本編
仕事のない日は子供達が豊へと群がる。それに笑顔で応えて遊んでやり、あるいは時々昼寝をしたり部屋で忍術の本を読んだりして、篠子の作った夕食を食べる。それが今の豊の休日だ。……鬼壱の下へ行かない日の。
今日も子供達との遊びを終えて少しの休憩にと部屋を上がれば、澱んだ気持ちで膝を抱える。子供達には隠した顔。それでも未だ、晴れることのない気持ち。
「豊、お客様よ」
ふと下から篠子の声が聞こえた。それで気を取り直す。声色にそれを見せる気はないのだから。
篠子の調子に合わせるように、豊も普通の大きさと高さで返事を返す。
「はぁーい。……誰?」
返しながらも下へとんとんと降りていく。
階段から顔を覗かせた豊に、篠子はいつものように優しい声で答えた。
「慎ちゃんよ。……ねえ、豊」
「なあに?」
「……ううん。やっぱり今はいいわ。それより“彼”の事、きちんと自分から伝えてあげなさいな」
彼。
その言葉に、少しだけ空いてしまう間。
「……うん、そうだね!」
彼とは当然鬼壱の事だ。豊を悩ませる憂鬱の原因。
篠子には悪意はないのだが、そして知らぬ彼女にとっては当たり前の事を言っているのだが、笑顔の裏で、豊の胸はつきりと痛んだ。
しかし、其れは其れ是は是。相手を待たせる訳にはいかない。
兎に角豊はがらりと戸を開き、待ち人に顔を見せるために玄関へと向かった。
「――豊」
鬼壱よりも短く濃い黒髪をちょこんと纏め、上品な華やかさを持つ袴を着た青年は、豊を見た瞬間に柔らかく笑う。足元にも気を使い、何か香を使っているのか、豊の鼻はふわりと濃い空気を感じた。
(……鬼壱とは全然違う)
瞬間、首を振るう。
思わず鬼壱の顔を浮かべてしまった。
目の前にいるのは昔馴染みの木ノ上慎之介(きのかみ しんのすけ)ではないか。鬼壱と違って当然だし、目の前の相手に向き合わずに一体何をしているんだ。
そう、豊は自分を諌める。
「慎之介さん……こんにちは」
諌めながらも挨拶をする。慎之介もまた笑って挨拶を返した。
「久しぶりだね、豊」
「そうだね。……慎之介さんはお仕事、相変わらず忙しいんでしょう」
慎之介の家である木ノ上商店と言えば昔から大きな商店ではあったが、今では京古町でも一、二を争う大店に成長していた。
彼は豊の二つ上でまだまだ若いが、既に経営の大半を担っていて、その成長は彼の実績でもある。
「君に会う時間はあるよ。この間も伺ったんだけどね。すれ違いだったみたいだ」
「そうだったの?……ごめんなさい。最近は集まりも多いから」
「忍者も大変そうだね……」
文字に起こせばまるで他人事のように聞こえる。確かに生活用品、雑貨を中心に扱う木ノ上商店には他人事かもしれない。武器や火薬なんかを扱う店と違って忍者との直接の取引はほぼないのだから。
しかし、慎之介の思うところは違う。彼女を自分の傍に置き守りたいのに、できない。そういった声だった。
こんな声でも豊にはいつも通り、心配してくれている、程度に受け取られるのだろう。
「……慎之介さん」
ざり、
慎之介に向き直って、草履が砂を抉る。
頭一つ分高い身長から、豊は慎之介を見上げる形になった。
「前に、お付き合いするの、お断りしたよね」
「……そうだね。それでも僕は君を諦めない。振り向いてくれる日まで待つよ」
そう、以前からの言葉を再び紡ぐ慎之介。
それに豊はふるふると首を振るった。そして、丁寧に頭を下げる。
「ごめんなさい。私、好きな人がいるの。お断りしただけで、はっきり言ってなかったけど……この間、養育屋敷にも連れてきて、皆に紹介したんだ。だから……」
「……」
だから。その先の言葉は豊の口から上手く出てこない。だがきちんと伝わってはいた。
故に慎之介は、言葉を失った。
好きな人がいるのだろうと、薄々はわかっていた……だが、まだ間に合うと思っていたのだ。まさか、もう家族に合わせる所まで来ているとは。
