本編
『ねえ、慎之介さん。あなた、豊の事は大切に思ってくれているのよね?』
豊に会いに、養育屋敷を訪ねた日の事。
豊の母にあたる、管理人の篠子が珍しくそう聞いてきた。
篠子は普段はおっとりとしているが、時々壊れるような、明るく優しく……少し不思議な人だ。慎之介が豊に初めて会いに行った時も気圧されるほどの勢いで色々と問い詰められたし、そうでなくともよく冗談を言ったりする。
だが、その時の言葉はしっかりと、真剣に聞かれていた。
だから慎之介は理由がわからなくとも、真っ直ぐに返した。
『はい』
今は豊の事は、心の底から大切であると言える。
その返事をする顔を見た篠子は、いつも通りに優しく笑いかけて言った。
『そう。よかったわ。今、豊を呼んでくるわね』
そうして奥へと消えていく篠子。
それで彼女から何かがあった訳ではない。普通に豊はやって来たし、ただの豊と話す前の雑談だった。
その時は慎之介もそうだと思ったのだが……もしかしたら、“キイチ”が挨拶に来たことが関係しているのかもしれない。
本やら帳簿やらがびっしりと棚に収まり、暗い世界を油の臭いがする灯りがゆらゆらと照らす。
古くから使われている机の前に座り、不要になった資料を避けて、ただ肘をつけて悩む。掌は額を支えていた。
「キイチ……」
小さくひょこりと結ばれていた髪は解かれ、外に出る時とは違い香を焚いてはいないが、整った顔と上等な衣。そしてここは木ノ上商店の二階。呟いた人間は間違いなく木ノ上慎之介であった。
既に仕事が終わった今、慎之介の頭は完全に私事に使われていた。
喜一。杞壱。頭にこの辺りに住む人間を浮かべ、名をその音と照合する。
合う人間は殆どいない。一人、二人見つかった所で、豊には釣り合わない齢の男ばかり。
強い、優しい、カッコいい。
ならば剣士か忍者だろうか。
豊も忍者であるのだから、知り合うきっかけも多いだろう。
木ノ上商店が生活用品や雑貨を扱っていても、大きい店故に他の店主とも交流がある。武具中心に扱う店の主人にでも聞いてみようか。
「旦那様――」
考えを中断させるように、襖の向こうから、店の手伝いをしている女性が声を掛けてきた。
旦那様。
本来ならば慎之介の父、慎太郎の事なのだが、実質的に今の商店の主人は慎之介で、商売人としても慎之介の方が尊敬出来る。だから慎太郎がいない内は、店の者皆がそう呼ぶのだった。
その上慎太郎は家を空けることも多く、最近はますますその機会が増えている。
亡き母の他に女の宛があるようにも思えず、酒か賭博か……ふらふらしているだけなのだろうと慎之介は思うのだが。
何にせよそう言う時は慎之介も店の人間も、慎太郎が一体何処にいるのだか検討もつかない。
「すみません、店の事でお聞きしたい事が御座いまして」
「そうか。入れ」
「失礼致します」
招き入れるとすっと襖が開き、女は一礼の後に入り込んで、それを再び静かに閉めた。
「明日の予定なのですが――」
慎之介はすぐさま女の相談に答える。明日の得意客への対応、入ってくる新商品の配置、それに上手く相談に乗ってやると、嫌な客に因縁をつけられたと言う愚痴も少し零れてきた。
そして、また女は慎太郎を比べる。本来ならば慎太郎が答えるべきなのに、今日も何処ぞへ消えている。
女の考えなど知らない慎之介は、ところで明日は少し出ていくから時間が欲しい。と伝えて女を部屋から帰し、早めに床に就いた。
翌日、慎之介は町にある一つの武具屋を訪ねていた。
武具の仕入れはないが、棚や台、あるいは筆や紙などの消耗品。木ノ上が携わる物は沢山あるし、得意客で武具を探している者を融通したりもしている。
それ故に入口側にいた慎之介と同じくらいの若い店の男に頼むと、すぐに主人を呼んでくれた。
白髪混じりの男が低い姿勢でやってくると、慎之介は問題の名を口にする。
「忙しいのに申し訳ない。腕の利く者には殆ど面識のあるご主人に、少々尋ねたいことがあるのだが……」
「へぇ、何でしょう」
「京古に“キイチ”と言う名の……私くらいの剣士、あるいは忍者はいるだろうか」
男は少しの間にぐるりと頭の名簿を巡り、顎の髭を擦る。
「キイチ……ううん、そうですねぇ。隅から隅まで知っているとは言えませんが、恐らくいないと思います」
それは謙遜であると知っていた。
武具で京古一有名な武具屋はここで、新米から名人から、多少にかかわらず力のある者は大半がやって来る。
その大半から漏れたとしても当然主人は他の名工達とも知り合いで、他の店で全てを買う人間も、店に並ばない名刀を鍜冶士から直接買うような客も耳に入るはずだ。
彼が知らないと言うのだから、京古の剣士や忍者にはほぼいない事になる。
そうですか、どうも有難う。と礼を言うと、慎太郎ほどの年のいった主人も深々と頭を下げた。
「忍者や剣士ではない……」
歩きながら呟くも、次に探る宛は無い。
強いと言うのは、力ではなく心や他の何かなのか。もしくは、単に同年代の中では力のある方という事なのか。
