本編
一つの影がまた森へとやって来た。豊ではない。男だ。それも背丈は普通の男と同じほどであるのに、筋肉はあまり使われていないような弱々しい体つきの癖をして、一人前に立派な鎧を着込み、良い刀を構えている。
連日の客に鬼壱は頭を抱えた。全く、眠れやしない。
「狐の嫌な予感っていうのはこれかよ」
昨日の嫌な狐が言っていた事を思い出す。嘘と思っていたが、少しくらいは聞き入れてやれば良かった。
取り敢えず周辺を探ってみるが、護衛として他の忍者や剣士がいる気配もない。ならばこの男、一人でこの森にやってきたのか。人間達には妖の出る森と噂されるこの森に、一人で。
実際は今も昔も、昼間は滅多に妖なんぞいないが、それでも一体何の用が……
「鬼、出てこい!“キイチ”!」
まさか自分が呼ばれるとは思わず、枝からずり落ちそうになったのを持ち直し、男の側の樹へ向かう。
名を呼ばれたからにはここに存在すると知られているのだろう。黙っていても埒が明かない。
ざ、と降り立つと、見知らぬはずの男は一瞬怯んで、また刀を構え直した。
「鬼壱は俺だが……何の用だ」
「豊をたぶらかしておいて、何の用だはないだろう」
豊。人間としては大分整った顔の男から出たその名と好意的な言葉に驚く。
何だ、まともな人間が側にいるんじゃないか。と。
「俺はたぶらかしちゃいないぞ。あいつが勝手に来るだけだ」
「貴様っ……!」
怒れる彼は見知らぬ男、のはずだ。
だがその顔を見る度に、脳裏に何かが引っ掛かっている感覚があった。どこかで。この男を見たような気がする。
でも人間の知り合いなど、豊以外にいるはずもない。それはほんの僅かな時間だったが、鬼壱の脳裏にふっと甦る記憶。
そう、豊だ。
ぱっ、と答えが浮かんできて、鬼壱はもどかしい靄から解放される。
「!お前、豊を虐めていた奴か」
「っ!」
その言葉に刀を持った男、木ノ上慎之介は揺れた。その過去は慎之介にとって相当な痛い過去なのだろう。
しかし彼はそれをもう一度思い出して考えた。あの時自分達が逃げ、以来彼女を虐めなくなったのは、鬼が原因ではなかったかと。
彼女は鬼と遭っても無事であった。どこかに強さを隠していたのではないか、と愚かな考えを持った幼い頃の自分達は苛めをやめるようになったのだ。現に今豊は実力を以て忍者をしている。
まさかその鬼と恋仲になろうとは、誰が予想できたものか。
しかし、森で自分達から助けた男など鬼しかいない事に気付き、慌てた慎之介はこうして森にやって来たのだ。
「……確かに、あの時は豊を傷付けた。しかし、だからと言って鬼に呉れてやろうとは思わん!」
慎之介の叫びを聞いた鬼壱は、その目をすっと見据えた。
確かに、鬼と一緒になるのは幸せには思えない。散々自分から言ってきたし、そうして別れた結果の今なのだから。
だが、
「お前、また豊を傷付けないと言えるのか」
突き放したのは豊を想っての事。
すぐに立ち直って元気な姿を見せた豊だが、それは決して傷付かなかった訳ではない。同じような事を起こして豊が傷付いたら。
そんな人間では意味がない。
慎之介もそれを十二分に理解しているからか、ぎゅっと一瞬だけ目を瞑り、きっ!と鬼壱を見た。
「当然だ。貴様こそ、豊を傷つけたではないか」
先日見た豊の表情。鬼壱の事で哀しむと言うのは快く思えないが、思い出す。彼もまた、豊を傷つけたには違いなかった。
「僕ならあんな顔はさせない」
「……」
別れ際の豊、昨日やってきた豊。その姿を浮かべた鬼壱の胸を、もやもやとしている癖に重たい何かが襲い、慎之介から視線を外す。
お互い、数秒の沈黙を持つ。
虫の音と木の葉の揺れる音が辛うじて静寂に抵抗していた。
次に口を開いたのは鬼壱だった。
「――豊が心配なら、昼間に森へ来させるのを止めろ。俺はもう会わないと言ったんだ」
「……何?」
「人間同士、しかもその格好に匂い、お前は相当な家らしい。豊を幸せにしてやればいいだろ」
お互いに豊の幸せの為に譲らなかった。
それが先程の数秒であった真実。
過去の罪はあれど、今では立派に豊を思う人間に意地張って嫌みを言う必要などないのだ。何より鬼の自分よりも人間の方が幸せにしてやれるはずなのだ。
彼となら、幸せになれるのだから。
慎之介は少しだけ面を食らったような顔になるが、気を取り直して、刀を構えたまま軽く、しかし重たく頷いた。
「貴様に言われなくてもそうする」
「そうか。俺が豊と会わないならもう関係はないよな。もう静かに寝かせてくれ」
鬼壱は腕を組み、刀などには全く怯えもせず、適当にそう言った。
無駄だと悟ったか、もう豊とのことは大丈夫だと思ったか、刀を退く慎之介。
「もう二度と」
「ああ」
一言ずつ交わして、二人は背中を向け合う。
幾度かざくざくと草を踏んだ時。鬼壱がもう一度、口を開いた。
「名前は」
「木ノ上慎之介」
躊躇うことなく慎之介は告げる。それが礼儀故か、言わねばならない別の気持ちがあった故かわからない。
