本編
豊が森に来る頻度が減った事を、鬼壱は何も言わなかった。始めに十日も来なくなった時は、とうとう豊も諦めたか周囲に止められたか。と胸を撫で下ろしたものだったが、翌日相も変わらずけろっとして豊が現れたので、その十日が夢だったのではないかと疑ってしまった。
ただ、その後も連日来たと思ったら再び数日来なくなったりと今までの間隔よりも疎らになって、何と無く豊の生活習慣が変わったのだと鬼壱は悟った。
その理由を聞く事は出来たろうが、鬼壱はそうしなかった。聞く必要はないのだ。人と妖は相容れない。今日も三匹の化け猫が忍のやつにやられたと月の下で叫んでいるように。
(煩いな……)
ここ最近(つまり妖である彼にとっては数年)は何かと眠りを妨げられる事が多い鬼壱は、その所為か樹の上でふああと一つ欠伸をした。昔ほど大規模な争いがあるわけではない。けれど憎しみの連鎖は全く終わる気配がなくて、小競り合いが鬱憤を貯めているのだろう。このままどちらかがゆっくりと相手の領域を浸食して終わっていくのかもしれない。少なくとも鬼壱が想像する勝敗の行方はそうだ。そして、ひっそり適当に暮らしている彼にとってはどうでも良い。
ぼうっと考えている内に空の暗さは少し薄まり、辺りが静まっていた。鬼壱は目をそっと伏せる。そして昼頃かそれより少し後か。起きたら適当に生活する。
豊の来ない日に、いつもの妖の日常が戻っていた。
「――キーちゃん?大丈夫?」
と思っていれば翌日、やっぱりやって来る金髪少女、豊。
ぼうっとしていた鬼壱に降り注いだのはまさしく彼女の声だ。今日は一週間ぶりだろうか。
「ああ。……お前が離れてくれたらな」
鬼壱が上の空だったのを良い事に、ぎゅっと腕にしがみついていた豊。心配する言葉を掛けたくせにどこか嬉しそうな表情をする彼女。反対に、鬼壱は煩いと言わんばかりの目と野良猫を追い払うような手の振りで対向した。
絡み付くその腕は、出会ってから年月が経っている所為か、触れる範囲も広くなり力強くなっている。傍にある顔も成長期なのか、まだ栄養不足ではあるが少しずつ可愛らしく女の顔に変化していた。そして当たる胸部が心無しか柔らかくふっくらしている気がして……鬼壱はそこまで考えると、どっと赤面した。そして慌てて豊を離させる。
「いい加減にしろ!妖に簡単に引っ付くな!」
「ええー」
いくら鍛えたところで流石の鬼壱には勝てず、豊は渋々剥がされた。ぷう、とまだまだ子供らしく膨れる豊は、出会った頃に泣き虫でいじめられっ子だったとは思えない程に、名前の通り豊かな表情を見せる。
そしてすぐに気を取り直して、鬼壱の意識が飛ぶ前の話題に戻した。
「あっ!でね、そこのお百姓さん優しかったから、大根も付けてくれたんだよ!」
「あー、はいはい」
字を覚えてしまった後は世間話をしに来るだけの豊に、鬼壱は冷たくあしらうような返事をする。鬼壱にとっては簡単に折れないと言う意思表明だったが、豊には適度に打たれる相槌が、きちんと話を聞いてくれている証だとわかっていて、それが嬉しかった。
そうやってまた一年、二年……と時は流れていった。
出会った頃よりは馴染んだかのようにも見えるが、やっている事は変わらない。それを友達と呼べるかは、当人達の意見が分かれるところだろう。
ましてや時が経ち、齢が十二ほどにもなった豊はちんけでみすぼらしい姿に垣間見えた可愛らしさが伸びて、性格もすっかり明るくなった。わざわざ妖に構うより、人間の友達を作る方が何百倍も簡単なのだから。
自分との関係を否定してそちらを勧めるも、全く聞く気のない豊に、鬼壱の胸の中は思わず咳き込んでしまうほどの煙幕のようなもやもやで充たされていた。
耳障りな虫の音があちこちで鳴っている夏。それはいつもと変わらない、汚れた姿の豊が森にやって来た日の事だった。
キーちゃん、という呼び名と共に飛び付いては、鬼壱がまたげうっと啼く。そこまでは今日も同じだった。
