螺旋より外れて

「くっ!! こいつ……!!」

 雷禅が黄泉の肘を離し、聖果を庇うように位置取りしながらファイティングポーズを取る。

 三日月龍蛇は、更に鋭い咆哮を上げ、ぐるぐるとうねりながら黄泉、雷禅、聖果の周囲の空中を周り始める。

「やめろ、雷禅!! 罠だ!!」

 黄泉が鋭く叫ぶ。

「やられた傷からは血の匂いがしない。恐らく、その傷も痛みも、幻覚だ!!」

「なんだと……そんな、いや確かに今……!!」

 さしもの雷禅の声音に困惑が滲む。

 まずいな、と黄泉は内心で舌打ちをする。
 罠は、この幻の迷宮というよりも、雷禅の反応だ。
 雷禅は闘神。
 戦いがそこにあれば、誰よりも鋭く反応する種族。
 しかし、この場合はそれが仇となる。
 幻の敵に、いくら攻撃しても、相手が倒れる訳もなく。
 疲弊していくのは雷禅だけだ。
 だが、理屈がわかっても、雷禅が「そこにいる敵」に反応を抑えることは至難の技であろう。

「くっ!!」

 稲妻のように光が閃いたかと思うと、聖果を庇う雷禅の右腕を、龍蛇の角が切り裂く。
 雷禅当人ばかりか、聖果も黄泉もぎくりとする。
 濃厚な血の匂い。
 さきほどの幻覚の攻撃ではなく、確かに今度は雷禅が傷つけられる。

「雷禅!! 聖果さんも俺に寄れ!!」

 黄泉が鋭く二人を呼びつける。
 近付いたのを確認するや否や、

「魔古忌流煉破反衝壁!!」

 咄嗟に、黄泉は得意の障壁を巡らす。
 気休めにしかならない可能性を考えたが、一応龍蛇はその障壁に弾かれるらしく、周囲をサメのようにゆっくり巡り始める。

「こりゃあ……どういうことだ、あれ、本物じゃねえならなんで俺を傷つけられる?」

 雷禅は流石に混乱しているようだ。
 無理もない。
 ここまでの幻覚を操る相手となると、魔界でもそうそうお目にかからないだろう。
 しかもこれは神が操るだけあって、かなり特殊な幻覚のようだ。

 ふと、聖果が口を開く。

「雷禅、黄泉殿。この幻術には覚えがあるぞえ」

 聖果は白い指で軽く雷禅の右腕に触れ、傷を癒してやりながら続ける。

「力がある相手にこそ、効果的な幻術じゃ。騙す相手の力を吸い取るのじゃ」

 雷禅が眉をひそめる。

「相手の力を吸い取るだと? じゃあ、この力は」

「左様。そなたを傷つけた力は、そなたから吸い取った力なのじゃ。そなたであれ誰であれ、あの幻に敵愾心を向けると、それがあの幻の力になってしまう。この傷は、そなたがあの幻に向けた敵意を、幻が取り込んで、物理的な力に変えてそなたに返したということじゃろうな」

 食脱医師のその解説を聞いて、得心したのは傷つけられた雷禅以上に黄泉である。
 なるほど、自分が察知できた内容と合致している。
 聖果の見立ては間違いないであろう。
 そうなると、対応するにはただ一つのやり方しかない。
 黄泉は面白くなさそうな雰囲気ビンビンの雷禅と、どっしり落ち着き払った聖果の二人を見回し、微笑みかける。
 ゆらゆら。
 周囲の空中を泳ぐ龍蛇の放つ明かりで、水中に差し込む月光のような幻妖な光景が出現する。

「裏を返せばこういうことだ、雷禅、聖果さん。こっちが攻撃せず、徹頭徹尾無視すれば、あの幻はただの『幻を見せる』という作用だけを生み出す、ただの神気の塊。なら、答えは一つ。徹底的に無視すること、これのみだ」

 黄泉がきっぱり宣言すると、雷禅も聖果も納得いった気配を放つ。
 実際、自分が言わなくても聖果が種明かしをしたも同然だが、雷禅に認識させるには、自分がこうして言い換えた方が良かったかも知れない。

 ついでのように、黄泉はこうも付け足す。

「魔界でもそうそうお目にかかったことのない、高度な幻術だ。神の操る幻というのは凄いものだな。これが自分のものになるのかと思うとわくわくする。雷禅レベルにも通じるのは、今のことで明白になったのだから。さて、後はその月読命の元に参上して、力を受け取るだけだな」

 うへえ、と雷禅が気分悪そうにこぼす。

「ねちょねちょのオメーに、また搦め手のすげえのがくっつくのかよ。なんか嫌だな」

 黄泉はけろけろ笑う。

「お前のことだから、後から更に質の悪いのを身に着けて、俺と軀の前に立ちはだかってくれるのだろう? また別の意味での三竦みになりそうだな」

「ちっ、気が重いぜ、化物が増量しただけじゃねーかこれ」

 雷禅の煽り立ても気にせず、黄泉は障壁を解き、軽い足取りで進み始める。
 元ライバルの手で肘を掴ませ、電車ごっこよろしく進む。

 しゅん。
 神気が流れる。
 幻の龍蛇がかすめていくのがわかる。
 だが、今更黄泉にも雷禅にも、聖果にも動揺はない。
 こっちが「敵」と認識した上で対応しなければ、幻の龍蛇は幻のまま。
 こちらに何をする力も持たないのだ。

 ふと。
 ねっとりと絡みつくようだった、幻の圧力が、不意に消えるのを、黄泉は感じ取った。
 聖果が顔を上げる気配がする。

「ふむ。抜けたようじゃの。あれが最後の試練じゃったか」

 聖果の口調で、黄泉は周囲に張り巡らされていた幻覚の暗闇が消えたことを認識する。
 鼻に感じる、しっとりした夜の湿り気と、どこからか流れて来る花の香り。
 整えられた石造建造物の、しんとした落ち着く匂い。

 雷禅がぐいと首を持ち上げて、上向いた気配がする。

「このでかい扉の向こうに、ツクなんとかって奴がいるのか」

 その声で、黄泉は目の前にある微妙な凹凸のあるものが、かなり大きな扉だと確認できる。

 ふと。
 軽い音とともに、扉が内側に向かって開く。

 流れ出た甘くかぐわしい香り。
 香りと気配の源の、奥の玉座らしきものに収まる人影。
 盲いた黄泉の目にも、輝く薄物を纏う、流麗な人影が、見えるように思えた。
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