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たんぺん。


 あれは、私がまだ高校生だった頃の話です。

 当時、父親の不貞が理由で両親が離婚し、私は母方の実家があるN町に、母と共に東京から移り住み始めました。

 祖父はいません。話だけですが、私が幼い頃に病で亡くなったと聞いています。それ以来、実家には祖母が一人で暮らしていました。

 引っ越したばかりの私達一家は大変でした。何より深刻だったのが、お金の問題でした。祖母は数年前に足を悪くしており、貯蓄の元手といえば少ない年金のみ。母はN町で就職先を探し始めましたが、田舎町で働き口が少なく、やっと見つけた仕事も私達三人を養うにはじゅうぶんとは言えませんでした。

 必然的に、私も働きに出るべきだと考えました。学業に専念しろ、母には言われたのですが、私も家族の一員です。一人家計を気にせずのうのうと暮らせる程、私は面の皮が厚くはありません。しかし高校生を雇ってくれるような場所は、母以上に多くありませんでした。

 そこで唯一当てはまったのが、新聞配達のアルバイトでした。

 毎日二時半過ぎに販売所でその日分の新聞を受け取り、遅くとも六時までに全て配達すること。二月という真冬で深夜帯は凍える程に寒く、中々辛いものがありましたが、それなら学校の始業にも間に合います。それに私には、他に選択肢はありませんでした。

 母と祖母を何とか説き伏せ、その数日後から、私の新聞配達の日々が始まりました。

 あの時はお金を稼ぐことが初めてでした。両親や周りの知らない大人達が当然のようにやっていることが、ここまで大変なことだと強く感じました。最初のうちは、仕事が終わる頃にはくたくたになってしまって。恥ずかしながら、学校の授業の大半は受けているのか、眠っているのか分からない状態でした。

 それでも、一から二週間もそれを続けると慣れも出てくるようで、終わった後の疲れも最初よりは感じなくなりました。その時は若く体力もあったのでしょうか。

 そうして、すっかり私の日常となった新聞配達でしたが、『それ』があったのは、配達を始めてからもうすぐ一ヶ月が経つ頃でした。
 その日。私は販売所の方より、いつもより多めの配達数を示されました。

「すまんなあ。お前さんの隣のエリアを担当しとる奴、熱が出よったんや。皆で分担して配達せんと間に合わんでよ。にいちゃん、少し多く乗せとくから、やってくれへんか」

 そんなことを言って、販売所の方は申し訳なさそうに笑みを浮かべました。給料に上乗せがあるならまあ、と。私はそれを引き受けました。

 しかしながらその方の分は、私がそれまで配達していた場所から少し遠い場所にありました。面倒ごとは最初に終わらせたく思い、私はまず、そちらに自転車を走らせました。

 一番の近道が、その畦道でした。

 地図を見たのですが、見渡す限り広がる田んぼの、真ん中を通る細い道です。そこを通れば、配達する上でかなりの近道になると分かっていました。

 午前三時前。真冬で日もまだ上っておらず、もちろん街灯もありません。照らす光源は自転車のライトのみ。籠の中には懐中電灯もありますが、運転中はもちろん使えません。その暗闇は、前に進もうとする私の足をすくませます。
 
 しかしそれも今回だけ、少し我慢するだけのこと。普段はこんな所は通らないで済むのだからと、自分に言い聞かせた私は、一人肯き、その道を進み始めました。

 舗装されていないこともあり、何度か自転車の車輪を取られそうになりながらも、広大な田んぼを縦断していきます。しだいに目が慣れてきて、薄らと周りの風景も見えるようになってきました。

 そうして田んぼ道を半分も進んだ頃だったでしょうか。背後に気配を感じました。

 自転車を止め、後ろを振り向きました。誰もいません。後ろだけではなく、左右も、目の前も、よくよく視線を巡らせました。誰もいません。当然でした。

 その時の私は、自分の気のせいだとでも思ったのかもしれません。自転車をまた走らせようとした時。背筋に、ぞくりと寒気を感じました。

 ペダルにかけた足をそのままにして、またも後ろを振り向きます。先程と同じく何も見えません。

 そこで私は籠にあった懐中電灯をつけ、後方をまっすぐ照らしました。すると、遠くの方にぼんやりと、人が立っていることが分かりました。

 かなり遠くです。田んぼ道の入り口あたり…だったでしょうか。目を細めてみると、どうやら女性のようです。背が私よりも高く、髪が長い。顔や体は、流石に遠すぎますしこの暗闇です、懐中電灯の光でははっきりとは見えません。でもとにかく、人であることは分かりました。

