本編
墨を溢したように真っ暗な空と、それを免れた点のような星。闇間からすうっと漏れる光が美しくあり、妖しくもあった。
正しく夜。
妖達が蠢き、何匹かが町へ忍び込み、あるいは堂々と襲いに来る時間帯だ。
こんな事が無くなれば。そんな人間達の願いの日は刻々と差し迫り、数週間後に控えていた。
それでも京古の町の夜はまだ、変わりはしない。
静けさの中にたっ、と屋根に跳び移る音が響く。僅かばかりの月の光やまだ灯の点る数少ない家から滲む明かりに照らされるも、そこに立つ女の固くぼさぼさの赤髪は映えなかった。
少し先の屋根にもう一人、少女の足が着く。綺麗に揺れる二房の髪は後ろの女よりも光を返した。けれど灰の服が気配を薄める。
少女は体を安定させると、辺りを探るように周囲を見回し、耳を澄ました。
そして振り返り、後ろの女と一先ず目での合図。頷き。
二人の表情は等しく、真剣なものだった。
「異常なし」
「――みたいだね」
それでも警戒は緩めない。
それが忍者の仕事なのだから。
二人の忍者、燐と豊はまた適等な屋根の上を数回伝い跳び、そこから辺りを探る。妖の気配を見落とさぬように。微かな気配でも見つけたら、すぐに応戦できるように。
下っ端にも任されるとは言え見回りはとても重要な仕事だ。町人に被害が出るかもしれないし、気を抜けば自分達も命が危ぶまれる。
けれどそれも一通り任された場所を巡れば、今日は何事もないと言う結果に、力の入った燐の肩がふうっと落とされた。それだけ真面目に、熱心に仕事していると言うのも燐の良い所なのだが。
「ここで終わり、かな。……今夜は大丈夫そうだ」
「じゃあ戻ろっか」
もう一度辺りを見回してから、二人は班で決められた集合場所へと跳んで向かった。
忍術には身代わりの術や縄脱けの術があろうと、自分達が消えたり風になる術はない。瞬時に場所を移動する手段が自分の足を鍛える以外に存在しないのが残念だ。
それでも一般人からかけ離れた早さで屋根を駆け、跳ぶ。
その途中の事だった。
ふ、と白いモノが豊の視界の端を横切る。普通ならば気にも止められないほど微かな存在。けれど警戒していた忍者……豊は不審に思い、視線を動かした。
「――っ、燐姐!」
燐の後ろに現れる白いモノ。布のようにも見えるが、布巾なんかより幾倍も大きく広がっている。目や口らしき物も付いていた。
それが風に流されることなくぴたりと、燐の背後を取っている。
豊は直ぐ様指を動かし印を結ぶ。
しかし、それが終わる前に燐の首にしゅるりと巻き付く白。見た目は布だというのに、そこからぎりぎりと締め付けた力は人の手で絞られているようだ。
「ぐぅっ……」
燐が苦し気な声で啼く。慌てて覚束ない右手で首元を探り布を掴もうとするが、上手くいかない。
そちらの行動は半分諦めて左手でクナイを握るが、長さのある白いモノは左腕さえ巻き付けて、しゅるりと絡めとられた。
それはほんの短い間だったが、ようやく豊が術を唱え終わる。
「火遁の術!!」
ぼう、と細い指先から火が踊り、渦巻いて布の先へ向かう。
火に気付いた一反木綿は燐を解くが、火の方が早く、逃げられない。
燃え始めた白いモノは闇が滲むような咆哮をあげた。そして腕や首の締め付けも緩んでいく。
それに気付いた燐は確かな手つきで素早く白を掴み、クナイで裂くと、自分だけ火から逃れる。
やがて火は布を呑み込むように灰に変えた。
表記し難い唸り声は闇へと沈んでいった。
「燐姐、大丈夫?!」
「っ、けほっ……ごめん、助かった」
駆け寄る豊に、座り込みながら礼を言う燐。
帰り道に襲われるとは、油断した。燐は自分の失態を悔やむ。
しかしここは既に集合場所に向かっているだろう、他の班員が担当する辺りだ。燐だけの責任ではない。
「取り敢えず、上級の人に報告しよう。……本当に大丈夫?燐姐……」
「ああ。来週の計画で、こんな事が減ればいいけど……さ、帰ろう」
「……うん」
締め付けられた首も腕も赤く巻き付けられた跡が残っている。
