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たんぺん。

 
 田んぼの一件があったため、配達はいつもより少し時間がかかってしまいました。学校に行く前に一度帰宅すると、待っていたのは慌てふためく母の姿でした。母は私が帰ってくるなり、私の両肩を掴み揺さぶってきました。

「あんた、大丈夫だった?怪我はない?」

 一体どうしたというのでしょう。お疲れ様ではなく、大丈夫とは。私は母を落ち着かせ、理由を聞いたところ、開いた口が塞がりませんでした。

「事故?」

「そうそう。町の外れで大きな事故があったみたいなのよ。あんたいつもより帰りが遅いし、あたしはあんたが巻き込まれたと思ってヒヤヒヤしたわあ」

 肩を掴んでいた手でバンバンと肩を叩かれ、私は正気を取り戻しました。居間に入ったところで、ゆっくりと尋ねた気がします。

「その外れって、どのあたりだったの?」

「◯◇町五丁目のあたり、三時頃なんやって。車同士が衝突して、そりゃもう、はちゃめちゃらしいわ」

 血の気が引きました。そこはまさしくあの畦道の先を進んだ先であり、私が直前で引き返した場所でしたから。もし、私があのままあの道を通っていたら、私はどうなっていたのでしょう。

「あの、母さん。実は」

 そこで私は、母に畦道であったことを話しました。自分でも、馬鹿馬鹿しいとは思います。顔が無い女性と出会ったなんて。母のような大人が聞けば、「なーに言ってんの」なんて呆れられることは目に見えていました。

「それ、ほんとかい?」

 しかし母はからかうことなく、唇を震わせ眉根を寄せました。母のその表情に、私はこくこくと肯くしかありませんでした。

「きぬえちゃんだねえ」

 いつのまに起きてきたのか、居間に祖母もいました。祖母はうんうんと頷くと、遠い目をして言いました。

「きぬえちゃん?」

「あんたも、助けてもらったんやなあ」

「あんたも?助けてもらった?」

 頭の中がぐるぐる回って、収拾がつきません。祖母は柔和な顔つきのまま、私に教えてくれました。

 数十年前の話です。母がまだ東京ではなく、N町に住んでいた頃のこと。中学生の母には、研二君という同年齢の男の子の友達がいました。その子の母親が、祖母の言う『きぬえちゃん』…つまり絹江さんだというのです。

「きぬえちゃんは、今でいうシングルマザーだったのよ。父親は蒸発しちまって。身寄りは他に無かったぶん、それはもう研二君を可愛がっていたのよ」

 しかし、そんな慎ましやかな親子に悲劇が襲いました。

「研二君、事故にあって亡くなっちゃったのよ。それも車の事故。即死、だったみたいでねえ」

 祖母に代わり、母が訥々と話します。表情には翳りがありました。

「絹江さん、それはもう大層悲しんで。毎夜毎夜、泣きくらしていたくらいよ」

 そうしてその数日後、悲しみの末に絹江さんが執った行動は、自殺でした。

 絹江さんは私が彼女を見た、あの畦道の真ん中で、手首を切って亡くなっていたそうです。顔が見えなくなる程に、とめどなく涙を流しながら。

「あの畦道、夏は虫や蛙が沢山とれるのよ。研二君、そういうの好きだったから。絹江さん、研二君の好きな場所で逝きたかったんやろねえ」

 子を思う親の気持ち。それを想うと、私は胸がちくりと痛みました。

「それじゃ、助けてもらったって?」

「きぬえちゃん、それからずっとあの辺りにいるのよ。近くを通る、事故や事件で命を落とすはずだった子たちを助けてるんよ。最愛の子を失った悲しみを、彼女はじゅうぶんにわかっとるけえなあ」

 母はそう宣う祖母をちらりと見た後、私を見ました。

「あんたが見た絹江さん、左右どっちかの手で『おいで、おいで』ってしたでしょう」

「う、うん」

「あれね。『もうすぐあなたの身に悪いことが起こるから、こっちに来て悪いことが過ぎるのを待ちなさい』って言っているんだと思うんだわな」

 最初は怖かったあの風貌、動き。母と祖母の話が正しいのかどうか、それは分かりません。でも、畦道から抜け出る時に体が軽くなったのを考えると、あながち間違いとは言えそうにありません。私は、彼女に助けてもらったのではないでしょうか。

 母はうんうんと肯いて、ふうと息を吐きました。

「あたしも絹江さんに助けてもらったことがあってねえ。高校生の時だったかしら。今日のあんたと同じで、事故に遭うところだったのを、あの人に助けてもらったんよ。あの人はこの町の子ども達の守り神よ。いつでも、あたし達を守ってくれてるんやねえ」



 絹江さんが存在するのか、しないのか。それはその時の私には、はっきりわかりませんでした。そしてそれを確かめようにも、その時はどうしても思えませんでした。たとえ、私があの、絹江さんに命を助けてもらっていたとしても…またあの、田んぼの畦道に向かうなんて。どうしてもできなかったのです。

 しかし彼女と出会わなければ、私は死んでいたかもしれない。それは事実でした。

 あれから数十年経った今、私は東京で家族と暮らしています。祖母も母も随分昔に亡くなり、身内がいなくなったN町に時々帰ると、私は決まってあの畦道に行きます。何度訪れようが、絹江さんと会うことは叶いません。しかし私は、それでも足を運びます。命の恩人である彼女が亡くなった、彼女の息子が好きだったというあの場所に、お花を供えることにしています。

——了
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