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本編

 木の葉が被さり沢山の陽を遮る京古の西、妖の森。
 足を踏み入れても誰もいない。やっても来ない。
 緑と茶の静かな空間で、奥の方から届く小さくも重なった虫達の声と自らの足元から鳴る枝葉を踏む音だけが異様に聞こえた。
 今まで来た時は、こんなに不気味じゃなかったのにな。豊は思う。
 恐らく見える景色など、心によって晴れたり曇ったりするのだ。

 ――怖い。

 鬼壱を呼ぶ為の一声が、出ない。鬼壱でもキーちゃんでも、第一声だけならおーいだけでもいいのに。
 帰ると言う選択肢が豊の中にふっと浮かんだ。それを直ぐ様首を振るって払う。
 日はもう迫っているのだ。

 仕事をこなしたり部屋で踞って考えたり、貰った宝石を握りしめたり。そうこうしていても豊と鬼壱の溝は変わらず、けれど時間は勝手に流れていく。
 あと四日――それで多くの忍者と剣士がここへ乗り込んでくるのだ。森は戦場になって、恐らく妖側の方がより多くの被害が出る。
 鬼壱ならばきっと討伐隊からも逃げられるし、無用な戦いはしないだろう。だから別に伝える必要はない。それに豊は、森にはもう来られないと思っていた。鬼壱に……あんなにもはっきりと、真剣に、来るなと言われたから。そしてその上で来るのはとても怖かったから。

 ……それでも結局、勇気を出して来てしまった。

 来てしまったからには伝えなければいけない。
 でも、声がでない。
 そんな寂しく空しい堂々巡りが続いてから暫く。ようやく、ぐぐっと喉を押さえるような不安の圧力をどうにか抑え、一言だけ紡ぐ。

「……鬼壱……」

 小さな声に、返事はなかった。
 更に期待するように深い奥をじぃ、と見つめて暫し待ってみるが、豊の目に写るのは誰がやって来る気配もない変わらぬ景色。
 豊はゆっくりと背を向けた。そこからとぼとぼと歩を進める。
 やがて森から、豊の気配だけが消えた。

 ――がさり、

 彼女の気配が完璧に消えてから揺れる、奥にある一本の樹の枝。太いそれを踏みつけて現れたのは、遠くを見つめる赤髪の鬼だった。

「……来るなって言っただろ、豊……」

 その場から消えた名前を呼ぶ鬼。
 豊が幾ら強いと言っても、妖で何十年と長く生きている鬼壱には敵わない。
 彼は大分離れた奥の樹に気配を消して、居留守のようにじいっと待っていたのだ。豊が帰るのを。
 案の定気付かれずに豊は帰っていった。

 口では何だかんだ言っていても、実際に心の内で互いに嫌って別れたわけではない。寧ろその逆。相手を想ったからこその別れだった。だから鬼壱は余計に、こんな森にはもう来ないでくれと願う。
 具体的な理由は心の外から出せずにいるが、悲しい顔をされると胸がきゅっと締めつけられる。泣きそうになると無意識に側に寄ってしまいそうになる。
 普段は豊を無下に扱っていた鬼壱だが、彼女の去った跡を、優しそうな悲しそうな……そう、一番合う言葉は、愛しそうな。そんな目で見つめていた。

「こんな気持ちになるなんてな……。変なことも、あるモンだ」

 一吹きした風に揺れたのか、木の葉の擦れた音しかない空間に言葉を投げ入れる。意味も理由もないただの呟きだった。
 しかしそれを合図としてか、一つの枝の上でしゅるんと妖気が渦を巻いて、何かの形になる。
 そこからくすくすくすと妙な笑い声で現れたのは、小さくてふさふさとした薄黄色の、昼間でも平気で出歩くような弱い化け狐だった。

「くすくすくす。あの子、何かを伝えに来たねェ……」

「狐か、」

 鬼壱はちらりと視界の端でそれを捉えると、興味無さ気に一言を吐き捨てる。元より自分のいる場所より奥でいるような気はしていたのだが、あまりに妖力が薄いので気には留めていなかった。
 妖が戦相手や食べる対象として以外で興味を持つことも殆ど無いだろうし、鬼壱が呟いたのもほんの少しの言葉だけ。
 普通ならば気にする事なく日常を再開させただろうに、全く嫌な性質の奴が来たものだ。

 鬼壱は昔豊にも言った通り、特に親しい妖も関係を持つ妖もいない。
 顔を知っているくらいの奴は何百といるが、そういうのは皆、良し悪し問わず有名なやつであるとか、たまたま互いの持ってるものが欲しくて取引した妖だとか、すれ違って数度話をしただとか。明日には牙を向けられてもおかしくないほど友人でも何でもない関係だ。
 この狐もそうである。
 こんな性質の狐なものだから、向こうから何度か声を掛けられたり首を突っ込まれたり。
 今回もまた面白そうな場面に直面したものだからやって来たのだろう。
 夜に寝て溜めるほどの妖力もないくらいに牙を剥く力はないし、逃げ足だけしか取り柄がなさそうだが、鬼壱にとっては五月蝿い事この上ない。

「何か嫌ァな予感がするよ。そんな時は私みたいのァ逃げればいいんだけどね……くすくすくす」

 豊が何かを伝えに来たとすれば、それは恐らく、会わないなんて嫌だ。だろう。鬼壱の頭の中で安易に想像できてしまう。嫌な予感も何もあったものではないのだが。
 それにいくら酷い事を言ったところで、豊は愛した鬼壱を殺しにくるような人間でもない。
 しかし、得てして女の勘は当たるものだ。それが妖であっても。
 狐はそのまま笑い声を続けながらも、たんと止まっていた枝を蹴りあげて、空中でくるりと回り、それがまた現れた時と同じように渦になった。そして渦は空間にとけて、狐はどこかに逃げてしまった。

「豊……」

 鬼壱は再び町の方を見つめる。
 煙が上がるわけでもなく、声が聞こえるわけでもなく。
 そこには何事もない世界が広がっていた。
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