本編
現在、神刻一二〇七年。日ノ本という国では、今だ妖と人間がいがみ合っていた。
首都である京古町でも人間が大きな屋敷を増やす一方で、妖が夜な夜な人間を襲いにやって来る状況は変わらなかった。夜は門を閉めてそこを剣の心得を持つ剣士が見張り、その中では家々の屋根を伝い、或いは塀の上を駆けて、忍術を使う忍者が見回りをする。他の大きな町は勿論京古でさえ、それで精一杯だった。
森や山、洞窟……時には町の寂れた場所からも。至る闇から、妖は生まれ、そして人間の町にやって来ては殺され、恨みの連鎖が続いていった。人間と妖のどちらかが消えるまで、争いは終わらない。
――のだが。
「キーちゃあああん!」
後ろに砂埃が起こるほど素早くしゅばばばと駆けてくる少女。金糸とも思えるような髪を惜しげもなく、切り込んだ風に揺らされるまま靡かせている。
そして少女が目的の人物にあと数歩、というところまで辿り着くと、その数歩も惜しいのか目の前の人物へと飛び付いた。
「げうっ」
細く柔らかいはずの体から繰り出されたとんでもない威力で、受け止め(させられ)ては潰れたナニカのような声を出す。それでも何とか倒れずに耐えたのは、赤髪の青年だった。髪の合間からは、何やら黄色く尖った、人ならざる証がある。
「あのなァ……」
呆れたのかほんの少しの怒りか。開いた口の中には肉も簡単に食いちぎれるほどの鋭い牙が覘いていて。けれど続きの言葉が浮かばないようで、猫目石のように輝く瞳は細長い瞳孔を少し緩めて、ただ少女を見つめていた。
「キーちゃんキーちゃん!とうとう私、分身の術を覚えましたー!」
当の少女は胸に埋めていた顔をばっと上げて大きな声で言う。爛々と光る目に映った青年の表情もお構いなし。ぎゅうっと抱きついたまま、自分の頑張りを伝えるのだった。
青年が十六にもなろう少女の頭を撫でる事はもう、滅多にない。
それに少女がもう、分身の術など覚えなくとも強い事を知っている。妖術の研究を趣味とする彼には楽しみとしての理解は出来るが、おそらく彼女には使い道があるのだろう。そしてそれは、表情を見る限り、良からぬ事で。
少女はいつの間にやら青年から離れていた。青年が許可も停止もする間もなく、さささっと指の形を変えて印を結び、仕上げに最後の形で叫ぶように唱える。
「分身のー……術っ!」
向日葵の様に明るい声が高らかに森に響くと、同時にぼんっ、と煙が立ち上る。その煙幕の中に浮かんだ一人分の影が、いつの間にかもやもやと二人分に見えてくる。
それからすぐに煙は霧散した。美しい金髪は左右対称に垂れ下げられ、胸はぷにんと豊かな忍者少女が影の通り、二人になって現れた。
青年はもう、口を出さずに取り敢えず終わるまで待っている事に決めたらしい。あれから一歩も移動せず、ただ腕を組んで何とも言えない瞳で眺めている。
終いに忍者少女二人でぴっと鏡のように綺麗に揃った格好を取ると、青年をきらきらとした瞳で見つめてきた。
「「どーお?愛らしいゆたちゃんが二人も!二倍愛したくなった?」」
「……あー、はいはい」
適当な言葉にも関わらず真に受けたのか、少女はきゃっ。と口元に手をやると、“はあとまあく”でもついたような声を上げた。
ともあれ漸く終わった少女の見世物。もう十分成果は見せたろう、と青年は片手を皿のようにして口元に持っていき、そこに流すようにふっと息を吹き掛けた。息が青年の口を出て外気に触れると、みるみるうちに青色を帯びて、その青い雲がぐるぐると少女達を包む。
そしてきゅっと一人分の狭さに縮まると、それは塵のように消えていく。
その中から現れたのは、一人に戻った少女だった。
「やっぱりキーちゃんは一人から愛されたいのね!」
ぴょん、と兎が跳ねるように青年に飛びつくと、再びぎゅっとしがみつく少女。
「言ってろ。で、離れろ」
「やだー」
「……何度も言ってるが、わかってるのか豊。俺は妖の鬼でお前は忍者なんだ。お互い敵同士なんだぞ」
「でも私は鬼壱の事、好きだもん」
もう慣れっこであるのか元より気にするつもりはないのか、豊と呼ばれた少女は鬼の鬼壱の言葉などには全く堪えない。どころか、更にぎゅうっと体を寄せて、彼女にとってはただ抱きついているだけなのだが、豊かな胸まで押し付く始末。