変わったのは、一通り懐いてきた後、二人で適当な樹の下に座り込んでからだ。
「ねえ、鬼壱」
嫌々言いながらも長い付き合いになってしまった豊の事は、鬼壱も何となくわかるようになっていた。否、彼女の突拍子のない考えは今もわからないが、普段はキーちゃんとふざけて呼ぶのに、真面目な時はきちんと鬼壱と呼ぶ事は、わかっていた。
「何だ」
改まって。漸く鬼の自分から離れる決心でも着いたのだろうか。だとすれば諦めずに説いていた甲斐があるというものである。あのもやもやも解消されることだろう。
「私、暫くここに来られないかもしれない」
「……そうか。漸くわかってくれたか」
「あっ。そういう事じゃないからね!」
うんうんと頷く鬼壱の考えはばっさりと否定された。
豊は鬼壱と別れるつもりなんてないのだ。だが、離れざるを得ない事情もある。
「ちゃんと戻ってくるよ。……ただね、もうすぐ良いお仕事に就ける機会があるの。それってすっごく難しい試験で。今までも頑張ってきたけど、それ以上に頑張らないと駄目なの」
だから。
豊は真剣な瞳を向けて言う。
本当はこんな説明、いらないのだ。豊が本当に来なくなれば鬼壱は諦めたんだなと勝手に納得するし、もう何年も森へやって来ているけれど、一度たりとも約束なんてした事がない。
森へ来たら叫ぶか、気紛れに既に突っ立っている鬼壱に豊が激突して、鬼壱が変な声をあげるだけだ。
「……そうか。ま、頑張ればいいんじゃねェか」
ぽりぽりと頭を掻いて豊から視線をそらすと、鬼壱は小さく言った。
それでも豊は見過ごさなくて、ぱあっと瞳が輝くといつものように勢いよく鬼壱に抱き付いた。
「やっぱりキーちゃん大好きっ!」
「ぅわっ!?や、やめろ!俺はただ仕事に就いたらお前が来なくなると思ってだなっ……!」
「またまたぁ。照れちゃって!大丈夫だよ!その為のお仕事だもん」
「はァ?」
馬鹿にするような、けれどとても楽しそうに嬉しそうに気持ちを込めて鬼壱をからかう豊。それをいつも通り無理に剥がそうとする鬼壱。
ここから二人は、更に奇妙な関係になるのだった。
ただ、その後も連日来たと思ったら再び数日来なくなったりと今までの間隔よりも疎らになって、何と無く豊の生活習慣が変わったのだと鬼壱は悟った。
その理由を聞く事は出来たろうが、鬼壱はそうしなかった。聞く必要はないのだ。人と妖は相容れない。今日も三匹の化け猫が忍のやつにやられたと月の下で叫んでいるように。
(煩いな……)
ここ最近(つまり妖である彼にとっては数年)は何かと眠りを妨げられる事が多い鬼壱は、その所為か樹の上でふああと一つ欠伸をした。昔ほど大規模な争いがあるわけではない。けれど憎しみの連鎖は全く終わる気配がなくて、小競り合いが鬱憤を貯めているのだろう。このままどちらかがゆっくりと相手の領域を浸食して終わっていくのかもしれない。少なくとも鬼壱が想像する勝敗の行方はそうだ。そして、ひっそり適当に暮らしている彼にとってはどうでも良い。
ぼうっと考えている内に空の暗さは少し薄まり、辺りが静まっていた。鬼壱は目をそっと伏せる。そして昼頃かそれより少し後か。起きたら適当に生活する。
豊の来ない日に、いつもの妖の日常が戻っていた。
「――キーちゃん?大丈夫?」
と思っていれば翌日、やっぱりやって来る金髪少女、豊。
ぼうっとしていた鬼壱に降り注いだのはまさしく彼女の声だ。今日は一週間ぶりだろうか。
「ああ。……お前が離れてくれたらな」
鬼壱が上の空だったのを良い事に、ぎゅっと腕にしがみついていた豊。心配する言葉を掛けたくせにどこか嬉しそうな表情をする彼女。反対に、鬼壱は煩いと言わんばかりの目と野良猫を追い払うような手の振りで対向した。
絡み付くその腕は、出会ってから年月が経っている所為か、触れる範囲も広くなり力強くなっている。傍にある顔も成長期なのか、まだ栄養不足ではあるが少しずつ可愛らしく女の顔に変化していた。そして当たる胸部が心無しか柔らかくふっくらしている気がして……鬼壱はそこまで考えると、どっと赤面した。そして慌てて豊を離させる。
