畜生

「なあ。あんたの名前……名前を、教えてくれ」

 食脱医師の女は、いきなり、足元に這いつくばってにじり寄る、その魔族に怪訝な目を向けるしかない。

 貴重な灯火を費やして、生業に関した夜なべ仕事をしていたらこれだ。
 ゆらゆら揺れる頼りない明かりの輪の中に、せわしなく飛び交う羽虫と――うずくまる巨躯の影。

 夜だった。
 間もなく、梅雨も明けようというその底冷えする夜に、その男はやって来たのだ。

 全体的には人間に似て、今まで出くわしたのに比べれば、そう化け物めいている訳でもない。
 しかし、見上げるばかりに大柄で、絡み合う木の根のように、異様に発達した筋骨、そしてそれを見せつけるかのような軽装は、どう見てもその辺の凡人ではない。
 大柄な体の、腰を越すほど長い蓬髪は、夏の日にぎらつく雲のような白さ。
 何といっても、巨大な手の指先から突き出す、まるで獣のような鉤爪は、どう誤魔化しても人間ではありえない。
 何より、酷薄に見える顔立ち、その左目の下から頬にかけて、まるで異国の文字のような、奇怪な紋様がうねるのが、明らかに彼女の見知る「人間」を逸脱している。

 まあ、生きている現在からすでに「生ける伝説」と敬われている食脱医師の霊的感覚には、まるで津波か何かのように押し寄せる、巨大、かつ物騒な妖気で、どんな姿を取ったとしても、そいつが魔族、それも、かなり高等な魔族であることは、一目瞭然なのだが。

 まあ、どのみち同じである。
 こやつらに、自分を食うことなど、できないのだから。

「異なことを申すな、貴様。貴様、あまり術の類が巧みでない雑な妖魔であろうが。我を呪おうなどと、下らぬことを」

 せせら笑ってやったところ、その妖魔が、まるで怒鳴りつけられた子供のように、びくりとしてぶんぶん首を横に振る。
 違う、というつもりなのか。

「違う。そんなつもりじゃねえんだ」

 低い、響きは豊かな男らしい声だ。
 偉そうに凄めれば、いっぱしの王者の風格なのかも知れないが、今は哀れな小僧である。

「あんたのことを知りてえんだ。……あんたみたいな女……初めてだ」

 その魔族の男は、女の腰に縋り付くようにして、じっと彼女の顔を見上げる。
 目が潤んで震えていて、感動とも恐怖とも困惑とも唖然とも取れる、奇妙な心の動かされ方をしたらしい。
 魔獣という言葉の似あう、凶暴そうな風貌であるのに、まるで年端もいかない少年のように見えた。
 この妖気の具合や、ふてぶてしいばかりに落ち着き払った最初の態度からするに、それなりに年を経た魔物であろうに。

「なんじゃと……?」

「俺は、俺は雷禅(らいぜん)っていうんだ。俺は……」

 その「雷禅」を名乗る魔族の男は、食脱医師の目を真正面から見据えて、唐突に語り出した。
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