 こんな真夜中から、農作業でしょうか。朝早くから大変だなと思いつつも、そういうものなのだろうと自らを納得させ、またも顔を前方に向け、自転車を漕ぎ始めました。

 …ですが。数メートル走らせたところで、ようやく私はそのおかしさに気づきました。

 そのあたりは見る限り水田、つまり育てているのはお米です。しかし稲作は大体秋口、十月頃に刈りをしてしまい、冬の時期には手入れなどしないと、小学生の頃に習った記憶があったのです。こんな真冬の時期に、朝早く起きて農作業など、する訳が無いのです。

 自転車を止めます。ゆっくりと後ろを振り向きます。懐中電灯を向けます。その人は、あいも変わらず、遠く離れた距離でぼうっと立っているままです。少し前に歩いたのか、田んぼの入り口のところから畦道へと数メートル入ったところに今度は立っていました。

 あの人は、何をしているのだろう。こうして見ていても、ゆらゆらと軽く左右に揺れつつ、その場に立っているだけのようです。

 しかしそう注視していたことで、気づいたことがありました。どうやらその人は右手を小さく、ひらひら上下に動かしているようなのです。まるで「おいで、おいで」をするように。

 異様な雰囲気に、なんだか怖くなってしまって、私は自転車を漕ぎ始めました。早くこの場を離れようと、脚に力を込め、立ち漕ぎで田んぼの畦道を進んでいきます。

 その時、これまで以上にゾワっとした寒気が辺りを支配したように思いました。全身鳥肌が立ち、気がとられて転倒したような気がします。

 思わず声をあげます。転んだ拍子に膝をすりむいたようで、服の内側でじんじんと痛みます。寒さに手が悴み、地面についた手の骨が、微かに軋んだように感じました。

 しかしその人影は、私の様子など気にも留めていないようで、ゆらゆらと揺れているだけです。私は徐々に、その態度に腹が立ってきました。早く行かないと、このままでは配達が定刻までに終わりません。こんなところでおかしな人に怖がって、転んでいる暇は無かったのです。

 自転車のハンドルを手に立ち上がると、私はその人の方に体を向けました。そのままずんずんと、その人に向かっていきました。配達もそうですが、まずは一言、何をしているのかはっきりしてやろう。そんな風に考えたような気もします。

 しかしその意気込みも、その人の姿をはっきりと見た途端、抜いた風船のように萎みました。

 その人、顔が無かったんです。

 いや、無かったというより、判別できなかったと言った方が正しいのかもしれません。顔の色は相対して真っ白…いや、灰色だったでしょうか。すみません、あれだけ驚いたのに、きちんと思い出せません。ともかく、目、鼻、口など、人であれば必ずあるはずのそれらを、私は見つけることができませんでした。

 全身を黒いワンピースに包んだその女性は、黒色の長い髪をしていました。遠目で見た時と同じ様をしており、やはり私の認識どおりで、右手でゆっくり私に向け、「おいで、おいで」をしていました。

 よくドラマか何かじゃ、こういう時に叫び声を上げていますよね。でも、本当に怖い思いをした時、声を出そうにも出せないんです。全身の力が抜けて、声帯にも力が入らなくなるものなのでしょうか。まさしく、私はそのような状態でした。腰も抜けて立つことができません。その場に後ろから倒れ込んだという、その瞬間すらも覚えていませんでした。

 そうして戦々恐々としている私でしたが、女性は変わらず、ゆらゆら揺れているだけ。私に近寄ることも、遠ざかることもせず。よもや襲いかかろうなどという気配は感じられません。ただ、そこに立ったままでした。

 数十秒から数分の間、その場にいれば流石に慣れてくるもののようで、初めにその女性を見た時の衝撃も薄れ、足にも力が入り、私はよろよろとその場に立ち上がりました。その間も、女性は私に向かって「おいで、おいで」をしています。

 すると、どうでしょう。途端に体が軽くなったというのでしょうか。まるで体が自分のものでないかのように、勝手にサドルにまたがり、自転車でまっすぐ進み始めます。

 そのまま女性にぶつかる…かと思いきや、自転車の前輪がぶつかる直前に、女性はフッと消えたのです。驚いて目を丸くしましたが、足はそのままペダルを漕いだまま、ぐんぐん前進します。止まることができません。まるで何かに操られているかのような感覚。でも、何故でしょう。悪い気はしませんでした。

 畦道の入り口まで戻ったところで、急に体に自由が効きました。その場で自転車を止め、後ろを振り向きましたが、目の前に広がるのは暗闇の中の田園風景のみ。女性はいなくなっていました。

 なんとも不思議な体験でした。あのような顔の無い人間が、普通いるでしょうか。明け方前の時間ということも相まって、なんだか夢を見ていたように思えたぐらいです。

 けれども、そうして呆けている暇もありませんでした。配達はまだ、一つも終わっていなかったのですから。しかしその畦道を使うのは気が引けました。私は田んぼを背にして、別の道から配達を続けました。(後半へ)
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