8.これでたったの一件落着
何時だったか、ふらっと寄った可愛らしい雑貨屋さんで見付けたゴブレットに安い葡萄酒を注ぎ込んで傾ける。
疲れを癒すのに取り合えず安いお酒だなんて、何だかおじさん臭いかな。
それもすぐにまあいっか、と思えるほどに今はぼうっとしていた。ドラゴンだなんて。それも二回目、あんなに凄いのを相手にするなんて、精神的にもどっと疲れてしまった。
魔窟ではアルグさんが宥めてくれたけれど、一人になった今は何だか不安に襲われる。だから一人で一瓶をすっかりと空けてしまって、自分の事を情けなくも思った。
晩酌が終わればさっさと洗い物を済ませて寝室に向かう。明日も依頼の確認をしなきゃいけないのだから。
私は部屋の入り口と枕元に置いてあったライトストーンランプに遮光布を被せてベッドへと潜り込んだ。
「……ん」
それから多分、少し後。一度意識の海に沈んだ気がしたのに、何故かまた暗闇で目が開いた。
もう一度眠りにつこうと目を伏せようとしたが、瞼を閉じ切る直前に闇の中で何かが動くのに気付き、意識がふっと覚醒する。
「!誰?!」
「相変わらず殺気に気付くのが早いね、メイナ」
「エルト……?」
確かにその声はエルトの声だった。けれどそれは淡々としていて、朝に枕を一突きした時とはまるで違う声色。
近付いてきたエルトの胸元から隠し持っていたライトストーンの明かりがぼんやりと漏れ浮かんだが、未だに私達を包む殆どが暗闇というのもあって、何だかエルトの気配が恐ろしく感じられた。
そして、その感じ方が間違いではないという事はすぐにわかった。
「っ!痛っ……」
ぎり、と手首が締め上げられ痛みで勝手に声があがる。
襲いはするけれど他は紳士的だったばかりにまさかと思ったが、今こんな事をやれるのはエルトしかいない。
私の体はますます恐怖で強張ってしまった。
「ど、うして……」
家の鍵は前に侵入されているし、もう疑問ではない。けれども決して私を憎んで殺意を抱いたわけではないエルトに、こうして殺す為以外の痛みを与えられるとは思わなかった。
エルトの顔が更に距離を縮め、やがて耳朶にその唇が微かに触れる。それだけでもくすぐったいのに、唇が囁き始めれば恐怖とそのもどかしい感覚で私の頭は真っ白になってしまう。
抵抗したところできっとどうにでも押さえられただろうが、その所為で私はエルトの言葉を大人しく聞くしかなかった。
「メイナ。僕はね、君を殺して生き返すと言っても、ゾンビとしてただ操作するつもりはないんだよ」
もはや人ではなく物となった死体を土属性の魔法で操り動かす。腐ったり無くなってしまった部分を魔力が補い、他の人には死者が生き返ったように見える。それが一般的な|屍術士《ネクロマンサー》。
何故なら魔術師であっても大半は、火水土風の属性しか使えないからだ。しかしその方法ではただの人形遊びと変わらない。死者の体とは一緒にいられるけれど、魂が伴っていない。
それが、闇の魔術が使えたとしたら……?