数日休めば治るのだろうが、豊はその痛みがわかる跡に燐を心配しつつ、そうっと灰が流れた空気を見つめた。
正しく夜。
妖達が蠢き、何匹かが町へ忍び込み、あるいは堂々と襲いに来る時間帯だ。
こんな事が無くなれば。そんな人間達の願いの日は刻々と差し迫り、数週間後に控えていた。
それでも京古の町の夜はまだ、変わりはしない。
静けさの中にたっ、と屋根に跳び移る音が響く。僅かばかりの月の光やまだ灯の点る数少ない家から滲む明かりに照らされるも、そこに立つ女の固くぼさぼさの赤髪は映えなかった。
少し先の屋根にもう一人、少女の足が着く。綺麗に揺れる二房の髪は後ろの女よりも光を返した。けれど灰の服が気配を薄める。
少女は体を安定させると、辺りを探るように周囲を見回し、耳を澄ました。
そして振り返り、後ろの女と一先ず目での合図。頷き。
二人の表情は等しく、真剣なものだった。
「異常なし」
「――みたいだね」
それでも警戒は緩めない。
それが忍者の仕事なのだから。
二人の忍者、燐と豊はまた適等な屋根の上を数回伝い跳び、そこから辺りを探る。妖の気配を見落とさぬように。微かな気配でも見つけたら、すぐに応戦できるように。
下っ端にも任されるとは言え見回りはとても重要な仕事だ。町人に被害が出るかもしれないし、気を抜けば自分達も命が危ぶまれる。
けれどそれも一通り任された場所を巡れば、今日は何事もないと言う結果に、力の入った燐の肩がふうっと落とされた。それだけ真面目に、熱心に仕事していると言うのも燐の良い所なのだが。
「ここで終わり、かな。……今夜は大丈夫そうだ」
「じゃあ戻ろっか」
もう一度辺りを見回してから、二人は班で決められた集合場所へと跳んで向かった。
忍術には身代わりの術や縄脱けの術があろうと、自分達が消えたり風になる術はない。瞬時に場所を移動する手段が自分の足を鍛える以外に存在しないのが残念だ。
それでも一般人からかけ離れた早さで屋根を駆け、跳ぶ。
その途中の事だった。
ふ、と白いモノが豊の視界の端を横切る。普通ならば気にも止められないほど微かな存在。けれど警戒していた忍者……豊は不審に思い、視線を動かした。
「――っ、燐姐!」
燐の後ろに現れる白いモノ。布のようにも見えるが、布巾なんかより幾倍も大きく広がっている。目や口らしき物も付いていた。
それが風に流されることなくぴたりと、燐の背後を取っている。
豊は直ぐ様指を動かし印を結ぶ。
しかし、それが終わる前に燐の首にしゅるりと巻き付く白。見た目は布だというのに、そこからぎりぎりと締め付けた力は人の手で絞られているようだ。
「ぐぅっ……」
燐が苦し気な声で啼く。慌てて覚束ない右手で首元を探り布を掴もうとするが、上手くいかない。
そちらの行動は半分諦めて左手でクナイを握るが、長さのある白いモノは左腕さえ巻き付けて、しゅるりと絡めとられた。
それはほんの短い間だったが、ようやく豊が術を唱え終わる。
「火遁の術!!」
ぼう、と細い指先から火が踊り、渦巻いて布の先へ向かう。
火に気付いた一反木綿は燐を解くが、火の方が早く、逃げられない。
燃え始めた白いモノは闇が滲むような咆哮をあげた。そして腕や首の締め付けも緩んでいく。
それに気付いた燐は確かな手つきで素早く白を掴み、クナイで裂くと、自分だけ火から逃れる。
やがて火は布を呑み込むように灰に変えた。
表記し難い唸り声は闇へと沈んでいった。
「燐姐、大丈夫?!」
「っ、けほっ……ごめん、助かった」
駆け寄る豊に、座り込みながら礼を言う燐。
帰り道に襲われるとは、油断した。燐は自分の失態を悔やむ。
しかしここは既に集合場所に向かっているだろう、他の班員が担当する辺りだ。燐だけの責任ではない。
「取り敢えず、上級の人に報告しよう。……本当に大丈夫?燐姐……」
「ああ。来週の計画で、こんな事が減ればいいけど……さ、帰ろう」
「……うん」
締め付けられた首も腕も赤く巻き付けられた跡が残っている。
数日休めば治るのだろうが、豊はその痛みがわかる跡に燐を心配しつつ、そうっと灰が流れた空気を見つめた。