「いい加減にしろ!妖に簡単に引っ付くな!」
「ええー」
いくら鍛えたところで流石の鬼壱には勝てず、豊は渋々剥がされた。ぷう、とまだまだ子供らしく膨れる豊は、出会った頃に泣き虫でいじめられっ子だったとは思えない程に、名前の通り豊かな表情を見せる。
そしてすぐに気を取り直して、鬼壱の意識が飛ぶ前の話題に戻した。
「あっ!でね、そこのお百姓さん優しかったから、大根も付けてくれたんだよ!」
「あー、はいはい」
字を覚えてしまった後は世間話をしに来るだけの豊に、鬼壱は冷たくあしらうような返事をする。鬼壱にとっては簡単に折れないと言う意思表明だったが、豊には適度に打たれる相槌が、きちんと話を聞いてくれている証だとわかっていて、それが嬉しかった。
そうやってまた一年、二年……と時は流れていった。
出会った頃よりは馴染んだかのようにも見えるが、やっている事は変わらない。それを友達と呼べるかは、当人達の意見が分かれるところだろう。
ましてや時が経ち、齢が十二ほどにもなった豊はちんけでみすぼらしい姿に垣間見えた可愛らしさが伸びて、性格もすっかり明るくなった。わざわざ妖に構うより、人間の友達を作る方が何百倍も簡単なのだから。
自分との関係を否定してそちらを勧めるも、全く聞く気のない豊に、鬼壱の胸の中は思わず咳き込んでしまうほどの煙幕のようなもやもやで充たされていた。
耳障りな虫の音があちこちで鳴っている夏。それはいつもと変わらない、汚れた姿の豊が森にやって来た日の事だった。
キーちゃん、という呼び名と共に飛び付いては、鬼壱がまたげうっと啼く。そこまでは今日も同じだった。
変わったのは、一通り懐いてきた後、二人で適当な樹の下に座り込んでからだ。
「ねえ、鬼壱」
嫌々言いながらも長い付き合いになってしまった豊の事は、鬼壱も何となくわかるようになっていた。否、彼女の突拍子のない考えは今もわからないが、普段はキーちゃんとふざけて呼ぶのに、真面目な時はきちんと鬼壱と呼ぶ事は、わかっていた。
「何だ」
改まって。漸く鬼の自分から離れる決心でも着いたのだろうか。だとすれば諦めずに説いていた甲斐があるというものである。あのもやもやも解消されることだろう。
「私、暫くここに来られないかもしれない」
「……そうか。漸くわかってくれたか」
「あっ。そういう事じゃないからね!」
うんうんと頷く鬼壱の考えはばっさりと否定された。
豊は鬼壱と別れるつもりなんてないのだ。だが、離れざるを得ない事情もある。
「ちゃんと戻ってくるよ。……ただね、もうすぐ良いお仕事に就ける機会があるの。それってすっごく難しい試験で。今までも頑張ってきたけど、それ以上に頑張らないと駄目なの」
だから。
豊は真剣な瞳を向けて言う。
本当はこんな説明、いらないのだ。豊が本当に来なくなれば鬼壱は諦めたんだなと勝手に納得するし、もう何年も森へやって来ているけれど、一度たりとも約束なんてした事がない。
森へ来たら叫ぶか、気紛れに既に突っ立っている鬼壱に豊が激突して、鬼壱が変な声をあげるだけだ。
「……そうか。ま、頑張ればいいんじゃねェか」
ぽりぽりと頭を掻いて豊から視線をそらすと、鬼壱は小さく言った。
それでも豊は見過ごさなくて、ぱあっと瞳が輝くといつものように勢いよく鬼壱に抱き付いた。
「やっぱりキーちゃん大好きっ!」
「ぅわっ!?や、やめろ!俺はただ仕事に就いたらお前が来なくなると思ってだなっ……!」
「またまたぁ。照れちゃって!大丈夫だよ!その為のお仕事だもん」
「はァ?」
馬鹿にするような、けれどとても楽しそうに嬉しそうに気持ちを込めて鬼壱をからかう豊。それをいつも通り無理に剥がそうとする鬼壱。
ここから二人は、更に奇妙な関係になるのだった。