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本編

 鬼壱が初めて豊に出会った時は泣いている煩い餓鬼で、話してみれば変わった人間だった。そして面倒だった。
 けれど何度も何度も豊がやって来ると、人間と妖だという言葉は彼女を跳ね退ける為のものからまるで鬼壱が心配しているような言葉になっていた。少しずつ、情が沸いていった気がした。
 時が経ってその情と豊が成長していくにつれ、もしかしてその言葉は豊に対してだけではなく、鬼壱自身に言い聞かせる言葉となっていたのかもしれない。
 豊が笑っていると心の何処かが暖かくなった。豊の事を拒絶しなければならないと思った時、鬼壱の胸が苦しくなった。豊が傷付いた時の怒りは、もはや妖と人間だなんて関係なかった。

 わかっている。
 自分の気持ちなど、とっくの間にあの時口にしてしまったではないか。

「豊……」

 それでも、一体人間と妖だと何年言い続けてきた?
 自分自身が言ってきたはずの何年もの積み重ねが、崩す事を躊躇わせる。実際に崩したって悪い問題がすぐに立ち塞がる事も知っているのだ。
 ただ、豊は目の前で、優しく笑って返事を待っている。

「俺は、鬼の鬼壱だ」

「うん」

「お前の考えは多分甘い。きっとまだまだ問題が出てくる」

 既に様々な問答を終えている。今更それ以上の問題があるとして、豊はだったら止めると言う事はないだろう。
 そう、もうあとは鬼壱が決めるだけなのだ。
 長い時を生きてきたはずなのに、たった一人の人間を前に言葉を吐くだけで緊張する鬼の姿はただの男だった。自身を落ち着かせるため固まった肩を息と共にゆっくり下ろして、ぎゅっと体の横につけた拳を握る。

「ただ、そういう状況も何も考えないで、感情だけで言えば、豊」

 本当にこれで良いのか。
 わからない。けれど心は確かに。強がりや誤魔化しで嘘を吐かなければ、確かに。

「お前の事は……大切に思ってる」

「鬼壱……」

 柔らかい笑顔が更に歪んで、豊はえへへと笑った。それで空気がいつものふざけた空気になった気がして、鬼壱はじとっとした目で豊を見る。

「顔が弛みすぎてるぞ」

「だって嬉しいんだもん。嬉しすぎて……キーちゃん大好きっ!」

「うわっ豊待て……げゥッ!」

 どっ!とぶつかるように抱き着いてきた豊に、相変わらずの蛙が潰れたような声。しかし今は無理に剥がそうとはせずに、離れろと声だけで。それもいつもより少し優しい声で言ってみるだけだった。

「ねえねえ、何処行こうか。私の事受け入れてくれたならまた逢い引きできるね!京古の町を歩こうよ。今なら森もこのままで奥まで行けるよ。あっ、養育屋敷にはちゃんとした挨拶しに来てね。勿論人間の姿でいいから。どっちのキーちゃんも格好良いから私好きだよ。あとは、あとは……」

 強く、強く。服として着ている布にはぐっと抱き着いている豊の温もり。のはずが、じわりとそれから濡れた感触がしてくる。押し付けられているあまりに豊の顔が鬼壱からは見えない。

「豊、お前……泣いてるのか」

「……だって。嬉しくて」

「さっきから、そればっかりだな」

「駄目、だった?」

 駄目じゃない。けれど鬼壱は駄目とか良いとか自体を言う気になれなくて、くしゃりと豊の頭を撫でた。昔撫でた時よりもずっと撫で心地が良い髪になっている。
 豊もその返答には満足したようで、鬼壱の手が止まるまでじっと大人しく撫でられていた。
 やがて鬼壱も豊もゆっくりと離れる。二人の世界にいるようで、実際は傍に寝ている太一もいるし、森の中からでは見えないが向こうの京古町ではそろそろ釜戸から出る煙が立ち上っているだろう。
 名残惜しい。けれど今は、これからは、また明日がある。何時でも会える。

「大丈夫か?」

「うん、太一くらい平気。いつも子供達抱っこしたり背負ったりしてるもん。その前に私、仕事で鍛えてるし」

 よいしょ、と上手い位置に担ぎ直した太一を背に、豊は鬼壱の問いに答えた。
 背の太一は応急処置で十分だったのか、今は苦しそうにと言うよりは普通にすーすーと寝息をたてている。その音を聞いて豊と鬼壱は顔を見合わせ、ふっと笑いあった。

「それでもあまり無理はするなよ。……一応、女だろ」

「!キーちゃん、心配してくれるの!やっぱり大好きっ。太一がいるから抱き着けなくてごめんね」

「いや、抱き着かなくていいからな」

 幾ら好きな相手でも何度も攻撃のような体当たりを食らうのは遠慮したい。鬼壱は手を振っていらないと主張するも豊はあははと冗談のように笑って言葉をやり過ごした。
 そして京古町へと歩き出す豊。少し歩いてから振り返り、鬼壱へと大きく笑顔で手を振った。それを見た鬼壱は少し……否、大分照れ臭かったが、軽く手を上げて応えた。豊の笑顔はまた崩れて更に大きく振ると、今度こそ真っ直ぐに京古を目指す。
 夕焼けの陽が、鬼壱の明るい気持ちと寂しさを表しているようだった。
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