本編
涼しげな森とは打って変わって、低い屋根の列なりはじりじりとした太陽の熱を受け入れる。季節としてはまだまだ暑くなっていくのだろうが、井戸の前には噂話で盛り上がる女性や子供達が集まり、大通りでは砂糖水売りを呼び止める声が何度も聞かれた。
あちらこちらで笑い声や騒ぎ声、売り子の声なんかが響いている。夜の妖に警戒している町だなんて嘘みたいに、平和そうな町だ。
そんな京古町は視界に入るものの、まだ少し先。ちょぼちょぼと流れ行く水の音が聞こえる小さな橋には、渡る少女と青年の姿があった。
少女は勿論豊で、青年は鬼壱だ。しかし鬼壱の髪は真っ黒に染まり、尖った耳も牙も角もなく、人間とはかけ離れた金の瞳はきちんと茶色の瞳をしていた。
服もお互いに一般町民が着るような、派手過ぎず襤褸過ぎずの着物である。
「もう諦めなよ。ほら、もうすぐそこだよ」
「いつ術が解けるかわからないだろ」
鬼壱は町からひょこりと顔を出す城の黒い屋根を見て、眉間に皺を寄せた。豊はそんな鬼壱の手をぐいと引く。
「いざ解けたら逃げればいいし、キーちゃん自分から使わないだけで、ほんとは自分で化けられるでしょ?」
「……そりゃあ、化けられるが……。それならわざわざこんな事、しなくてもいいだろ」
「掛けても今だに行くのを渋ってるキーちゃんが、自分で使うなんて思えませーん。第一今まで使ってくれなかったじゃん」
ぶうっと反論する豊の言う通りで、このまま解放してくれたならば、鬼壱は森へと逃げるつもりである。だからそれ以上同じ言い訳は出来なかった。
「それに妖と一緒にいたなんて知れたら、豊が困るだろ」
「うわー、キーちゃん私の心配してくれるの?超大好き!だから行こう!」
どんなに言っても豊の結論は同じだ。早口にそう捲くし立てて橋を渡り切ると、あとは橋から町までの短い一本道を通るだけ。
二人はその後も何だかんだとやりとりを続けたが、無事に京古の町へ辿り着くのだった。
始めに二人を迎え入れたのは、牛車も悠々と通れるほどの大きな口を開けた門。昼時の今は妖に警戒する必要がないからか、誰でも入れるようにその開いた口は固定されている。
両脇にはがっしりとした男が二人突っ立っているが、彼らは訪れたのが青年と少女であると目視すると、ただそれだけでふわああと欠伸をした。
二人に向けて軽くお辞儀をした豊とそれについていく鬼壱がそのまま進めば、門からも少し漏れ聞こえた賑やかな響きがわっと耳に届く。
ぶつかる事を謝る声。籠屋の掛け声。瓦版を売り歩く声。茶屋の呼び込み。
大通り故に整えられた石造りの道の奥では、人が駆けるだけでなく、ぱかぱかと馬の足音も聞こえた。
門の向こう、大通りだけでもこれだけ音が溢れている。それを産み出している風景だって。豊にとっては見慣れたものだったが、鬼壱にとっては一瞬で違う世界に来た様だ。
それを知ってか、豊は鬼壱の顔を覗き込んで問う。
「どー?キーちゃん」
「あ、ああ……」
意識が浮いているような状態で、ただ生返事をする鬼壱。人間が馬に乗ることも店と言う概念も知ってはいる。けれど、それは経験、体験とは違うものだ。
「来て良かったでしょー」
反応に満足したのか、豊はにこにこと笑って言った。
「それはどうか……」
「さー行こ行こ!」
豊は自分から聞いた癖に鬼壱の返事を上書きして、繋がった手を引っ張り歩き始めた。
この大通りにはやはり、相応しい大きな店が並ぶ。呉服屋や問屋、薬屋……。時折金貸し屋だとか鍛冶屋だとか、物騒で逢引には似合わない店もあるけれど。
