たんぺん。
古めかしい門構えをくぐり、妻と共に境内に入る。
中は雑多な参拝客で溢れかえっていた。近所にあるその寺は、知名度から普段より賑わっている。三が日を終えた平日であっても、それは変わらなかった。
「天気が晴れて良かったね」
「ああ」
隣で歩く妻が、にこにこと笑顔を浮かべている。二日前までの天気予報では、今日は曇りか、もしくは雨の予報だった。折角の参拝である。淀んだ天気の中で行ないたくはなかっただけに、朝雲間から太陽の姿が見えた時は安心した。
「それじゃ、並ぼうか」
そのまま二人で、賽銭箱まで続く列に並ぶ。
「五円玉はあるかい?」
そう妻に聞くと、てへへと彼女は頭を掻くそぶりをした。
「私、財布を忘れてきちゃって。あなただけ参拝しなよ。隣で立って待ってるから」
「ああ、そうなのか。それなら…」俺は財布にあった唯一の五円玉を、妻の目の前に翳して見せた。「これを使うと良い」
「あなたのは?」
「良いよ、俺はなんでも」
「…うーん。それなら、一緒に投げましょうよ」
「一緒に?」
「うん。お願い事は、二人とも一緒だろうし」
「それもそうだな」
周りからの奇異な眼差しを感じつつも、気にせず二人手を取り合う。先頭に来たところで、手に握った五円玉を賽銭箱に投げる。二礼二拍手の後、俺は両手を前に合わせた。妻も同じように。二人とも目を閉じて、心を込めて祈る。
参拝の後の過ごし方は、いつも決まっていた。
妻と二人で、境内を出てすぐのところにある甘味処の草まんじゅうを注文する。食べ終わった後は軽く近辺を散歩し、昼前には予約している蕎麦屋で蕎麦を食べるのであった。
「やあ、こんにちは」
「あ。佐藤さんと、奥さん。どうもどうも」
甘味処につくなり、色黒の店長はにこりと白い歯を見せて笑った。俺達夫婦と、ここの店長は顔見知りだった。なんたってもう八年も前から、今の店長が従業員だった頃から、頻繁に妻と通っているのだから。
「今日も、いつものこれかい。美味しく焼けてるよ」
店長は、四角い鉄板に置かれた円状の草まんじゅうを指差した。俺は肯いた。
「君も食べるよな」
妻に訊くと、彼女は申し訳なさそうに眉をひそめた。
「一つで良いわ。今日はそこまでお腹が空いている訳でもないのよね」
「良いの?」
「ええ」
「分かった。じゃあ店長、草まんじゅう一つ」
「なんだい。奥さん食べないのかい?」
「今日はお腹一杯みたいで」
「ふうん。それなら後で奥さんにあげなよ。サービスしとくから」
「え。でも…」
「良いって良いって。あんたには昔からお世話になってるし」
店長は、てきぱきと手際よく草まんじゅうを紙に包む。ものの数秒後には、俺の手に草まんじゅうが二つ収まっていた。
「ありがとうございます」
「ははは。熱いうちに食べとくれ」
快活に笑う店長に俺は頭を下げると、隣に立つ妻と共に、湧き水の水路沿いに置かれた椅子に腰を下ろした。
「あなた、食べて良いわよ」
「そう?なら遠慮なく」
俺は草まんじゅうを口いっぱいに頬張った。よもぎの芳醇な香りを存分に楽しみつつ、口の中に含んだ粒餡の甘さに舌鼓を打つ。美味しい。もはや何十…いや、何百と口にしているのだが、それだけ食べてもこの草まんじゅうは絶品に思えた。
「まあまあ、佐藤さん。今日はお早いのねえ」
妻とお茶を飲んでいると、近辺に住む老婦人が笑顔で話しかけてきた。彼女は俺達と同じく、この店に通う常連客だ。故に長年の付き合いだった。
「ええ、今日は混みそうでしたので。お散歩ですか」
「健康のためにね。でも、こう歳をとると駄目ね。足腰がてんで言うことを聞かないのよ。すぐにもう、疲れちゃってねえ。こうして、ここまでやってくるのが精一杯よ」
杖を使い、老婦人はゆっくりと隣の椅子に座ろうとする。
「あなた」
妻に肩を叩かれ、俺は無言で肯くと同時に、老婦人の手を取った。
「お手伝いしますよ」
「あら、お優しいこと。ありがとう」
ゆっくりと、老婦人を椅子に座らせた。俺もまた、椅子に座り直す。互いに、白い息を吐く。
「参拝は終わったのかしら」
「ええ。先程妻と二人で」
妻は老婦人に会釈する。老婦人は、遠い目をして、うんうん頷いた。
「あんた達はいつも仲が良いわねえ」
「はは。そう思います?」
「草まんじゅう、冷めちゃうわよ」
「ああそうだった」
妻にそう言われ、俺は手元の草まんじゅうを無意識に口に運ぶ。しかし先程感じた甘みは、もう感じなかった。
「おばあちゃん、おばあちゃん」
甘味処の従業員の少女が、店の前にいる老婦人に声をかけた。老婦人は明るい笑顔を彼女に見せる。
「あら、なっちゃん。草まんじゅう一つちょうだい」
「あ、了解。…てかさ、さっきまでそこにいた男の人と話をしてた?」
「していたわよ」
「おばあちゃん知り合いなの?」