これには髪のように赤くなってしまった鬼壱。何とか豊を押し退けて離した。
「だァーっ!いい加減諦めろ」
「だから、やだー」
好きだの嫌いだの、そんな通理は通らない。
彼が人間を特に襲わない妖であったとしても、彼女がどれ程彼の事を好いていても、世間の目に変わりはない。ただの鬼と、妖を殺す忍者だ。
それに彼女は昔こそちんちくりんで色気も胸もなく、豊という男のような名前が原因で苛められていたが、年々愛らしさも僅かばかりの色気も増し、今では年頃の女として大分可愛らしく育った。
周囲に知られたら間違いなく殺し合わなければならない種族よりも、真っ当な人間を薦めたいのは当然である。良い感情があるのであれば、尚更。
それを同じ人間ではなく妖が薦めるのも、何だか変な話ではあるが。
「それとね、キーちゃん、逢引しよう」
なのに少女と来たら、全く、この調子である。
「お前は阿呆か!只でさえ昼はこうして森に身を潜めているのに、逢引など出来るか」
「いつもしてるじゃん。どこだって二人で一緒にいれば逢引だよ」
ぷっぷくぷー、と子供のように変な言葉をつけて頬を膨らませる豊。
でもね、と彼女は続けた。
「分身の術と同時に新しい変化の術も覚えたのです!」
ばっと手を広げて鬼壱に主張する。
今までだって数が少ないとはいえ、妖が身を潜めているこの森で逢引(仮)をしてきた。それは、豊が一緒にいたいあまり、逢引(仮)中には変化の術で妖に化けていたからである。
無論今の豊であれば弱い妖に化かされる事もあまりないだろう。だが豊のように、何かの間違いで紛れ込んだ人間が、或いは鬼壱のように起きてしまった妖がいるかもしれない。と言う鬼壱の苦肉の説得をこれで見事に交わし、呆れる鬼壱に寄り添って来たのだ。
そして先日、分身の術と一緒に、他人を変化させる術を習得したのである――!
「まさか、お前……」
「お察しの通りだよキーちゃん!痛くないから、ぱっぱと人間に変身しちゃって町に繰りだそー!」
「俺はまだ行くとは言ってな……」
しかし、煙は立ち上るわけで。
首都である京古町でも人間が大きな屋敷を増やす一方で、妖が夜な夜な人間を襲いにやって来る状況は変わらなかった。夜は門を閉めてそこを剣の心得を持つ剣士が見張り、その中では家々の屋根を伝い、或いは塀の上を駆けて、忍術を使う忍者が見回りをする。他の大きな町は勿論京古でさえ、それで精一杯だった。
森や山、洞窟……時には町の寂れた場所からも。至る闇から、妖は生まれ、そして人間の町にやって来ては殺され、恨みの連鎖が続いていった。人間と妖のどちらかが消えるまで、争いは終わらない。
――のだが。
「キーちゃあああん!」
後ろに砂埃が起こるほど素早くしゅばばばと駆けてくる少女。金糸とも思えるような髪を惜しげもなく、切り込んだ風に揺らされるまま靡かせている。
そして少女が目的の人物にあと数歩、というところまで辿り着くと、その数歩も惜しいのか目の前の人物へと飛び付いた。
「げうっ」
細く柔らかいはずの体から繰り出されたとんでもない威力で、受け止め(させられ)ては潰れたナニカのような声を出す。それでも何とか倒れずに耐えたのは、赤髪の青年だった。髪の合間からは、何やら黄色く尖った、人ならざる証がある。
「あのなァ……」
呆れたのかほんの少しの怒りか。開いた口の中には肉も簡単に食いちぎれるほどの鋭い牙が覘いていて。けれど続きの言葉が浮かばないようで、猫目石のように輝く瞳は細長い瞳孔を少し緩めて、ただ少女を見つめていた。
「キーちゃんキーちゃん!とうとう私、分身の術を覚えましたー!」
当の少女は胸に埋めていた顔をばっと上げて大きな声で言う。爛々と光る目に映った青年の表情もお構いなし。ぎゅうっと抱きついたまま、自分の頑張りを伝えるのだった。
青年が十六にもなろう少女の頭を撫でる事はもう、滅多にない。
それに少女がもう、分身の術など覚えなくとも強い事を知っている。妖術の研究を趣味とする彼には楽しみとしての理解は出来るが、おそらく彼女には使い道があるのだろう。そしてそれは、表情を見る限り、良からぬ事で。
