螺旋より外れて

 ――雷禅。

 呼ばれたような、気がした。

 雷禅は、ゆっくり意識が浮上するのを自覚して訝しむ。

 おかしいな。
 俺、死んだんじゃなかったっけ?

 霊界の手違いだかで、一度死んで甦るという珍しい経験をした息子と違い、雷禅自身は、あの時まで死に直面したことはない。
 いや、時折虫の居所の悪い軀あたりのお陰で危い思いをしたことはあるが、いわゆる臨死体験というほどの危機に陥ったことなどないのだ。

 視界が徐々に明るくなる。

 息子に乗り移った時に垣間見た、彼の記憶の中の霊界は、思いのほか暗くはなかったはずだ。
 どこから太陽が射しているのか、人間界に比べれば、薄物一枚通した程度には明るく、妙に白っぽい。
 もしやここは霊界なのか?

 しかし、そう考えて、直後に雷禅は更に不可思議な思いに囚われる。

 息子の記憶によると、眠りながら霊界に至る、などということはないようだ。
 人間に言わせれば、死神とか冥官とかいうのか、「霊界案内人」なる案内役がやってきて、その乗りこなしている空飛ぶ櫂に乗せて、霊界に運んでくれるのだそうだ。

 ……おかしいな、誰にも会ってねェぞ?
 流石に餓死したような奴は、荷物みたいに勝手に運ばれたりするのか?
 相当、屈辱的な話だが。

「……雷禅」

 女の声がはっきり聞こえて、雷禅の意識は、きっぱりと浮上する。
 聞き覚えがあるどころか。
 聞きたくて、もう一度名を呼んでほしくて、そのためなら命も惜しくなかった、その声。

 目を開ける。

 柔らかく、生き生きとした光が差し込む部屋の、綺麗な木目の天井が見える。
 昔の人間なら、風情ある、とでも表現する、上品な、それなりに広い、端正な畳の部屋。
 光の加減でわかる。
 ずいぶん久しぶりだが、間違えるはずもない、ここは人間界だ。

「雷禅、起きたようじゃの」

 絹のような滑らかな手が、額に触れる。

 ふわりと鼻腔をくすぐる、護摩のための荘重な香の香り。

 視界の端、その蒼白で、暗い谷間に白々と咲く花に似て、どこか病的で不穏な美しさは。

「……お前……!!!」

 跳ね起きる。

 雷禅は、その女の顔を、まさに息もかかるほどに間近で凝視する。

 夢にまで見た……いや、どこからが夢なのか単なる回想なのか、判別も付きづらいほどに思い返してきた、そのかんばせ。

「久しいの、雷禅。どうじゃ、体は?」

 その女は、どこか人が悪そうな顔で笑う。
 白い手が伸ばされ、雷禅の頬に触れる。
 ふわりと、あの荘重な香り。

 あの女だ。
 病死した同類の肉を食し、免疫のできた血肉を薬に、という凄絶な修法を行う、あの女。

 食脱医師。

「おまえ……お前……ッ!!」

 雷禅はすさまじい勢いで、彼女にすがりつく。
 木の根のような腕の中に、抱き込めるように。
 ぬくもりを、覚えのある骨格と肉を感じる。
 自分が何か叫んでいるような気がするが、自分でも何を言っているのか判別できない。
 ただ、会いたかった、ずっと会いたかったのに、それを伝えるのが、何故、こんな死ぬ間際の獣みたいな叫びになるのだろう。

 雷禅が正気だったら、あらゆる力を失って餓死したはずの自分にこんな力が出せること、そもそも、ほとんど空腹を感じないことを奇妙に思ったはず。
 しかし、今や、彼の正気は度の過ぎた喜びのあまりに消し飛ばされている。
 自分がぼろぼろと、泣きわめく幼児のような大粒の涙をこぼしているのにも気付かない。

「ふう。どうやら、大丈夫なようじゃの?」

 食脱医師、雷禅の生命であり死でもある、その女は、また笑って、雷禅にそっと口づける。
 背中をさする、優しい手。

 あの時のように……

 雷禅の、最後の理性が消し飛んだ。
 今まで横たわっていた、温かい寝床の上に、雷禅はいつかのように、食脱医師を押し倒し、しがみついた。
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