「ええ。数年来の友人になるわねえ」
「へー、そうなんだ」
少女は紙にくるんだ草まんじゅうを、老婦人のもとに持っていく。
「あの人、なんかおかしくなかった?一人だったのに、まるで隣にいる誰かと話してるみたいだった」
「なっちゃん、彼と会うのは初めて?」
「うん。あたしお父さんのお願いで、冬休みだけのヘルプだもん。できるのはこれだけ」銀色のトングで、鉄板の上の草まんじゅうを指す。「おばあちゃん、知り合いなの?」
「彼、佐藤さんっていうんだけど」老婦人は草まんじゅうを受け取ると、俯き加減にお茶が入った湯呑みを見た。「彼ね。奥さんと、ここにずっと通ってるのよ」
「奥さん?でもそんな人…」
いなかったじゃないと続けようとする女の子を、老婦人は首を振って静止する。
「佐藤さんと奥さん、もう八年かしら。それこそ彼らがまだ結婚する前から、ここに通われていたのだけれど。三年前に不幸な事故に見舞われて。奥さんが、亡くなっちゃったのよ」
— あら佐藤さん。今日はお一人? —
— 妻なら隣にいますよ。ほら —
「私達もそうだけど、佐藤さんは相当なショックだったんでしょうねえ。奥さんがいなくなったことを認められないくらいに」
そのいたたまれない様子に、ここに通う者…佐藤夫婦を知る者達の中で、暗黙の了解がとられた。『佐藤さんの奥さんが、そこにいるように扱うこと』。彼の心に、できる限り寄り添ってあげようと考えた訳である。
「皆で、そう話し合ったの?」
「そういう訳じゃないんだけど。自然とそうなったっていうのかねえ」
「ふうん。でも、仮にもお客さんの一人なんだよね」
「佐藤さんは特別な人なのよ」老婦人は口の端に笑みを浮かべた。「ここは今でさえ繁盛しているのだけれど、少し前まではどこも経営難に陥っていたの。彼は実業家でね。少しでも助けにと、ここの皆にお金を分けたそうよ」
彼のおかげで今がある。老婦人はそう述べた。
「あの人はもちろん、奥さんも人柄が良かったことも関係してるさ」
そこで店の奥から、少女の父親である店長が現れた。
「へえ。でもさあ、誰も本当のことを言おう…とはならなかったのね」
「馬鹿。『奥さんは亡くなったんですよ』なんて身も蓋もないこと、言えるわけないだろ。ただでさえ、あの事故の後の佐藤さん、不憫で仕方なかったんだからよ」
「あれからもう、三年も経つのねえ」
老婦人のしんみりした言葉に、少女はぼんやりと思った。
亡くなった妻を忘れられずに、三年経った今もその姿を追い続ける夫。ドラマか何かの創作物語であれば素敵にも思うだろう。しかし実際には切なく、物悲しいものだった。
「まあ、とにかくさ」店長は腰に手を当て、一度深く首を縦に振った。「話合わせしかできねえけど。佐藤さんがいつか前を向けるように、ここにいる俺達皆、祈ってるんだよ」
墓地にて。目の前の墓石に水をかけた後、俺は墓の前で胡座をかいた。
「やあ。来たよ」
用意していた菊の花を、花瓶に挿し水を入れた。
「今日も行ってきた。参拝して、草まんじゅうを食べて。それと、君の好きだった十割蕎麦を食べてきたよ。昔は少し苦手だったけど、最近は好きになってきた」
ふう、と溜め息をつく。
「…でも。また彼らの優しさにあやかっちゃったなあ。これ、店長から。君の分をサービスしてもらったやつ」
草まんじゅうを一つ、紙ごと墓石前に置く。そうして、青空を仰いだ。
「皆に申し訳ないって?…うん。それは俺もわかってるんだけど。でもどうしても、さ」
三年前。妻を亡くしたあの日の後。幾夜と悲しみに暮れた後のこと。亡くなった現実を受け止められ無かった故に、妻の幻を実態として感じるようになった。それが願望からの思い込みであることは重々承知だった。しかし当時はそれに浮かれ、そのまま妻と「二人」で、いつものように寺を訪れた。
すると出会った人達は皆、妻がいるように接してくれた。
もしかすると、本当に妻がいるのではないか。事故は悪い嘘だったのではないか。その時はそう思った。しかし現実は残酷で、思い込みからくる幻は長く続かないようだった。
やめるべきだ。何度もそう思った。しかし家にいると、一人であることを強く感じた。妻の死。その事実にこの先耐えられる程、俺の心は強く無かった。叫びたいくらいの悲しみ、不安、切なさ。失って更に増す、妻への愛。
いつしか、妻を一番に感じることができる場所になっていた。それがここだ。皆の優しい嘘に、いつも助けてもらっている。
だから、そう。俺はまた来てしまう。亡き妻と一緒に過ごしているように。いつか、妻の死を、きちんと受け止められるようになるまで。
「近いうちにまた来るよ。草まんじゅう、一緒に食べような」
——了
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