少女はいつの間にやら青年から離れていた。青年が許可も停止もする間もなく、さささっと指の形を変えて印を結び、仕上げに最後の形で叫ぶように唱える。
「分身のー……術っ!」
向日葵の様に明るい声が高らかに森に響くと、同時にぼんっ、と煙が立ち上る。その煙幕の中に浮かんだ一人分の影が、いつの間にかもやもやと二人分に見えてくる。
それからすぐに煙は霧散した。美しい金髪は左右対称に垂れ下げられ、胸はぷにんと豊かな忍者少女が影の通り、二人になって現れた。
青年はもう、口を出さずに取り敢えず終わるまで待っている事に決めたらしい。あれから一歩も移動せず、ただ腕を組んで何とも言えない瞳で眺めている。
終いに忍者少女二人でぴっと鏡のように綺麗に揃った格好を取ると、青年をきらきらとした瞳で見つめてきた。
「「どーお?愛らしいゆたちゃんが二人も!二倍愛したくなった?」」
「……あー、はいはい」
適当な言葉にも関わらず真に受けたのか、少女はきゃっ。と口元に手をやると、“はあとまあく”でもついたような声を上げた。
ともあれ漸く終わった少女の見世物。もう十分成果は見せたろう、と青年は片手を皿のようにして口元に持っていき、そこに流すようにふっと息を吹き掛けた。息が青年の口を出て外気に触れると、みるみるうちに青色を帯びて、その青い雲がぐるぐると少女達を包む。
そしてきゅっと一人分の狭さに縮まると、それは塵のように消えていく。
その中から現れたのは、一人に戻った少女だった。
「やっぱりキーちゃんは一人から愛されたいのね!」
ぴょん、と兎が跳ねるように青年に飛びつくと、再びぎゅっとしがみつく少女。
「言ってろ。で、離れろ」
「やだー」
「……何度も言ってるが、わかってるのか豊。俺は妖の鬼でお前は忍者なんだ。お互い敵同士なんだぞ」
「でも私は鬼壱の事、好きだもん」
もう慣れっこであるのか元より気にするつもりはないのか、豊と呼ばれた少女は鬼の鬼壱の言葉などには全く堪えない。どころか、更にぎゅうっと体を寄せて、彼女にとってはただ抱きついているだけなのだが、豊かな胸まで押し付く始末。
これには髪のように赤くなってしまった鬼壱。何とか豊を押し退けて離した。
「だァーっ!いい加減諦めろ」
「だから、やだー」
好きだの嫌いだの、そんな通理は通らない。
彼が人間を特に襲わない妖であったとしても、彼女がどれ程彼の事を好いていても、世間の目に変わりはない。ただの鬼と、妖を殺す忍者だ。
それに彼女は昔こそちんちくりんで色気も胸もなく、豊という男のような名前が原因で苛められていたが、年々愛らしさも僅かばかりの色気も増し、今では年頃の女として大分可愛らしく育った。
周囲に知られたら間違いなく殺し合わなければならない種族よりも、真っ当な人間を薦めたいのは当然である。良い感情があるのであれば、尚更。
それを同じ人間ではなく妖が薦めるのも、何だか変な話ではあるが。
「それとね、キーちゃん、逢引しよう」
なのに少女と来たら、全く、この調子である。
「お前は阿呆か!只でさえ昼はこうして森に身を潜めているのに、逢引など出来るか」
「いつもしてるじゃん。どこだって二人で一緒にいれば逢引だよ」
ぷっぷくぷー、と子供のように変な言葉をつけて頬を膨らませる豊。
でもね、と彼女は続けた。
「分身の術と同時に新しい変化の術も覚えたのです!」
ばっと手を広げて鬼壱に主張する。
今までだって数が少ないとはいえ、妖が身を潜めているこの森で逢引(仮)をしてきた。それは、豊が一緒にいたいあまり、逢引(仮)中には変化の術で妖に化けていたからである。
無論今の豊であれば弱い妖に化かされる事もあまりないだろう。だが豊のように、何かの間違いで紛れ込んだ人間が、或いは鬼壱のように起きてしまった妖がいるかもしれない。と言う鬼壱の苦肉の説得をこれで見事に交わし、呆れる鬼壱に寄り添って来たのだ。
そして先日、分身の術と一緒に、他人を変化させる術を習得したのである――!
「まさか、お前……」
「お察しの通りだよキーちゃん!痛くないから、ぱっぱと人間に変身しちゃって町に繰りだそー!」
「俺はまだ行くとは言ってな……」
しかし、煙は立ち上るわけで。