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本編

 一年もすれば、打ち解けてきて(と言ってもあくまで豊にとってだが)豊は鬼壱と親しげに話すようになった。森へ来る事も勿論、当たり前のようになっていた。
 それ程時間が経ってもあの穴が修繕されないと言うのはあまりにお粗末ではあるが、町の広さを考えれば城の庭にある蟻の巣を探すようなもの。更にあんな人気のない場所であった事に、豊はどれ程感謝した事か。
 一方の鬼壱は未だに頭を抱えていた。
 森へ来るな。俺は鬼、お前は人間。
 その言葉は今も変わらない。しかし、変わらないという事は今も豊が横にいるという事だ。

「……あのなぁ」

「あ、待ってキーちゃん。今話掛けられたら私、この字忘れちゃう!キーちゃんの事は好きだけどもうちょっと待ってね」

 それから、鬼壱の事を好き、と言うようになった。
 キーちゃんという渾名が好き、という事ではなく、明確にそう言ってくるようになったのである。
 初めてその言葉を聞いた時ははっとした鬼壱も今では何とも思わなくなった。
 恋愛感情としての好きだとは到底思えないし、豊は子供。家族と同じように好きと言っているのだろう。これほど家族の為に必死に勉強しているのだ。受けた愛情も大きいに違いない。

「……よしっ!多分、大丈夫」

 ぐっと両手を握りしめ、土に書いた沢山の字を前に笑顔になる豊。
 彼女の努力だけは凄いと、鬼壱も思う。
 自分はたまたま興味、好奇心に合致した物をゆっくりと調べて、考えて、覚えていくだけだ。
 けれど人間の時間は短い。
 更に豊の場合は恐らく、一刻も早く貧乏な家を救いたいという気持ちがある。
 その短い時間でこれだけ身に付けてしまうのだから。

「どうっ?」

 えっへんと鬼壱にも見せびらかす豊。素直に豊を讃える気持ちがあった鬼壱は、珍しく自分から頭を撫でてやった。
 今日もあまり撫で心地の良い髪ではないが、わしわしと撫でてやると、豊の目が大きく開いた。まるで、鬼壱が初めて豊に好きと言われた時のように。

「キーちゃんが……自分から撫でた……」

 うわ言のように、豊は小さく呟いた。それ程に吃驚していたらしい。
 鬼壱もその様子と言葉に気づいて、何だか小恥ずかしくなり、手を引っ込める。

「あー……」

「何だ」

「もっと撫でてくれてもいいのにぃ」

 この少女は大概、遠慮というものを知らない。

「あっ。そうだ、キーちゃん。さっき何て言おうとしてたの?」

 残念がる口をやめて、思い出したように豊は言った。
 少し前の事に鬼壱は記憶を掘り起こし、いつも通りの言葉に行きつく。そう、文字を書いてる最中に止められた言葉は、いつも通りだ。

「勉強は人間に教えて貰えと言おうとしていたんだ。妖に教えて貰うやつがどこにいる」

「ここにいまーす」

(言うと思った)

 はあ。と、これもいつも通りの溜息。
 可愛らしく元気に手を挙げたところで、鬼壱が何も言わなくなると思ったら大間違いだ。
 が、その言葉を伝える前に、豊のお腹からきゅうううー、と小動物の鳴き声が聞こえてきた。否、そんな可愛いものではなかった。腹の虫だ。

「が、頑張ったらお腹減っちゃった……あはは。き、今日はお家に帰るねっ」

 流石の豊も恥ずかしかったのか、顔を赤くしてお腹を押さえる。
 しかし、こんな姿をしている豊が家に帰って、お腹いっぱいに物を食べられるのだろうか。

「少し待ってろ」

 そう言った鬼壱は豊を残してさっと奥へと消えて行った。その背中を突然の事でぽけっと見ているだけの豊。
 はっとした時にはもう遅くて、森の中で一人きりになっていた。
 中といっても殆ど入口の場所であるから危険はない。そもそもまだ陽は落ちていないから鬼壱以外の妖もいないだろう。
 ただ、寂しかった。
 よく考えてみたら、鬼壱に置いていかれた事はないのだ。豊が勝手に来て、勝手に帰る。鬼壱が帰るからなと宣言したところで服にしがみ付いて、無理にでも豊も別れの言葉を掛けてからお互いに去るのだ。
 とすん、と座り込んだ。既に襤褸の着物はこのくらいの汚れなど気にもならない。
 そして、ぼうっと木の葉と空の青を見つめた。

 一年も字を勉強すれば、結構な物が読めるようになった。とても大変ではあったけれど。
 豊だってわかってはいるのだ。初めに怯えてしまったように。妖がどういう存在なのか、それは自分が一番良く知っている。
 だから家の人達の目をどうにかしようと、大抵は用事があったり、仕事をした後に来ていた。そうすれば仕事に行っていたと言い訳ができるし、持っていく物を持っていけば何も言われない。あの三人組のように虐める子ばかりではないし、理由は違えど同じように貧乏で話せる子もいるから、多少行方が不明でも誤魔化しが効いた。
 その苦労が段々と報われるようになったのだ。視線が気持ちと同じようにふーっとゆっくり下りてきて、先ほど鬼壱に見せびらかした地面の文字が視界に入る。
 一人になった今、その報われた余韻に浸っていてもいいのに。
 けれどただ、寂しい。

(あれ。そもそも私は、何でここにいるんだろう)

 字を教えて貰うためだった?否、本当の目的は、鬼壱と一緒にいる事だ。
 あの時助けてくれた鬼壱は怖く、けれどとても格好良く見えた。綺麗な赤の髪に輝く金色の瞳。大きな背中。誰も助けてはくれず、自分でも太刀打ち出来ずに幾度と泣かされたあの少年達を、簡単に追い出してしまった存在感。
 だから、震えた足に、震えた心を持って、目の前の誰かと仲良くなりたかった。
 どんなに色んな事情が絡んでいたって豊は子供の中でも更に純粋な人間で、その気持ちには勝てなかった。
 そして、森にやって来てはくっ付いている内にその優しさにも心を惹かれた。
 面倒臭そうな顔をして、口でもそう言った言葉を紡いでいるけれど、何だかんだと一緒にいる。居させてもらっている。豊が好きという言葉に行き着くのに、それ程時間は掛らなかった。
 その温かな言葉はまだ、家の人間とそう変わらないのかもしれないけれど。

「……うん。よし」

 そう呟いた豊はすっと立ち上がると、地面の字をざりと踏み締めて、暗くなっていく奥を見据えた。鬼壱が消えて行ったと思われる方向だ。
 鬼壱と一緒にいたいと思ったのだから、一緒にいればいいのだ。
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