「そいつは、どんな人だい」
その言葉に、ぶわりと風が吹き込むようにすぐ、鬼壱の顔が、姿が豊の頭の中に浮かぶ。
自然に顔にも笑みが浮かんだ。
「……優しいよ。強くて、カッコいい。ちょっとひねくれてるけど……」
「そうか」
本当に豊はその男が愛しいのだと察せる笑みに、慎之介も寂しい笑顔を溢す。
豊が本当に幸せで愛しているのなら、自分に漬け入る隙はない。それくらい慎之介もわかっている。
沈んだ心の所為か、いつの間にか豊から視線がずれていたのに気付き、ふっと戻す。するとその視線は、彼女が同じような表情をしているのを捉えた。
「どうして、そんな顔をするんだ?」
「ちょっと、ね。うん、ちょっとした喧嘩中なの、直ぐにまた仲直りするけどね!」
強がってか、他人への上手くない誤魔化しか。次の瞬間には豊は、負を感じさせぬよう明るく張った声で、前にやった両拳をぎゅっと握っていた。
――本当に出来るのだろうか。
その口から勝手に出てしまった言葉は、豊の希望だったのかもしれない。未だに豊の胸では何か言い表せない物が燻っていた。
しかし、そんな豊を易々見逃す慎之介ではない。
自分ならそんな表情はさせないのに。
もう二度と。
「豊……本当にそいつは優しいのか?君に、そんな表情をさせる癖に」
細やかに含まれる嫉妬。
過去の自分と重ねた憎悪。
それでも取り繕われた言葉、彼女には気取られないだろう。
「嫌だな、慎之介さん。“鬼壱”の事悪く言っちゃ駄目だよ」
――キイチ。
初めて聞く、恐らく想い人の名前に、慎之介の唇が小さく動く。
「そろそろお店に戻った方がいいんじゃないかな。忙しい中来てくれたんでしょう。有難う、気持ちは嬉しいけど、今言ったように友人より上の関係にはなれないし、お店に迷惑が掛かると困るから」
ね、と柔らかく笑う豊に、確かに少ない時間で会いに来た慎之介は逆らえず、名残惜しくも別れの挨拶を述べた。
「……それでも、また来るよ」
そう付け足して。
今日も子供達との遊びを終えて少しの休憩にと部屋を上がれば、澱んだ気持ちで膝を抱える。子供達には隠した顔。それでも未だ、晴れることのない気持ち。
「豊、お客様よ」
ふと下から篠子の声が聞こえた。それで気を取り直す。声色にそれを見せる気はないのだから。
篠子の調子に合わせるように、豊も普通の大きさと高さで返事を返す。
「はぁーい。……誰?」
返しながらも下へとんとんと降りていく。
階段から顔を覗かせた豊に、篠子はいつものように優しい声で答えた。
「慎ちゃんよ。……ねえ、豊」
「なあに?」
「……ううん。やっぱり今はいいわ。それより“彼”の事、きちんと自分から伝えてあげなさいな」
彼。
その言葉に、少しだけ空いてしまう間。
「……うん、そうだね!」
彼とは当然鬼壱の事だ。豊を悩ませる憂鬱の原因。
篠子には悪意はないのだが、そして知らぬ彼女にとっては当たり前の事を言っているのだが、笑顔の裏で、豊の胸はつきりと痛んだ。
しかし、其れは其れ是は是。相手を待たせる訳にはいかない。
兎に角豊はがらりと戸を開き、待ち人に顔を見せるために玄関へと向かった。
「――豊」
鬼壱よりも短く濃い黒髪をちょこんと纏め、上品な華やかさを持つ袴を着た青年は、豊を見た瞬間に柔らかく笑う。足元にも気を使い、何か香を使っているのか、豊の鼻はふわりと濃い空気を感じた。
(……鬼壱とは全然違う)
瞬間、首を振るう。
思わず鬼壱の顔を浮かべてしまった。
目の前にいるのは昔馴染みの木ノ上慎之介(きのかみ しんのすけ)ではないか。鬼壱と違って当然だし、目の前の相手に向き合わずに一体何をしているんだ。
そう、豊は自分を諌める。
「慎之介さん……こんにちは」
諌めながらも挨拶をする。慎之介もまた笑って挨拶を返した。