鬼壱は何かが見える度に新鮮そうな表情をして、それからすぐに興味のない振りをした。豊もその度に頬を緩める。
ただ、それらはどれも……きちんとした給金を貰っている豊にもなかなか手が出せないものばかりを扱う店だった。
「キーちゃん、こっち」
遠い奥の方に木ノ上商店が見えたところで、少し細い路地へと曲がる。
大通りを少し逸れれば、豊にも馴染みの店が幾つも見えてきた。中でも三軒先に見えるのは、豊が大好きな菓子屋だ。
「あ!あそこ!あそこのお菓子ね、美味しいんだよ。お給金貰ったらいっつも寄って行くの」
「うわ、ちょっと待て……豊!」
繋がれている手は離れない。何故か無理に離す気にもなれない鬼壱は、豊の成すが侭に引かれていった。
引く力が止まったのは、可愛らしい色がついてとげとげした星のようなお菓子の前。他にも大福だとかきな粉餅だとかがあったが、豊の目がきらきらと輝いているのはそのお菓子の前だった。
「おや豊ちゃんいらっしゃい」
「あ!お婆ちゃんこんにちは!」
店の中から腰を曲げたままゆっくりと出てきたのは、着物の上に前掛けをした老婆。豊を見て優しく微笑んだあたり、本当によく来ているのが窺える。
「まあまあ、珍しい。豊ちゃんが男の子を連れてるなんて。想い人さんかい?」
「い、いや、違……」
否定したいものの、今もぎゅっと握られた柔らかい手はどうも言い逃れしにくい。取り敢えず老婆から視線を逸らすだけの鬼壱に対して、豊は明るく言い放った。
「そうでーす!えへへ、いいでしょ!逢引中なの」
「ば、馬鹿っ……!俺はっ」
「まあ、そうかいそうかい」
にこにこの豊ににこにこの老婆。赤くなった自分には勝てそうにないと悟ると、鬼壱ははあと溜め息を吐いた。
まあ少なくともこの店主は豊の血縁者ではないだろう。一度きり、もう会ってしまったのだから、ここは穏便に過ごした方が良いのかもしれない。そう諦めたのだ。
あちらこちらで笑い声や騒ぎ声、売り子の声なんかが響いている。夜の妖に警戒している町だなんて嘘みたいに、平和そうな町だ。
そんな京古町は視界に入るものの、まだ少し先。ちょぼちょぼと流れ行く水の音が聞こえる小さな橋には、渡る少女と青年の姿があった。
少女は勿論豊で、青年は鬼壱だ。しかし鬼壱の髪は真っ黒に染まり、尖った耳も牙も角もなく、人間とはかけ離れた金の瞳はきちんと茶色の瞳をしていた。
服もお互いに一般町民が着るような、派手過ぎず襤褸過ぎずの着物である。
「もう諦めなよ。ほら、もうすぐそこだよ」
「いつ術が解けるかわからないだろ」
鬼壱は町からひょこりと顔を出す城の黒い屋根を見て、眉間に皺を寄せた。豊はそんな鬼壱の手をぐいと引く。
「いざ解けたら逃げればいいし、キーちゃん自分から使わないだけで、ほんとは自分で化けられるでしょ?」
「……そりゃあ、化けられるが……。それならわざわざこんな事、しなくてもいいだろ」
「掛けても今だに行くのを渋ってるキーちゃんが、自分で使うなんて思えませーん。第一今まで使ってくれなかったじゃん」
ぶうっと反論する豊の言う通りで、このまま解放してくれたならば、鬼壱は森へと逃げるつもりである。だからそれ以上同じ言い訳は出来なかった。
「それに妖と一緒にいたなんて知れたら、豊が困るだろ」
「うわー、キーちゃん私の心配してくれるの?超大好き!だから行こう!」
どんなに言っても豊の結論は同じだ。早口にそう捲くし立てて橋を渡り切ると、あとは橋から町までの短い一本道を通るだけ。
二人はその後も何だかんだとやりとりを続けたが、無事に京古の町へ辿り着くのだった。
