本編
もうじき夕暮れが訪れる。陽が傾いていく毎に篠子や豊に不安が募っていった。
太一が帰ってこない。最近は様子のおかしかった太一だ。原因はわかるし、考えたい事も行きたい場所もやりたい事もあるだろう。だから今日一人で出て行った事に二人は何も言わない。けれど、こんな時間までとなると話は別だった。今は妖の危険はないだろうが、どんな時でも悪い人間と言うのはいるもの。同じ人間故に簡単に判別する事も排除する事も難しいが、人目のつかない暗闇によく現れる事だけは確かだ。
「篠母様……」
「もしも夜になっても帰って来なかったら、豊。お願い。私も勿論探すけれど、夜目は利かないから」
「……うん……あっ!?あれ、あの影、太一じゃない」
「本当……!良かった、太一……」
豊の指差す方向へ目を向けた篠子は小さいが確かに太一である姿を確認すると、ほうっと張り詰めていた体の力を抜いた。
一人きり、その小さな姿がとことこと寄ってくる。その間に顔を上げた太一の方も篠子と豊に気付くが、気恥ずかしいのか歩みを変える事はなく、そのままの速さで二人の下へと戻って来た。
「太一……」
豊はいざ戻ってきた太一を前にして、怒ろうか喜ぼうか、その前に最近避けられている自分が話し掛けても良いものかと言葉に困ってしまう。
だから篠子はそれに重ねるように、太一に柔らかく笑いかけた。
「お帰りなさい。少し遅いから、心配しちゃった」
「うん……ごめんなさい」
「いいのよ。まだ陽は落ちきっていないし、私が心配し過ぎただけね。でもこのくらいに帰るなら、次は教えてほしいわ」
「……うん」
ふふ、という笑い声と共に優しい手つきで太一の頭を撫でた篠子は、「ご飯の用意してくるわね」と踵を返すと家の中へと消えていく。
やがて残された豊と太一はゆっくりと向き合った。
「豊……」
「う、うん。お帰りなさい、太一」
こうなるともう黙っている訳にはいかない。豊は相変わらずのぎこちない動きと言葉でようやくのお帰りを言った。しかし太一が返すのはただいまではなかった。
「ごめん!」
「えっ?!」
ばっ!と頭を下げて、一言。それは太一にとっての精一杯の謝罪。
豊は思わず驚いて声をあげた。豊としては鬼壱の事を言わなかったという負い目と、太一には嫌な思いをさせたと言う罪悪感はあるが、それでも突然太一に、それもこんな風に謝られるなんて思ってもみなかった。
「豊に冷たくした事、無視した事。キイチの事悪く言ったのは、やっぱり妖は嫌いだし憎いから謝りたくないけど、豊に言うには俺、悪かったと思う」
「太一……」
頭は下げられたままに渡される沢山の素直な言葉に、豊の心が揺さぶられる。
幼い太一がこんなに考えて精一杯言葉を掛けてくれているのに、お姉さんである自分が何も返さないなんて。豊は体から、強張らせていた何かが解けていくのを感じた。
「私も、黙っていてごめん。私、鬼壱の事が好きなの。大好きなの。もうずっと、それは止められないし何より本当の事」
そしてゆっくりと伝え出す。素直に、太一に向き合った本当の心。
それは太一が屋敷に来る前から始まっていた想い。
「だけど太一も篠母様も咲も……養育屋敷の皆が大切なのも本当なんだ。だから、ゆっくりとわかってもらえるようにしたいと思ってた。全部の妖が良いとは言わないし、他の人にもわかってもらおうとは思っていなかったけど、大切だから屋敷の皆だけには紹介しなくちゃって」
せめて深く心が繋がっている人だけならば。その一部だけなら。色々な物全部を手に入れようなんて無理だけど、大切なそれらだけは諦めたくなかったから。
お帰りの言葉すら言い澱んでいたさっきまでの豊とは違い確りと伝えられた言葉を、太一もきちんと受け止めた。
「多分、それは間違ってないと思う。俺も豊が好きっていう人連れてきたのは嬉しかったし。でも俺には妖は、受け入れられなかったんだ」
「そう……だよね。ごめん」
「でも豊は幸せになってほしい。その為にはキイチが必要なんだよな?」
それだけは、今の太一にはわかる。
そして鬼壱にも叫んだ事。太一は豊が嫌いじゃない。否、大好きだ。だから複雑な想いは変わらないけれど、幸せになってほしいとも思う。
「うん」
「だから豊。今度一緒に妖の森に行ってよ」
ただ、その一言は豊にとって思いもよらない火薬玉だった。
「え?……っ、太一まさか、今日妖の森に行ってたの……!?」
「そうだよ。でも大丈夫。キイチにしか会わなかったから」
「鬼壱に会ってた?!え、太一、えっ?」
今さっきまで妖が嫌いだと言っていた太一。その前まではそれの所為で避けられてすらいた豊。しかも自分には会えない鬼壱にまで会ったとくれば、その場所が例え妖がいなくなった森だとしても、あまりに予想外の事ばかりで混乱するしかなかった。
そんな豊などは知らずに、玄関の戸を軽く開けて篠子が二人へと声を投げ掛ける。
「豊、太一。もうご飯の用意できたわよ。そろそろ入ってらっしゃい」
「はーい!豊、ご飯だってさ。早くしないと豊の分、俺が貰うからな!」
勿論素早く対応出来たのは太一だけ。太一は普段の様子に戻って高らかと声をあげると、豊に向き直りいししと挑発した。そしてぽかんとする豊を置いて一足先に駆け出す。
そして数秒してからはっとした豊もまた、こう叫んで駆け出すのだった。