「久しぶりだね、豊」
「そうだね。……慎之介さんはお仕事、相変わらず忙しいんでしょう」
慎之介の家である木ノ上商店と言えば昔から大きな商店ではあったが、今では京古町でも一、二を争う大店に成長していた。
彼は豊の二つ上でまだまだ若いが、既に経営の大半を担っていて、その成長は彼の実績でもある。
「君に会う時間はあるよ。この間も伺ったんだけどね。すれ違いだったみたいだ」
「そうだったの?……ごめんなさい。最近は集まりも多いから」
「忍者も大変そうだね……」
文字に起こせばまるで他人事のように聞こえる。確かに生活用品、雑貨を中心に扱う木ノ上商店には他人事かもしれない。武器や火薬なんかを扱う店と違って忍者との直接の取引はほぼないのだから。
しかし、慎之介の思うところは違う。彼女を自分の傍に置き守りたいのに、できない。そういった声だった。
こんな声でも豊にはいつも通り、心配してくれている、程度に受け取られるのだろう。
「……慎之介さん」
ざり、
慎之介に向き直って、草履が砂を抉る。
頭一つ分高い身長から、豊は慎之介を見上げる形になった。
「前に、お付き合いするの、お断りしたよね」
「……そうだね。それでも僕は君を諦めない。振り向いてくれる日まで待つよ」
そう、以前からの言葉を再び紡ぐ慎之介。
それに豊はふるふると首を振るった。そして、丁寧に頭を下げる。
「ごめんなさい。私、好きな人がいるの。お断りしただけで、はっきり言ってなかったけど……この間、養育屋敷にも連れてきて、皆に紹介したんだ。だから……」
「……」
だから。その先の言葉は豊の口から上手く出てこない。だがきちんと伝わってはいた。
故に慎之介は、言葉を失った。
好きな人がいるのだろうと、薄々はわかっていた……だが、まだ間に合うと思っていたのだ。まさか、もう家族に合わせる所まで来ているとは。
「そいつは、どんな人だい」
その言葉に、ぶわりと風が吹き込むようにすぐ、鬼壱の顔が、姿が豊の頭の中に浮かぶ。
自然に顔にも笑みが浮かんだ。
「……優しいよ。強くて、カッコいい。ちょっとひねくれてるけど……」
「そうか」
本当に豊はその男が愛しいのだと察せる笑みに、慎之介も寂しい笑顔を溢す。
豊が本当に幸せで愛しているのなら、自分に漬け入る隙はない。それくらい慎之介もわかっている。
沈んだ心の所為か、いつの間にか豊から視線がずれていたのに気付き、ふっと戻す。するとその視線は、彼女が同じような表情をしているのを捉えた。
「どうして、そんな顔をするんだ?」
「ちょっと、ね。うん、ちょっとした喧嘩中なの、直ぐにまた仲直りするけどね!」
強がってか、他人への上手くない誤魔化しか。次の瞬間には豊は、負を感じさせぬよう明るく張った声で、前にやった両拳をぎゅっと握っていた。
――本当に出来るのだろうか。
その口から勝手に出てしまった言葉は、豊の希望だったのかもしれない。未だに豊の胸では何か言い表せない物が燻っていた。
しかし、そんな豊を易々見逃す慎之介ではない。
自分ならそんな表情はさせないのに。
もう二度と。
「豊……本当にそいつは優しいのか?君に、そんな表情をさせる癖に」
細やかに含まれる嫉妬。
過去の自分と重ねた憎悪。
それでも取り繕われた言葉、彼女には気取られないだろう。
「嫌だな、慎之介さん。“鬼壱”の事悪く言っちゃ駄目だよ」
――キイチ。
初めて聞く、恐らく想い人の名前に、慎之介の唇が小さく動く。
「そろそろお店に戻った方がいいんじゃないかな。忙しい中来てくれたんでしょう。有難う、気持ちは嬉しいけど、今言ったように友人より上の関係にはなれないし、お店に迷惑が掛かると困るから」
ね、と柔らかく笑う豊に、確かに少ない時間で会いに来た慎之介は逆らえず、名残惜しくも別れの挨拶を述べた。
「……それでも、また来るよ」
そう付け足して。