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本編

 歩くほどに木の葉の屋根が増していく。始めは陽の光の方が多かった地面も、木漏れ日が人指し指で空けた障子の穴に見えてくる。
 豊が森の奥まで踏み込んだのは、これが初めてだった。
 妖がいるのではないか。あの鳥の揺れる鳴き声も、実は自分を化かしているのではないか。少しだけあの時のように足が震える。けれど、それは本当に微かなもの。
 鬼壱と一緒にいるようになったからだろうか。妖にも色んなものがいるのだし、そもそも今は妖も鬼壱しかいないはず。そうも思えるのだ。
 左右をきょろきょろと確認しては、迷わぬよう転ばぬよう、確かな足つきで進んでいく。やがて待ち構える罠のようにやけに長くうねった樹の根や、擦れたら肌がすぱりと切れてしまいそうな草達が残念そうに視界から消えていった。
 しかし、肝心の鬼壱が見つからない。
 こんな薄暗い緑の中、自分の汚れた金なら兎も角、あの赤ならすぐに目に付くはずなのに。

「……どこ行っちゃったのかな」

 変な鳴き声を出す鳥や、小さな動物が通り過ぎる姿ばかりが視界に入る。
 豊は所詮、ただの少女だ。それが、妖で男の鬼壱に追い付こうなど無謀な事だったのかもしれない。
 だが豊はそれを分かっていなかった。否、分かっていたとして、それを上回る気持ちがあった。だから足を止める事はなかった。

 ――そこに至るまでは。

 小さな鼠がまた一匹、豊の目の前を通る。薄茶色の、よく木々の辺りで見かけるやつだ。豊もそれを認識しながら、殆どいないものとして扱った。
 それが小さく細い声で鳴く。

「……あれ?」

 どさっ、という音と共に豊の臀部は草と土ばかりのそこに着いた。何やら足から力が抜けてしまったようで、豊にも何が起こったか分からないほど一瞬の、自然な出来事だった。
 あまりに慣れない道を歩いたからだろうか。
 しかし森の中は慣れていないとしても、あの広い京古町をいつも駆け回っている豊。金持ちの箱入り娘とは違い、多少歩いただけではそうそう体力が尽きる事はない。考えられるのは、お腹が空きすぎてその“そうそう”を超えてしまったという事だろうか。

「うーん……。本当に、足が全然動かないや……」

 足が棒になってしまったとよく言うが、本当にそんな感じだ。豊にはとても動かせそうにないほど重たい棒になってしまった。
 どうにか動かないかと体を捩ってみたり、手で掴み上げる、その時。背後の草ががさり、がさりと揺れた。
 はっとして、豊は手を離す。
 振り向く動作が完了する前に、影は数少ない木漏れ日さえ埋めてしまう。
 現れた妖は。

「キーちゃん?」

「……お前……」

 驚いて、けれどすぐに呆れ果てる顔。豊が探し望んだ顔だ。
 草を掻き分けてやって来たのは、片手に二匹の焼き魚をぶら下げた鬼壱だった。
 よく耳をすませば、鬼壱がやって来た方からさわさわと水のせせらぐ音が微かに聞こえる。お腹が減った豊を見かねた鬼壱は、普段やっているように魚を捕って焼いてきたのだ。
 それを理解した豊はまるで花が咲いたようにぱあっと笑顔になる。そして鬼壱のもとへ駆け寄……れなかった。足が、やっぱり動かない事に気付いたのだ。

「あっ。足が動かないんだった……」

 がくっと項垂れる豊。それ見て、鬼壱は口元に手をやる。目も幾分か鋭くなり、その姿で豊をじっと観察した。

「どうしたの?キーちゃん」

 豊の問いに答えることなく、鬼壱は何かを呟き始める。そして人差し指と中指を合わせ、自身の目の前に持ってきた。その先端に向かってふうと息を吹き掛けると、それは青い綿あめのように絡んだ。
 そのまま綿あめを豊の足に引っ付けると、そこからぽんっ!と音を立て、ぼわりと煙が発つ。

「……あ」

 すると豊は足が軽くなるのを感じた。試しに動かしてみると、思った通りに手前に曲がっていく。そして立ち上がる。何のぎこちなさもなかった。
 明らかに、鬼壱の行動のおかげだろう。

「これは妖術――」

「キーちゃん有難うっ!」

 少女は相変わらず大概、遠慮を知らない。
 嬉しさのあまりどっ!と鬼壱の胸に飛び込むと、ぎゅっと手で抱き締めた。小さい体ではあるが、勢いがあったため、鬼壱はうっと小さな呻き声をあげる。
 抱き付き癖は、この時から始まったのかもしれない。

「あのなァ!話はきちんと聞け!」

「はあいっ、何ですか!」

 叱咤(しった)するも、豊は鬼壱にしがみついたまま元気に顔を上げた。
 可愛らしい顔がすぐそばで、しかも見上げている姿に照れない訳ではないが、まだまだ子供らしい子供(内面は少し、そうでないところもあるが)。鬼壱は言い聞かせるように冷静に、そして語調を強めて言った。

「今のは妖術って言って、妖が使う特殊なもの……人間なら忍の使う忍術みたいなモンだ」

「妖術……初めて見た」

「妖術には色々あって、今のは妖術を解く妖術だ。……俺が何を言いたいかわかるか?」

 鬼壱の問いに豊は一瞬止まって、そして頷く。
 幼くても流石にわかる事だ。豊の足が動かなかったのは疲れでも腹ぺこでもなくて、妖術だったのだ。

「でも、妖はまだ寝ているんじゃ……」

 昼間は力が弱っているから、夜に人間の町を襲う為、妖達は森の奥で眠っている。その噂話に間違いはなかった。

「じゃあ何故俺はここにいる?」

 しかしそれは全て、ではない。どんな事にも抜け道や例外というものは存在するのだ。
 例えば目の前の鬼壱。昼間の今も悠々と動いている。

「勿論お前に起こされたのが原因だが、俺がこうして動けているのに理由はある。他のやつほど夜に妖力を使わないからと、昼間でも起きていられるほど力が強いからだ」

 つまり、同じような妖ならば昼にも起きられるのだ。
 人間を襲うための準備をしない妖なんて殆どいない。鬼壱だって豊に起こされなければ大抵寝ていた。だから昼間は妖が出ない、と言われていた。でもそれは絶対ではなく。

「若しくは逆に妖力が少な過ぎて、眠ったってちっとも回復しないヤツだな。弱っていて当たり前だから、昼間も動物や何かに混じっていて、時折悪戯程度の妖術を使ってくる」

「動物……あっ。足が動かなくなる前に、小さな鼠を見たよ!」

 思い出したように声を上げた豊に、鬼壱は頭を抱える。もうこの動作も、豊と出会って何度した事やら。

「そいつだろ。だから森の奥は危険なんだ。一旦戻るぞ」

 鬼壱が先導すれば仕方ない。森の奥に居残る理由も無くなるわけで、豊はとことこと鬼壱の後ろをついていった。先程のお説教も効いているのか、大分鬼壱に近づいて。
 始めはお互い無言で、取り合えず森の出口を目指していたが、やがてその無言もつまらなくなると(勿論それは豊にとってだ)焼き魚の匂いが気になってきた。
 ふわりと漂う香ばしくて、あの魚独特の匂い。
 元々空いていた豊のお腹はきゅううー。と鳴いて、鬼壱を振り返らせた。

「……あともう少しで出られるから我慢しろ」

「うんっ」
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