「だから傷はあまり付けずに上手く殺そうと狙っていた。君といられる時間は幸せだし、出来る事なら君の気持ちが少しでも多く僕に向くように、自分から殺されたいと言って欲しくて、仕事中は殺さないと言う条件を呑んで一緒にいる事を選んだ」
だから今までのエルトの攻撃は甘かったんだ。確かな殺気なのに、私が何度も防げてしまう。そんな事、エルトが本気になれば起こるはずもない。
話を聞いている間に何だか、嫌な予感がじくじくと痛みのように私を襲う。
「でもね。もしも君が絶対に手に入らないのなら、手の届かなくなる前に多少の妥協はしても、」
耳元ですっと息を吸う音が聞こえる。次に吐かれたたった二文字の確かな言葉は、それだけで私を凍らせた。
「――殺す」
そこで耳元からのくすぐったさは終わり、代わりに目の前で見つめ合う形になる。
どうして急にこうなってしまったのか。茶色い瞳がそれだけで私を殺そうと強い意思でこちらを見ている。
やがて両手は纏め上げられ、エルトの懐から幾度も投げられた銀のナイフが出された。冷たい色のそれは首にそっと宛がわれてもやはり冷たかった。
心臓がばくばく救済を求めていて、けれど私は抗いの声すら上げられない。そうして動いてしまえば簡単に皮膚が裂かれてしまうと思うから。
「メイナ……」
自分の息の音が、やけに大きく感じた。
少し寂しげに変わったエルトの声と同じくらいに。
「……今すぐ過去に戻れるなら、全力であの約束を取り消す?そんなにメイナは僕の事が嫌なのかい?」
「えっ?」
予想外の質問だった。おかげで口から飛び出たのは、この状況にも、それに怯えている自分にも反したとても間抜けな声。
エルトもその声に拍子抜けしてしまったのか、先程まで痛い程締め付けられていた手首への力が緩んだ。
それは良い事だけど、答えなければまたその内元通りになる。何時だ?何時だっけ。そんな事言ったの……。
死活問題なのに全然思い出せない。
「メイナ……?」
エルトも私の様子を窺ってナイフさえ浮かせた。
ここは、正直に謝って聞いた方が良い、かもしれない……かもしれない。選択が間違いだったら怖いんだけど。
私はぎゅっと目を瞑って口早に叫んだ。
「ごめんなさいエルト!それ言ったの何時だっけ!」
「えっ?」
今度はエルトが間抜けな声をあげる番だった。目をゆっくりと開ければ、声と同じように何を言われたのかもよくわからないような表情をしている。
「……あの、魔窟の中で。僕が君の首を絞めそうになった時だよ」
魔窟の中……首を絞められそうになった時……。
確かドラゴンに不安になって、それでエルトが慰めに身を寄せてくれたのかと思えば絞められていて。その後には……
「あっ」
そう言えば、そんなぼやきもしたかもしれない。言葉のあやと言うか何と言うか、ぽろっと出ただけの冗談半分な言葉だったから、すっかりと頭の中から消えていた。
「……えっと、ごめんエルト。思い出しました……」
それでも改めて考えてみれば、エルトには傷付く言葉だったのだろう。あの約束は殺される事だけではなく、エルトと仲良しで一緒にいる事が楽しかったと言う気持ちも含まれているのだから。確かに、前者の為に撤回できれば良いのだろうけど、その為に後者を否定するとそれは嘘になる。
「……。その様子だと、あの言葉。本気ではなかったんだね?」
「えっと、殺されたくはないのは確かだけど。エルトを好きって言う気持ちは嘘じゃないからね。あの時は冗談半分、みたいなもので」
「メイナ?!今なんて言った?」
「えっ?エルトをす――ああっ?!これは、子供の頃のっ!仲良しで一緒にいたいって言う気持ちの好きだからね?!今殺されても良いとかつつつ付き合いとかの好きじゃないからね!」
言葉の選択誤った……!何でもない正直な弁解のつもりだったのに!