「あっ、太一!もうっ。こら待てー!」
太一が帰ってこない。最近は様子のおかしかった太一だ。原因はわかるし、考えたい事も行きたい場所もやりたい事もあるだろう。だから今日一人で出て行った事に二人は何も言わない。けれど、こんな時間までとなると話は別だった。今は妖の危険はないだろうが、どんな時でも悪い人間と言うのはいるもの。同じ人間故に簡単に判別する事も排除する事も難しいが、人目のつかない暗闇によく現れる事だけは確かだ。
「篠母様……」
「もしも夜になっても帰って来なかったら、豊。お願い。私も勿論探すけれど、夜目は利かないから」
「……うん……あっ!?あれ、あの影、太一じゃない」
「本当……!良かった、太一……」
豊の指差す方向へ目を向けた篠子は小さいが確かに太一である姿を確認すると、ほうっと張り詰めていた体の力を抜いた。
一人きり、その小さな姿がとことこと寄ってくる。その間に顔を上げた太一の方も篠子と豊に気付くが、気恥ずかしいのか歩みを変える事はなく、そのままの速さで二人の下へと戻って来た。
「太一……」
豊はいざ戻ってきた太一を前にして、怒ろうか喜ぼうか、その前に最近避けられている自分が話し掛けても良いものかと言葉に困ってしまう。
だから篠子はそれに重ねるように、太一に柔らかく笑いかけた。
「お帰りなさい。少し遅いから、心配しちゃった」
「うん……ごめんなさい」
「いいのよ。まだ陽は落ちきっていないし、私が心配し過ぎただけね。でもこのくらいに帰るなら、次は教えてほしいわ」
「……うん」
ふふ、という笑い声と共に優しい手つきで太一の頭を撫でた篠子は、「ご飯の用意してくるわね」と踵を返すと家の中へと消えていく。
やがて残された豊と太一はゆっくりと向き合った。
「豊……」
「う、うん。お帰りなさい、太一」
こうなるともう黙っている訳にはいかない。豊は相変わらずのぎこちない動きと言葉でようやくのお帰りを言った。しかし太一が返すのはただいまではなかった。
「ごめん!」
「えっ?!」
ばっ!と頭を下げて、一言。それは太一にとっての精一杯の謝罪。
豊は思わず驚いて声をあげた。豊としては鬼壱の事を言わなかったという負い目と、太一には嫌な思いをさせたと言う罪悪感はあるが、それでも突然太一に、それもこんな風に謝られるなんて思ってもみなかった。
「豊に冷たくした事、無視した事。キイチの事悪く言ったのは、やっぱり妖は嫌いだし憎いから謝りたくないけど、豊に言うには俺、悪かったと思う」
「太一……」
頭は下げられたままに渡される沢山の素直な言葉に、豊の心が揺さぶられる。
幼い太一がこんなに考えて精一杯言葉を掛けてくれているのに、お姉さんである自分が何も返さないなんて。豊は体から、強張らせていた何かが解けていくのを感じた。
「私も、黙っていてごめん。私、鬼壱の事が好きなの。大好きなの。もうずっと、それは止められないし何より本当の事」
そしてゆっくりと伝え出す。素直に、太一に向き合った本当の心。
それは太一が屋敷に来る前から始まっていた想い。
「だけど太一も篠母様も咲も……養育屋敷の皆が大切なのも本当なんだ。だから、ゆっくりとわかってもらえるようにしたいと思ってた。全部の妖が良いとは言わないし、他の人にもわかってもらおうとは思っていなかったけど、大切だから屋敷の皆だけには紹介しなくちゃって」
せめて深く心が繋がっている人だけならば。その一部だけなら。色々な物全部を手に入れようなんて無理だけど、大切なそれらだけは諦めたくなかったから。
お帰りの言葉すら言い澱んでいたさっきまでの豊とは違い確りと伝えられた言葉を、太一もきちんと受け止めた。
「多分、それは間違ってないと思う。俺も豊が好きっていう人連れてきたのは嬉しかったし。でも俺には妖は、受け入れられなかったんだ」
「そう……だよね。ごめん」
「でも豊は幸せになってほしい。その為にはキイチが必要なんだよな?」
それだけは、今の太一にはわかる。
そして鬼壱にも叫んだ事。太一は豊が嫌いじゃない。否、大好きだ。だから複雑な想いは変わらないけれど、幸せになってほしいとも思う。
「うん」
「だから豊。今度一緒に妖の森に行ってよ」
ただ、その一言は豊にとって思いもよらない火薬玉だった。
「え?……っ、太一まさか、今日妖の森に行ってたの……!?」
「そうだよ。でも大丈夫。キイチにしか会わなかったから」
「鬼壱に会ってた?!え、太一、えっ?」
今さっきまで妖が嫌いだと言っていた太一。その前まではそれの所為で避けられてすらいた豊。しかも自分には会えない鬼壱にまで会ったとくれば、その場所が例え妖がいなくなった森だとしても、あまりに予想外の事ばかりで混乱するしかなかった。
そんな豊などは知らずに、玄関の戸を軽く開けて篠子が二人へと声を投げ掛ける。
「豊、太一。もうご飯の用意できたわよ。そろそろ入ってらっしゃい」
「はーい!豊、ご飯だってさ。早くしないと豊の分、俺が貰うからな!」
勿論素早く対応出来たのは太一だけ。太一は普段の様子に戻って高らかと声をあげると、豊に向き直りいししと挑発した。そしてぽかんとする豊を置いて一足先に駆け出す。
そして数秒してからはっとした豊もまた、こう叫んで駆け出すのだった。
「あっ、太一!もうっ。こら待てー!」