始めに二人を迎え入れたのは、牛車も悠々と通れるほどの大きな口を開けた門。昼時の今は妖に警戒する必要がないからか、誰でも入れるようにその開いた口は固定されている。
両脇にはがっしりとした男が二人突っ立っているが、彼らは訪れたのが青年と少女であると目視すると、ただそれだけでふわああと欠伸をした。
二人に向けて軽くお辞儀をした豊とそれについていく鬼壱がそのまま進めば、門からも少し漏れ聞こえた賑やかな響きがわっと耳に届く。
ぶつかる事を謝る声。籠屋の掛け声。瓦版を売り歩く声。茶屋の呼び込み。
大通り故に整えられた石造りの道の奥では、人が駆けるだけでなく、ぱかぱかと馬の足音も聞こえた。
門の向こう、大通りだけでもこれだけ音が溢れている。それを産み出している風景だって。豊にとっては見慣れたものだったが、鬼壱にとっては一瞬で違う世界に来た様だ。
それを知ってか、豊は鬼壱の顔を覗き込んで問う。
「どー?キーちゃん」
「あ、ああ……」
意識が浮いているような状態で、ただ生返事をする鬼壱。人間が馬に乗ることも店と言う概念も知ってはいる。けれど、それは経験、体験とは違うものだ。
「来て良かったでしょー」
反応に満足したのか、豊はにこにこと笑って言った。
「それはどうか……」
「さー行こ行こ!」
豊は自分から聞いた癖に鬼壱の返事を上書きして、繋がった手を引っ張り歩き始めた。
この大通りにはやはり、相応しい大きな店が並ぶ。呉服屋や問屋、薬屋……。時折金貸し屋だとか鍛冶屋だとか、物騒で逢引には似合わない店もあるけれど。
鬼壱は何かが見える度に新鮮そうな表情をして、それからすぐに興味のない振りをした。豊もその度に頬を緩める。
ただ、それらはどれも……きちんとした給金を貰っている豊にもなかなか手が出せないものばかりを扱う店だった。
「キーちゃん、こっち」
遠い奥の方に木ノ上商店が見えたところで、少し細い路地へと曲がる。
大通りを少し逸れれば、豊にも馴染みの店が幾つも見えてきた。中でも三軒先に見えるのは、豊が大好きな菓子屋だ。
「あ!あそこ!あそこのお菓子ね、美味しいんだよ。お給金貰ったらいっつも寄って行くの」
「うわ、ちょっと待て……豊!」
繋がれている手は離れない。何故か無理に離す気にもなれない鬼壱は、豊の成すが侭に引かれていった。
引く力が止まったのは、可愛らしい色がついてとげとげした星のようなお菓子の前。他にも大福だとかきな粉餅だとかがあったが、豊の目がきらきらと輝いているのはそのお菓子の前だった。
「おや豊ちゃんいらっしゃい」
「あ!お婆ちゃんこんにちは!」
店の中から腰を曲げたままゆっくりと出てきたのは、着物の上に前掛けをした老婆。豊を見て優しく微笑んだあたり、本当によく来ているのが窺える。
「まあまあ、珍しい。豊ちゃんが男の子を連れてるなんて。想い人さんかい?」
「い、いや、違……」
否定したいものの、今もぎゅっと握られた柔らかい手はどうも言い逃れしにくい。取り敢えず老婆から視線を逸らすだけの鬼壱に対して、豊は明るく言い放った。
「そうでーす!えへへ、いいでしょ!逢引中なの」
「ば、馬鹿っ……!俺はっ」
「まあ、そうかいそうかい」
にこにこの豊ににこにこの老婆。赤くなった自分には勝てそうにないと悟ると、鬼壱ははあと溜め息を吐いた。
まあ少なくともこの店主は豊の血縁者ではないだろう。一度きり、もう会ってしまったのだから、ここは穏便に過ごした方が良いのかもしれない。そう諦めたのだ。