エルトの目敏さの所為で恥ずかしい告白へと昇華されて、私は慌てて否定した。首ももうナイフが触れていないからぶんぶんと振る。
けれどその熱のおかげで、いつの間にか恐怖が掻き消されていた。何だかエルトが笑ってさえいるように見える。
「わ、忘れて。終わり、はい終わりっ!」
「ねえメイナ」
「な、何よ」
いつもの優しい声に少しだけ甘えが混じる。殺気が消えているとは言え、エルトは私の上、すぐそばにいるのだ。先程やってしまった墓穴堀りもあって、どうにも真っ直ぐに返事が出せない。
「今日はもう殺さないからさ。一つだけ、お願い。一緒に寝かせて」
「なっ?!」
そんな状況でとんでもないお願いを仕掛けてきたものだ。
エルトは私の手を取って優しく握る。どうしてもその暖かさとさっきまでの冷たさを比べてしまって、私は払い除ける事が出来なかった。冗談半分とは言え、元々は私の言葉が悪かったのだし。
「お願い。何もしないから」
「……うう。手出したら、私があんたを殺すから」
「それは、それで良いかもしれないね」
もう、何言ってるんだろうな。私も、エルトも。
そして夜はまた更けていった。
疲れを癒すのに取り合えず安いお酒だなんて、何だかおじさん臭いかな。
それもすぐにまあいっか、と思えるほどに今はぼうっとしていた。ドラゴンだなんて。それも二回目、あんなに凄いのを相手にするなんて、精神的にもどっと疲れてしまった。
魔窟ではアルグさんが宥めてくれたけれど、一人になった今は何だか不安に襲われる。だから一人で一瓶をすっかりと空けてしまって、自分の事を情けなくも思った。
晩酌が終わればさっさと洗い物を済ませて寝室に向かう。明日も依頼の確認をしなきゃいけないのだから。
私は部屋の入り口と枕元に置いてあったライトストーンランプに遮光布を被せてベッドへと潜り込んだ。
「……ん」
それから多分、少し後。一度意識の海に沈んだ気がしたのに、何故かまた暗闇で目が開いた。
もう一度眠りにつこうと目を伏せようとしたが、瞼を閉じ切る直前に闇の中で何かが動くのに気付き、意識がふっと覚醒する。
「!誰?!」
「相変わらず殺気に気付くのが早いね、メイナ」
「エルト……?」
確かにその声はエルトの声だった。けれどそれは淡々としていて、朝に枕を一突きした時とはまるで違う声色。
近付いてきたエルトの胸元から隠し持っていたライトストーンの明かりがぼんやりと漏れ浮かんだが、未だに私達を包む殆どが暗闇というのもあって、何だかエルトの気配が恐ろしく感じられた。
そして、その感じ方が間違いではないという事はすぐにわかった。
「っ!痛っ……」
ぎり、と手首が締め上げられ痛みで勝手に声があがる。
襲いはするけれど他は紳士的だったばかりにまさかと思ったが、今こんな事をやれるのはエルトしかいない。
私の体はますます恐怖で強張ってしまった。
「ど、うして……」
家の鍵は前に侵入されているし、もう疑問ではない。けれども決して私を憎んで殺意を抱いたわけではないエルトに、こうして殺す為以外の痛みを与えられるとは思わなかった。
エルトの顔が更に距離を縮め、やがて耳朶にその唇が微かに触れる。それだけでもくすぐったいのに、唇が囁き始めれば恐怖とそのもどかしい感覚で私の頭は真っ白になってしまう。
抵抗したところできっとどうにでも押さえられただろうが、その所為で私はエルトの言葉を大人しく聞くしかなかった。
「メイナ。僕はね、君を殺して生き返すと言っても、ゾンビとしてただ操作するつもりはないんだよ」
もはや人ではなく物となった死体を土属性の魔法で操り動かす。腐ったり無くなってしまった部分を魔力が補い、他の人には死者が生き返ったように見える。それが一般的な|屍術士《ネクロマンサー》。
何故なら魔術師であっても大半は、火水土風の属性しか使えないからだ。しかしその方法ではただの人形遊びと変わらない。死者の体とは一緒にいられるけれど、魂が伴っていない。
それが、闇の魔術が使えたとしたら……?
