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世界は夢でできている

38.快感



 生き物の血で魔法陣を描く。そして魔術書通りに呪文を唱える。
 心臓がドキドキとしていた。
 小さな音が肉と皮の外に飛び出す事などないだろうに、まるで部屋の中に響いているようだった。
 ……否、大丈夫。
 この隠し部屋には私しかいないのだから、誰かに見つかるはずはない。そして、今までの行程は間違いなく正しくやれたはずだ。
 だから、この中央から禍々しい大悪魔が……

 とぷん。

 興奮した思考の途中で、水音のようなものが鳴った。
 インク代わりの血は使いきった。
 井戸も水瓶もないここで、その音が背後から聞こえると言う事は。
 ……マズい。
 いくら今はこの館の主が私であっても、魔女として侍女に告発されてしまえば終わりだ。
 この魔女狩りの多い世の中、嘘の告発で乗っ取りや横領が蔓延していても、私だけは何とかやり過ごしてきた。
 だが、この部屋の様を見られては繕いようがない。
 ……殺さなくては。
 振り向き、見えた、少女の姿は。

「……誰?」

 赤く、見知らぬものだった。
 地味な二房の髪を下げ、その割りに服装は高価そうなフリルや珍しい生地をふんだんに使用している。丈が短いのを、生地が足りない貧乏人と見るか、一風変わった彼女なりのお洒落と見るか……。
 とにかく、私は事を成そうか戸惑った。
 やらねばならないが、その辺の貧民であれば証言に信憑性などない。私を突き出す前に腐った役人どもに追い払われるのが良い所だろう。

「誰とは失敬やな。あんたがよんだんやろ?」

 少女が口にするのは、聞き慣れない語調。この辺りの田舎者の抑揚とは違う。勿論、貴族の使う言葉とも違った。
 村に住む貧民ならばともかく、態々遠くから招聘した者に見覚えがないはずもない。ますます奇妙な存在だ。

「呼んだ? 私は貴女なんて知らないし、呼ぶはずが……」

 私が喚んだのは悪魔くらいだ。
 と、思って、言葉が止まる。
 ……まさか。

「……いや、魔法陣は反対側だわ。それにこんな少女が大悪魔だなんて事……」

 無意識に口許を隠し、呟きながら物事を整理しようとする。だが、その前に彼女がすんなりと答えを告げた。

「そう。大悪魔なんて大層なものやない。ただの悪魔や」

 ただの悪魔。大悪魔ではなかったとしても、悪魔にただも何もあるものだろうか。
 かと言って、ただの少女が冗談を言うにもタイミングが悪すぎる。
 その内に悪魔らしきものはこちらに歩み寄ってきた。

「魔法陣もけったいな儀式もいらん。ただ、どす黒いこっちに都合の良い人間がいたら、その内の誰かに声を掛ける。それだけの存在や」

「たまたま儀式をやっている所に現れたって言うの?それはまた、随分と奇遇な事ね」

「それだけの準備をするあんたに目が留まったってだけやから、奇遇でも必然でも、お好きなように」

 そう言いながら肩を竦め、軽く笑ってどうでも良い事だと示す。
 本当に悪魔だと言うのなら、確かに彼女にとってはどうでも良い事なのかもしれない。だけど、私にはまだその真偽がわからない。
 少しずつ早まっていく鼓動を出来る限り落ち着かせ、更に確認を続ける。

「儀式も何も必要ないと言うのなら、あなた何の為に人間の前に現れて協力するの」

「悪魔だから……で、納得してくれんのやったら、あんたが成そうとしている事がこっちにも都合が良いからや」

「……代償は」

「私は力を貸すだけやからね。代償はさっきも言ったように、事を成す、それ自体や」

 悪魔の言葉は魅力的なものだ。けれど私は、どうにもすぐ手を差し出せなかった。悪魔なのだから怪しむのは当然。
 そう。私はもう彼女を悪魔だと認めていた。

「これだけ説明しても悪魔の協力に飛び付かんなんて、珍しい人間やな」

「慎重に物事を考える質なだけだわ」

 私が言葉を返すと、今度は悪魔の方が考え始める。

「……なぁ。そんな慎重なあんたが、何で悪魔を喚ぼうと思ったん?」

「どういう事?」

「欲。嫉妬。復讐。大概の人間は快感を求めて悪魔を喚ぼうとする。私らには味わえん感覚やけど。そういう人間はすぐさま悪魔に協力を仰ぎたがる」

 私はそれらとは違うと言うことか。
 でも、一体何が違うと言うのか。

「……生き残るためよ。その為だけに他人を殺そうなんて、神様は許さないでしょう?」

 魔女狩りを、私のような正統な相続人を引きずり下ろし、自らの財産にしようと利用する者。目障りな人間を陥れるため密告する者。単に残虐なショーが見たいと醜い欲で判決を下す権力者。
 女である私がこの世を生き残るためには、殺られる前にこちらからやるしかないのだ。

「なるほど。……それが世界の管理を阻害するもんやったら、そうやろな」

「結局は変わらない。快感を求めてないにしろ、欲望の為であるのは同じだわ」

「どちらにしても、私ら悪魔にはわからん事やけどね」

 わからないから聞いてみたかった。そう変わった語調で言いながら魔法の籠った凶器を渡す彼女の顔は、うっすらと笑って見えた。
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