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第一章 目覚め

 
 虫の、鳴き声が聞こえる。チッチッチと、規則正しい音を奏でている。

 心なしか、ふんわりとした埃と藺草の田舎臭い、しかしどこか懐かしい匂いが鼻をくすぐる。次第に鼻の奥までむず痒くなり、片手の指でごしごしと擦った。

 重たい瞼を無理やり開けた。目の前には、くすんだ茶色が視界いっぱいに広がっている。それが天井の木目であることを理解すると同時に、自分が床に仰向けで寝そべっていることが分かった。

 …全身が妙に重く気だるい。どうしてここまで。

 そこで我にかえった。勢いよく立ち上がりつつ、四方八方に顔を向ける。そうして漸く、現状を改めて理解するに至った。

(そうだ。俺は今、記憶を失っているのだ)


 —— 数十分前 ——


 どうやら、この場所は和室のようだ。目を覚ましてから今もなお続く、藺草の匂い。床が畳張りとなっているからだろうか。

 右側は灰色のセメントで塗り固められた壁、壁沿いには二つ程の大きな箪笥が置かれている。左側は、全て襖で仕切られていた。

 ここは、どこだろう。

 よろよろと上半身のみ起こす。広さは十畳程か、その空間の真ん中で、俺は呆然と辺りを見回した。どうやら、和室にしてもかなり年季の入った、古くておんぼろな場所である。室内には蛍光灯などの電気設備はなく、薄暗い。しかしそれでも周囲を認識できるということは、今が日中で、外から日の光が室内に入り込んでいるからだろう。

「どこだよ、ここ」

 先程も頭に浮かんだ疑問をぽつり、と呟いた。自分の声だ。少々掠れた嗄声。そして低い。親しみのある声。

 こんな場所に来た覚えは無い。ましてや、記憶にない場所のど真ん中でうたた寝をするなんて、到底有り得ないことである。

 とは言いつつも。ここにいる以上は何かしらの理由があって、この部屋にやってきたのだ。思い出せ。一体ここで何を。

 待てよ。そこで俺は一人、首を傾げた。

「そもそも、俺は誰なんだ」

 自問自答する。根本的な、そういった基本的なことすらも覚えていないことに気が付いた。名前も、年齢も。何もかも思い出せない。自分は、何者なのか。分からぬまま、足を地面にしっかりとつき、ゆっくりと立ち上がる。

 改めて室内を見た。寝ている時ほど広さを感じないのは、天井が低いことが要因か。確か、自分の身長はそこまで高く無かったはず。男性の平均身長を少々超えた程度だったか。その辺りの記憶も曖昧だが、姿勢良く立った程度で天井に髪が触れるということは、大分低い設計なのだろう。

 次に、身に着けている衣服…ジーンズに半袖の黒のインナーシャツ。俺は、これまた簡素な格好をしている。この軽装にも関わらず寒さは感じないし、かといって暑さも感じない。

 それもそうか、今日はもう。

「…今日は、いつだろう」

 なんということだ。名前やその他諸々に加え、今日がいつなのかさえ、思い出せない。通常、感覚的に何月何日かなんて分かるものだが、それは過去の記憶を遡り、「今日は何日」と理解するに至っている。しかし遡るだけの過去の記憶も、失ったように思い出せないのだ。

 苛々しつつも、あるものが目に入った。

 箪笥の上。小さな…百円均一で販売されているような、ちゃちな作りの置時計が設置されている。長針は十二、短針は五。今は午後五時のようだが、単純に時刻を表すだけであれば、そこまで目に留まることは無かっただろう。

 その時計の盤上には、今日が何日かを示すカレンダー窓があった。

 ゆっくりと時計に近づき、そのカレンダー窓を凝視した。四角い窓は三つ存在し、左から「30」「10」「10」と表示されている。

左から順に「年」「月」「日」を示しているのだろう。そう考えると…

(平成三〇年、十月十日ということか?)

 これで日時は分かった。しかし、いかんせん自分が何者か、またここが何処かという点において、答えを見出すことができていない。

「ん?」

 その時足下に、興味の惹かれる物が置いてあることに気が付いた。しゃがんで、それを近距離で見る。

 花だ。コスモス、だろうか。複数本の花が、茎のところで束にされている。薄暗い室内においても、つい先程まで日の光の下で咲いていたかのように、鮮やかな白色を輝かせている。

 不思議なことに、俺はその花をどこかで見た覚えがあった。それがいつなのか、場所はどこなのか。思い出すことはできないが。

 手を伸ばし、それに触れる。

 その瞬間。巨大な掃除機のような、強烈な引力。同時に目が眩む程の白い光。その光に全身が吸い込まれていく。

 我慢できない。引っ張られないように足で踏ん張っていたが、とうとう俺は足から吸い込まれた…気がした。


 —— あ…か、さん ——


 それまでの引力が嘘であったように、ぱったりと無くなった。目が眩んで瞼を閉じていたが、再びその瞼を開けた時、俺は驚いた。

 周囲の情景が一変しているのだ。それまでの古びた和室の風景は何処へと消え去り、視界は光り輝く白一色となっていた。

 澄み渡る空の爽快な匂い。ここは花畑か。畳の上にあったものと同じ白いコスモスが、見渡す限り一面に咲いている。風が吹くたびに花や葉が合わさり、さらさらとメロディを奏でているように、心地良い自然の音を生み出す。