何度も考えてはみるが、慎之介には答えが見つからなかった。
豊に会いに、養育屋敷を訪ねた日の事。
豊の母にあたる、管理人の篠子が珍しくそう聞いてきた。
篠子は普段はおっとりとしているが、時々壊れるような、明るく優しく……少し不思議な人だ。慎之介が豊に初めて会いに行った時も気圧されるほどの勢いで色々と問い詰められたし、そうでなくともよく冗談を言ったりする。
だが、その時の言葉はしっかりと、真剣に聞かれていた。
だから慎之介は理由がわからなくとも、真っ直ぐに返した。
『はい』
今は豊の事は、心の底から大切であると言える。
その返事をする顔を見た篠子は、いつも通りに優しく笑いかけて言った。
『そう。よかったわ。今、豊を呼んでくるわね』
そうして奥へと消えていく篠子。
それで彼女から何かがあった訳ではない。普通に豊はやって来たし、ただの豊と話す前の雑談だった。
その時は慎之介もそうだと思ったのだが……もしかしたら、“キイチ”が挨拶に来たことが関係しているのかもしれない。
本やら帳簿やらがびっしりと棚に収まり、暗い世界を油の臭いがする灯りがゆらゆらと照らす。
古くから使われている机の前に座り、不要になった資料を避けて、ただ肘をつけて悩む。掌は額を支えていた。
「キイチ……」
小さくひょこりと結ばれていた髪は解かれ、外に出る時とは違い香を焚いてはいないが、整った顔と上等な衣。そしてここは木ノ上商店の二階。呟いた人間は間違いなく木ノ上慎之介であった。
既に仕事が終わった今、慎之介の頭は完全に私事に使われていた。
喜一。杞壱。頭にこの辺りに住む人間を浮かべ、名をその音と照合する。
合う人間は殆どいない。一人、二人見つかった所で、豊には釣り合わない齢の男ばかり。
強い、優しい、カッコいい。
ならば剣士か忍者だろうか。
豊も忍者であるのだから、知り合うきっかけも多いだろう。
木ノ上商店が生活用品や雑貨を扱っていても、大きい店故に他の店主とも交流がある。武具中心に扱う店の主人にでも聞いてみようか。
「旦那様――」
考えを中断させるように、襖の向こうから、店の手伝いをしている女性が声を掛けてきた。
旦那様。
本来ならば慎之介の父、慎太郎の事なのだが、実質的に今の商店の主人は慎之介で、商売人としても慎之介の方が尊敬出来る。だから慎太郎がいない内は、店の者皆がそう呼ぶのだった。
その上慎太郎は家を空けることも多く、最近はますますその機会が増えている。
亡き母の他に女の宛があるようにも思えず、酒か賭博か……ふらふらしているだけなのだろうと慎之介は思うのだが。
何にせよそう言う時は慎之介も店の人間も、慎太郎が一体何処にいるのだか検討もつかない。
「すみません、店の事でお聞きしたい事が御座いまして」
「そうか。入れ」
「失礼致します」
招き入れるとすっと襖が開き、女は一礼の後に入り込んで、それを再び静かに閉めた。
「明日の予定なのですが――」
慎之介はすぐさま女の相談に答える。明日の得意客への対応、入ってくる新商品の配置、それに上手く相談に乗ってやると、嫌な客に因縁をつけられたと言う愚痴も少し零れてきた。
そして、また女は慎太郎を比べる。本来ならば慎太郎が答えるべきなのに、今日も何処ぞへ消えている。
女の考えなど知らない慎之介は、ところで明日は少し出ていくから時間が欲しい。と伝えて女を部屋から帰し、早めに床に就いた。
翌日、慎之介は町にある一つの武具屋を訪ねていた。
武具の仕入れはないが、棚や台、あるいは筆や紙などの消耗品。木ノ上が携わる物は沢山あるし、得意客で武具を探している者を融通したりもしている。
それ故に入口側にいた慎之介と同じくらいの若い店の男に頼むと、すぐに主人を呼んでくれた。
白髪混じりの男が低い姿勢でやってくると、慎之介は問題の名を口にする。
「忙しいのに申し訳ない。腕の利く者には殆ど面識のあるご主人に、少々尋ねたいことがあるのだが……」
「へぇ、何でしょう」
「京古に“キイチ”と言う名の……私くらいの剣士、あるいは忍者はいるだろうか」
男は少しの間にぐるりと頭の名簿を巡り、顎の髭を擦る。
「キイチ……ううん、そうですねぇ。隅から隅まで知っているとは言えませんが、恐らくいないと思います」
それは謙遜であると知っていた。
武具で京古一有名な武具屋はここで、新米から名人から、多少にかかわらず力のある者は大半がやって来る。
その大半から漏れたとしても当然主人は他の名工達とも知り合いで、他の店で全てを買う人間も、店に並ばない名刀を鍜冶士から直接買うような客も耳に入るはずだ。
彼が知らないと言うのだから、京古の剣士や忍者にはほぼいない事になる。
そうですか、どうも有難う。と礼を言うと、慎太郎ほどの年のいった主人も深々と頭を下げた。
「忍者や剣士ではない……」
歩きながら呟くも、次に探る宛は無い。
強いと言うのは、力ではなく心や他の何かなのか。もしくは、単に同年代の中では力のある方という事なのか。
何度も考えてはみるが、慎之介には答えが見つからなかった。