螺旋より外れて

「うおっと、なんだこりゃあ!?」

「落ち着け、雷禅。聖果さんの御手を取って、反対側の手で、俺の肘を掴め。さあ」

「黄泉殿、かたじけない。これは我らでは無理じゃ。御頼み申す」

 突然、その宮殿に入った途端に暗闇に覆い被られた三人は、流石に動揺する。
 その中では一番動揺の少なかったのは黄泉だ。
 元々、目が見えないのだから視界を奪われても問題ないのは当然であるが。

「なあ、こりゃどういう仕組みだ。単に暗いっつうよりも……」

 雷禅が、魔族の目であっても鼻をつままれてもわからないくらいに濃く感じる闇を見回す。
 奪われたのは、視界だけではないようだ。
 気、妖気や霊気の感じ方も、なんだか熱がある時のようにうすらぼんやりしている。
 視覚以外の五感も、どうも微妙に阻害されているように感じるのだ。
 酷い風邪ひきの時のように、耳も鼻も鈍い。

「軽い幻覚を送り込まれているような感じだな。俺は実際の感覚と送り込まれる幻覚を混同することはないが、雷禅は辛いだろう。雷果さんは俺よりもっとこの事例については詳しいだろうが」

 黄泉は、少し前まで死を待ち望んでいたライバルの手を取り、自分の左ひじをしっかりと掴ませる。

「大丈夫だ。奥方の手は決して離すな。落ち着け。俺の感覚に、外敵の気配は察知されていない。そういう性質の試練ではないようだな」

 殊更しっかり、落ち着いた口調で離す黄泉に、雷禅の心拍数も落ち着いてくるのが感じ取れる。
 聖果が礼を述べてから、口を開く。

「これは、この世界の主、月読命(つくよみのみこと)の作り出す『月の幻惑宮』じゃ。月は様々なものを司るが、闇と幻の力は特に強い。月の力を帯びた暗黒は、三界の生き物の感覚では太刀打ちできない分厚い幻の海。通常は、な」

 黄泉がふっとかすかに笑う気配がする。

「なるほど、俺のこの感覚は、神の作り出す闇にも太刀打ちできると。……今更だが、光を失ってよかったな」

 雷禅が、それを受け手やや苛立たし気に。

「でもよ、これ、どっちが出口だとかわかんのか、オメー」

「わかるとも」

 あっさり黄泉はうなずく。
 闇の中でも肘を掴む雷禅には仕草の微妙な気配は伝わる。

「これが神気というのかな。それが流れていく方角だろう。辿るだけだ。すこしばかり辛抱が必要だろうが、まあ、お前さんらはついて来ればいいさ。俺に任せろ」

 雷禅も聖果も、安心した気配を放つのを、黄泉は確認する。
 よし、これで混乱は収まった。
 後は冷静に気の流れを辿るだけ。
 全員が落ち着きさえすれば、これはそんな困難な試練ではないと判断する。
 盲いたことがここでこんなに役に立つとは。
 まるで自分を接待でもしてくれているように感じる。

 ふと、聖果が夫の手を軽く握る。

「月読命の幻は、時間や空間ですら騙す、超常的なものじゃ。雷禅は面白くないじゃろうし、闘志を掻き立てられて暴れたくなるかも知れぬが、それでは術中にはまるだけ。ここは黄泉殿に全面的にお任せするのじゃ」

 聖果が静かに忠告すると、呑み込んだらしい雷禅はますます穏やかな反応になる。
 黄泉としては、何とも微笑ましい気持になる。
「闘神」雷禅も、奥方の前では子犬だ。

 黄泉が、軽く合図をしてから、そろそろ歩き出す。

「転ばないように気を付けろ。趣味じゃないだろうが、しばらくはすり足気味でな」

「仕方ねーな、ちぇっ」

「かたじけない、黄泉殿」

 雷禅、聖果がそれぞれ感謝を示し、黄泉は殊更気楽な気配を放ちながら歩き出す。

「人間界にあるという、お化け屋敷というのはこういう感じかもな。行ったことはないが」

 黄泉は、ふと思い付いた軽口を放ってみる。

「カップルで怖がりながら親密になったりという使い方もあるそうだな。俺がいては邪魔だろうが、俺がいないと出れそうにないのだから、まあ、しばし我慢してくれ」

 黄泉の言葉に、雷禅がふすっと噴き出す。

「オメー、どんな情報収集をしてたんだよ!?」

「いや、今だからぶっちゃけるが、人間界で暮らしている蔵馬の周辺を重点的にな。主に若年層の文化も調べたのだが。あいつ、前以上に女ウケしそうな見た目に産んでもらったのに、女っ気がなくて全くつまらん奴だ。俺にとっては、あまり使いどころのない知識が積み上がっただけだったな……」

 耐えきれぬように噴き出したのは、今度は聖果である。

「……黄泉殿。蔵馬殿には言わずにな。我らも黙っているゆえ。雷禅も面白そうにしてないで、余計なことは言うでないぞ?」

 雷禅が明かににちゃっと笑った声で応じる。

「なんだよ、なんで笑ってるのに気付いた」

「そんな人の悪そうな気配をダダ洩れさせていれば、我でなくとも気付くわ!!」

 その時。
 黄泉の足がぴたりと止まる。

 雷禅が怪訝そうに。

「なんだ、どうし……」

「何か仕掛けがあるようだ。どんな見た目であれ、攻撃的にはならないはずだ。落ち着いて俺について通り過ぎろ」

 黄泉が再度、雷禅の腕を取り改めてしっかり肘を掴ませた時。

「……!? こりゃあ……!?」

 目の前が、いきなりうすぼんやり明るくなる。
 その光の輪の中に、大きな影が浮かんでいるのが見える。

 人ではない。
 三日月型の角を持つ、月白の色の鱗の、龍蛇のようなもの。
 全身がまさに月のように輝くのは、三日月が地上に降り立ったかのようである。

 龍が、耳がぴりぴりするような不可解な咆哮を上げる。

「おい、反応するな!!」

 黄泉が叫んだ矢先。
 雷禅が悲鳴を上げる。

「くっ、この……!!」

 長い刀のような龍の角が、雷禅の胸板をざっくり切り裂いたのだ。
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