故か基礎にして奥義を知っていたのだ。
 恐るべき鋭いカンだ。

『よかろう、雷禅』

 大日如来が、流れた血をどこか嬉し気に掬い上げる。

『リンクを許そう。これへ』
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