今度こそお互いは歩き出し、振り向くことも声を掛けることもなく、在るべき場所へ帰っていった。
連日の客に鬼壱は頭を抱えた。全く、眠れやしない。
「狐の嫌な予感っていうのはこれかよ」
昨日の嫌な狐が言っていた事を思い出す。嘘と思っていたが、少しくらいは聞き入れてやれば良かった。
取り敢えず周辺を探ってみるが、護衛として他の忍者や剣士がいる気配もない。ならばこの男、一人でこの森にやってきたのか。人間達には妖の出る森と噂されるこの森に、一人で。
実際は今も昔も、昼間は滅多に妖なんぞいないが、それでも一体何の用が……
「鬼、出てこい!“キイチ”!」
まさか自分が呼ばれるとは思わず、枝からずり落ちそうになったのを持ち直し、男の側の樹へ向かう。
名を呼ばれたからにはここに存在すると知られているのだろう。黙っていても埒が明かない。
ざ、と降り立つと、見知らぬはずの男は一瞬怯んで、また刀を構え直した。
「鬼壱は俺だが……何の用だ」
「豊をたぶらかしておいて、何の用だはないだろう」
豊。人間としては大分整った顔の男から出たその名と好意的な言葉に驚く。
何だ、まともな人間が側にいるんじゃないか。と。
「俺はたぶらかしちゃいないぞ。あいつが勝手に来るだけだ」
「貴様っ……!」
怒れる彼は見知らぬ男、のはずだ。
だがその顔を見る度に、脳裏に何かが引っ掛かっている感覚があった。どこかで。この男を見たような気がする。
でも人間の知り合いなど、豊以外にいるはずもない。それはほんの僅かな時間だったが、鬼壱の脳裏にふっと甦る記憶。
そう、豊だ。
ぱっ、と答えが浮かんできて、鬼壱はもどかしい靄から解放される。
「!お前、豊を虐めていた奴か」
「っ!」
その言葉に刀を持った男、木ノ上慎之介は揺れた。その過去は慎之介にとって相当な痛い過去なのだろう。
しかし彼はそれをもう一度思い出して考えた。あの時自分達が逃げ、以来彼女を虐めなくなったのは、鬼が原因ではなかったかと。
彼女は鬼と遭っても無事であった。どこかに強さを隠していたのではないか、と愚かな考えを持った幼い頃の自分達は苛めをやめるようになったのだ。現に今豊は実力を以て忍者をしている。
まさかその鬼と恋仲になろうとは、誰が予想できたものか。
しかし、森で自分達から助けた男など鬼しかいない事に気付き、慌てた慎之介はこうして森にやって来たのだ。
「……確かに、あの時は豊を傷付けた。しかし、だからと言って鬼に呉れてやろうとは思わん!」
慎之介の叫びを聞いた鬼壱は、その目をすっと見据えた。
確かに、鬼と一緒になるのは幸せには思えない。散々自分から言ってきたし、そうして別れた結果の今なのだから。
だが、
「お前、また豊を傷付けないと言えるのか」
突き放したのは豊を想っての事。
すぐに立ち直って元気な姿を見せた豊だが、それは決して傷付かなかった訳ではない。同じような事を起こして豊が傷付いたら。
そんな人間では意味がない。
慎之介もそれを十二分に理解しているからか、ぎゅっと一瞬だけ目を瞑り、きっ!と鬼壱を見た。
「当然だ。貴様こそ、豊を傷つけたではないか」
先日見た豊の表情。鬼壱の事で哀しむと言うのは快く思えないが、思い出す。彼もまた、豊を傷つけたには違いなかった。
「僕ならあんな顔はさせない」
「……」
別れ際の豊、昨日やってきた豊。その姿を浮かべた鬼壱の胸を、もやもやとしている癖に重たい何かが襲い、慎之介から視線を外す。
お互い、数秒の沈黙を持つ。
虫の音と木の葉の揺れる音が辛うじて静寂に抵抗していた。
次に口を開いたのは鬼壱だった。
「――豊が心配なら、昼間に森へ来させるのを止めろ。俺はもう会わないと言ったんだ」
「……何?」
「人間同士、しかもその格好に匂い、お前は相当な家らしい。豊を幸せにしてやればいいだろ」
お互いに豊の幸せの為に譲らなかった。
それが先程の数秒であった真実。
過去の罪はあれど、今では立派に豊を思う人間に意地張って嫌みを言う必要などないのだ。何より鬼の自分よりも人間の方が幸せにしてやれるはずなのだ。
彼となら、幸せになれるのだから。
慎之介は少しだけ面を食らったような顔になるが、気を取り直して、刀を構えたまま軽く、しかし重たく頷いた。
「貴様に言われなくてもそうする」
「そうか。俺が豊と会わないならもう関係はないよな。もう静かに寝かせてくれ」
鬼壱は腕を組み、刀などには全く怯えもせず、適当にそう言った。
無駄だと悟ったか、もう豊とのことは大丈夫だと思ったか、刀を退く慎之介。
「もう二度と」
「ああ」
一言ずつ交わして、二人は背中を向け合う。
幾度かざくざくと草を踏んだ時。鬼壱がもう一度、口を開いた。
「名前は」
「木ノ上慎之介」
躊躇うことなく慎之介は告げる。それが礼儀故か、言わねばならない別の気持ちがあった故かわからない。
今度こそお互いは歩き出し、振り向くことも声を掛けることもなく、在るべき場所へ帰っていった。