「だから傷はあまり付けずに上手く殺そうと狙っていた。君といられる時間は幸せだし、出来る事なら君の気持ちが少しでも多く僕に向くように、自分から殺されたいと言って欲しくて、仕事中は殺さないと言う条件を呑んで一緒にいる事を選んだ」
だから今までのエルトの攻撃は甘かったんだ。確かな殺気なのに、私が何度も防げてしまう。そんな事、エルトが本気になれば起こるはずもない。
話を聞いている間に何だか、嫌な予感がじくじくと痛みのように私を襲う。
「でもね。もしも君が絶対に手に入らないのなら、手の届かなくなる前に多少の妥協はしても、」
耳元ですっと息を吸う音が聞こえる。次に吐かれたたった二文字の確かな言葉は、それだけで私を凍らせた。
「――殺す」
そこで耳元からのくすぐったさは終わり、代わりに目の前で見つめ合う形になる。
どうして急にこうなってしまったのか。茶色い瞳がそれだけで私を殺そうと強い意思でこちらを見ている。
やがて両手は纏め上げられ、エルトの懐から幾度も投げられた銀のナイフが出された。冷たい色のそれは首にそっと宛がわれてもやはり冷たかった。
心臓がばくばく救済を求めていて、けれど私は抗いの声すら上げられない。そうして動いてしまえば簡単に皮膚が裂かれてしまうと思うから。
「メイナ……」
自分の息の音が、やけに大きく感じた。
少し寂しげに変わったエルトの声と同じくらいに。
「……今すぐ過去に戻れるなら、全力であの約束を取り消す?そんなにメイナは僕の事が嫌なのかい?」
「えっ?」
予想外の質問だった。おかげで口から飛び出たのは、この状況にも、それに怯えている自分にも反したとても間抜けな声。
エルトもその声に拍子抜けしてしまったのか、先程まで痛い程締め付けられていた手首への力が緩んだ。
それは良い事だけど、答えなければまたその内元通りになる。何時だ?何時だっけ。そんな事言ったの……。
死活問題なのに全然思い出せない。
「メイナ……?」
エルトも私の様子を窺ってナイフさえ浮かせた。
ここは、正直に謝って聞いた方が良い、かもしれない……かもしれない。選択が間違いだったら怖いんだけど。
私はぎゅっと目を瞑って口早に叫んだ。
「ごめんなさいエルト!それ言ったの何時だっけ!」
「えっ?」
今度はエルトが間抜けな声をあげる番だった。目をゆっくりと開ければ、声と同じように何を言われたのかもよくわからないような表情をしている。
「……あの、魔窟の中で。僕が君の首を絞めそうになった時だよ」
魔窟の中……首を絞められそうになった時……。
確かドラゴンに不安になって、それでエルトが慰めに身を寄せてくれたのかと思えば絞められていて。その後には……
「あっ」
そう言えば、そんなぼやきもしたかもしれない。言葉のあやと言うか何と言うか、ぽろっと出ただけの冗談半分な言葉だったから、すっかりと頭の中から消えていた。
「……えっと、ごめんエルト。思い出しました……」
それでも改めて考えてみれば、エルトには傷付く言葉だったのだろう。あの約束は殺される事だけではなく、エルトと仲良しで一緒にいる事が楽しかったと言う気持ちも含まれているのだから。確かに、前者の為に撤回できれば良いのだろうけど、その為に後者を否定するとそれは嘘になる。
「……。その様子だと、あの言葉。本気ではなかったんだね?」
「えっと、殺されたくはないのは確かだけど。エルトを好きって言う気持ちは嘘じゃないからね。あの時は冗談半分、みたいなもので」
「メイナ?!今なんて言った?」
「えっ?エルトをす――ああっ?!これは、子供の頃のっ!仲良しで一緒にいたいって言う気持ちの好きだからね?!今殺されても良いとかつつつ付き合いとかの好きじゃないからね!」
言葉の選択誤った……!何でもない正直な弁解のつもりだったのに!
エルトの目敏さの所為で恥ずかしい告白へと昇華されて、私は慌てて否定した。首ももうナイフが触れていないからぶんぶんと振る。
けれどその熱のおかげで、いつの間にか恐怖が掻き消されていた。何だかエルトが笑ってさえいるように見える。
「わ、忘れて。終わり、はい終わりっ!」
「ねえメイナ」
「な、何よ」
いつもの優しい声に少しだけ甘えが混じる。殺気が消えているとは言え、エルトは私の上、すぐそばにいるのだ。先程やってしまった墓穴堀りもあって、どうにも真っ直ぐに返事が出せない。
「今日はもう殺さないからさ。一つだけ、お願い。一緒に寝かせて」
「なっ?!」
そんな状況でとんでもないお願いを仕掛けてきたものだ。
エルトは私の手を取って優しく握る。どうしてもその暖かさとさっきまでの冷たさを比べてしまって、私は払い除ける事が出来なかった。冗談半分とは言え、元々は私の言葉が悪かったのだし。
「お願い。何もしないから」
「……うう。手出したら、私があんたを殺すから」
「それは、それで良いかもしれないね」
もう、何言ってるんだろうな。私も、エルトも。
そして夜はまた更けていった。