Where She Remains
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どのくらい眠っていたのだろう。
微かに聞こえた紙の捲れる音に意識を引き戻されて、重たい瞼を開ける。
そのまま視線だけを動かして横を見ると、ベッドの脇に置かれた椅子で、ヨザックが本を読んでいた。
「あれ?…ヨザック?」
寝惚けた声で名前を呼ぶと、一瞬驚いたように顔を上げた彼は、ため息をついて本を閉じた。
「”あれ?”じゃないでしょ。…ったく、生きた心地がしなかったですよ。」
怒っているような、困っているような、心配しているような。
よく分からない口振りでそう漏らすと、大きな掌で頬を挟まれ、ぐい、と左右に顔を向けられた。
「顔色はもう良さそうですね。」
「…ずっと居てくれたの?」
「そりゃ置いて帰れるワケ…、」
言いかけて、ヨザックは言葉を切った。
挟んでいた頬からそっと手を離し、誤魔化すように頭を掻くと、椅子から立ち上がった。
「さすがにそろそろお暇しねーと。体調の事、必ずお兄様に伝えて下さいよ。それから念の為、お医者様にも診てもらってください。」
「…分かったわ。」
ヨザックの小言に、まるで叱られた子供のように、しゅんとして小さくなるアマーリエ。
彼を見上げると、窓から差し込む夕日を受けて、オレンジ色の髪がきらきらと光って見えた。
…きれい。
そう思いながらぼんやりと見惚れていると、ヨザックは視線を逸らしてドアへ向かって歩き出してしまった。
「また、来てくれるわよね?待っているから。」
慌てて起き上がり、彼の背中に、祈るようにそう問いかける。
別れ際、いつも不安になる。
私から、彼を追いかけることは出来ないのに。
それなのに、私の世界はもう、彼無しでは物足りなくなってしまっているから。
会えない時間が、なるべく短いと良い。
ヨザックはくるりと振り向いた。
「…そんな顔しないでくださいよ。」
ほんの少しだけ困ったように笑って、いつもの温度で言った。
「次も、とっておきの”お土産”、持ってきますよ。」
****
昔から、人の機微には聡い方だ。
だからとっくに気が付いていた。
いつからか変化した、アマーリエの感情も。
その瞳が自分に望む事も、そして本人が叶わぬ願いだと悟っている事も。
だからこそ踏み込みすぎず、適切な距離感で関係を維持してきた。
それは彼女を傷つけない為でもあり、自己防衛でもあった。
最初はただの同情心に近かった。
人一倍の好奇心を持っているくせに、外の世界を全く知らない、可哀想なお姫様。
まるで鳥籠の中の彼女の、せめて息抜きくらいにはなれるだろうと。
軽い気持ちで話し相手になってやった。
自分を見出してくれた閣下への恩もある。
妹君のご機嫌取りくらいしておけば、何かと都合がいい。
なんて。
そのくらいの気持ちだった。
そのくらいの気持ちだったはずだ。
見たこともない景色や、くだらない噂話で、あの狭い世界に風穴を開けてやるだけのつもりだった。
彼女の知識欲が満たされて、その表情が生き生きとしていく様子を見ているのは、実際こっちも気分が良かった。
それに、一生懸命に話を聞こうとする彼女は純粋に可愛らしくて。
汚い世間で荒んだ心も絆された。
こんな時間も、まぁ、あっても良いなと思った。
けれど、いつだったか。
彼女が自分を見上げる視線に、憧れとも羨望とも違う感情を見つけてしまった。
「……らしくねぇな。」
小さく呟いて、息を吐く。
意識を失い眠る彼女が、縋るように自分の手を離さなかったのも。
その手を振り解くことが出来なかった、自分自身も。
分かっている。
これは、良くない兆しだ。
あの部屋に足を踏み入れる度に、自分の中の何かが、少しずつ形を変えていく。
―踏み込みすぎるな。
そう何度も、自分自身に警告してきた。
彼女のためでもある。
そして、自分のためでもある。
アマーリエは、俺が差し出す全てを信じてしまう。
そして差し出されたものを疑うことなく、そのまま受け取ってしまう。
だからこそ。
与えてはいけないものがある。
触れてはいけない場所がある。
それを、一番よく分かっているのは、
「…俺だろ。」
苦笑が、喉の奥でかすかに漏れた。
もう少しだけ、あの部屋に居たかった。
それが、どれだけ危うい事かも、全部分かった上で。
****
穏やかな午後だった。
体調も良く、久しぶりに長く机に向かっていられそうだった。
アマーリエはあの日ヨザックからもらった赤い革表紙の本を抱えて、図書室へ向かった。
人間の国の言葉を扱った本など、この城にはほとんどない。
そのため、いくつもの言語学の本を棚から探し出し、机の上に積み重ねた。
文字の成り立ち。
古い言葉と新しい言葉の変化。
似た形を持つ文字の共通点。
頁を繰り、分からないところがあれば別の本を開く。そうしているうちに、少しずつ意味が繋がっていく。
楽しい。
ほんの一節を読み解けただけなのに、不思議なくらい気持ちが昂った。
この文字の向こうには、ヨザックが見てきた世界がある。
彼が歩いた街。
彼が見た景色。
彼が出会った人々。
彼が食べたもの。
そう思うと、ただの文字だったはずのものが、急に遠い世界への扉のように思えてくる。
アマーリエは文字の上に人差し指を置いたまま、ふと思い巡らせた。
もし、私も、彼と一緒にその世界へ行けたなら。
ヨザックの隣で、彼の見ている景色を一緒に見られたなら。
まだ知らない街の片隅で、心地の良い小さな家に住んで。
朝になれば彼を送り出して、夕方帰ってくるのを待つ。
一緒に食事をして、眠って。
そんな夢物語みたいな未来があるのだろうか。
アマーリエは本を閉じて、胸に抱きしめた。
「…会いたい。」
誰もいない図書室で、そう声に出してしまってから、アマーリエは慌てて口元を押さえた。
会いたい。
行かないで。
私も一緒に連れて行って。
それがダメなら、ずっとここにいて。
別れ際、扉に向かう彼の背中にそう伝えることが出来たら、何かが変わるのだろうか。
そんなことを言えば、きっと彼は困る。
ヨザックには、彼の生きる場所がある。
彼を一ヶ所に留めることはできない。
分かっているのに。
私のところへ帰ってきてほしいと、願ってしまう。
ここへ戻ってきて、もっと近くにいて。
そしていつか、
私だけを見てほしい。
そんなふうに思ってしまう自分が、少し怖かった。
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