 花々に囲まれ、俺は座り込んでいた。

 なんだ、これは。理解ができない。俺はただ、花を触っただけだ。ゆっくりと立ち上がり、目を何度も瞬かせる。

「どうしたの?」

 その時、俺の背後から声…大人びた、はっきりとした声が響いた。振り向くと、そこには一人の女が立っていた。

 白い薄手のシャツに水色のスカート、麦わら帽子。長い黒髪がさらさらと風に揺れる。純白の肌をした腕や脚は、周囲の白い花々に同化していた。

「き、君は」顔を見ようにも、太陽の光が燦々と照らされ、眩しくて見ることができない。

「ほら、こっちよ。おいで」

 戸惑う俺を尻目に、彼女は背を向け走り出した。

「待ってくれ!」

 俺も彼女につられて走り出す。一歩踏み出す毎に俺の体が風を切り、その勢いで花が大きく揺れる。

 もう少し。手を彼女に向かって伸ばしたその時、頭の中に声が響いた。


 —— あすかさん。


 またも声が聞こえたと思ったら、視界の情景は元の薄汚れた和室に戻ってしまった。

 四つん這いで、深く息を吸う。三六〇度、もちろん誰もいない。この部屋にいるのは俺だけだし、白いコスモス畑があるはずもない。

(…彼女は一体)

 誰、だったのだろう。顔をまともに見ることができなかったので、何者かは分からなかった。

 だとしても、これだけは分かる。彼女は俺にとって、親しい間柄の誰かであること。それも特別な存在と言える程。そう思える程、俺の心の中にあった不安が消え、代わりにどこか温かい、安心感で満たされたのだから。

 少しの間、彼女のことを思い出そうとしたが、結論から言えば徒労に終わった。

 しかし、思い出したこともあった。コスモスの花束を触った直後と、ここに意識が戻ってくる直前に頭に響いた声。言うなれば、あれのお陰である。
 あの声の主は思い出せないままではある。しかし聞いた瞬間、まるで降って湧いた様に次のことを思い出した。

「俺の名前は…飛鳥。関口飛鳥、そうだったな」

 一つ目に名前である。「そう、そうだ」と誰に言うまでもなく訥々と呟く。己の名前を口に出しただけだというのに、嬉しくなってきた。

 それに他にも。二つ目は年齢。三十五歳であること。最後は職業。教師として、東京都北橋市にある、常盤小学校に勤務している。現在は確か、二年三組の担任を任されていたはずだ。

 全部でこの三つ。「なんだ、それだけじゃないか」と傍から見ればそうだが、己が何者かという点を理解しているか、していないかでは、気持ちの余裕の度合いは雲泥の差である。

 床に落ちているコスモスの花束を見た。薄く色褪せ、透き通るような花びらにいくつもの皺がついている。触る前までは綺麗だったというのに。茎と切り離され、数時間以上経過した後のように、萎れている。

 試しにもう一度触ってみる。しかし今度はフラッシュバックのような出来事は起きなかった。

 念のため背中のリュックサックに入れようと、その花を優しく手に持った。

 …リュックサック?

 何ということだ。掌を額に当てる。これまで背負っていたというのに。仰向けで寝転がり、少々背中に違和感もあっただろうに。何たる鈍感さだろう、俺は今までリュックサックを背負っていたのか。

 花を再度、床に置く。その場に座り勢いよくそれを下ろし、目の前に持ってきた。

 紺色の、ノーブランドのリュックサック。ポケットは大小二つ備わっている。間違いない。これは俺の物だ。雑貨店で大安売りされており、深く考えず購入したものである。仕事に行く際はいつも使っていた。

 もしかすると、この中に何か…現在に至るまでの手がかりが入っているのかもしれない。ごくりとつばを飲み込み、ゆっくりと大きいポケットのジッパーを開ける。

 思った以上に沢山のものが入っていた。懐中電灯が一本。紐のついた丸い何かが五つ。下部に窪みがある蝋燭が五本。安っぽいライター。細長い空き瓶。以上。小さいポケットの中には何も入っていないようだ。

 様々気になるものもあるが、存外ぱっとしない物ばかりである。しかし、しいて言えば、光源となる物が多いということであった。

 置時計に目を向ける。午後五時。直に日も暮れ、あたりは暗くなる。そしてこの部屋には、室内灯というものが見当たらない。たった一室を見て全てを言うのは少々言い過ぎだが、この建物には電気が通っていないのではないか。そう考えると、日が暮れてからはこのリュックサックの中身の物が、役に立つはず。

 取り出したそれらをリュックサックに戻していた俺は、奥底に更に何かが入っていることに気が付いた。

 ゆっくりとそれを取り出す。それは小さな封筒だった。表面にはゴシック体で、文字が書かれている。


 九月二十日 あなたの身に何が起きた?


 それ以外、何も書かれていない。

 九月二十日といえば、今から約三週間前のことである。不審に思いながらも、封筒を開けていく。

 A4判の藁半紙が一枚入っていた。半分、そのまた半分と、小さく折り込まれている。俺はゆっくりとそれを取り出し、紙を開いてみた。

 中には文章が載っていた。それを黙読する。



 失った記憶を、探してください。
 あなたは今、失った記憶を見つける『記憶さがし』をしてします。記憶は、あなたがいるこの場所の至る所に、物体で存在しています。散策し、封筒表面の問いの答えを教えてください。
 注)リュックサックの道具は必要に応じて使ってください。また、この場所から出ることはできません。



 ぱちぱちと、瞬きを何度もする。

 記憶さがし?そんなものに参加した覚えは無い。封筒の表を見る。

 九月二十日、自分の身に起きたこと…もちろん俺は、この問いの答えについて、何も心当たりは無かった。無かったのだが、何だろう。この物忘れで片付けられそうにない感覚は。

 とにもかくにも、これで分かった。名前や年齢ですら覚えていなかったのは、記憶さがしとやらで、記憶を失っていたからなのだ。
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