Where She Remains
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ヴォルテール城で長い任務の報告を終えた後、ヨザックは足取りを変えた。
それはもう長年の癖のようなもので、意識しなくても身体が覚えている。
石造りの回廊を抜け、柔らかな光の差す一角へ向かう。近づくにつれて胸の奥がふっと緩み、重たいものが剥がれ落ちていく。
そこは、彼にとってただ一つの、安寧と呼べる場所だった。
マホガニーの扉を軽くノックする。
重厚な扉の奥で、ぱたぱたと控えめな足音が響いた。
「ご機嫌麗しゅう、お嬢様。お身体の具合はいかがです?」
わざとらしいほど丁重にそう挨拶すると、
この部屋の主――フォンヴォルテール卿グウェンダルの妹君、アマーリエ嬢――は、少し訝しげに瞳を細めてヨザックの顔を見上げた。
「…また来たの?グリエ・ヨザック。」
彼女の声色に何も変わりが無い事に安堵を覚えながら、ヨザックは大きな本棚の並ぶアマーリエの部屋へと踏み込んだ。
「新しい本を持ってきましたよ。閣下にバレないよう持ってくるの、大変だったんですから。」
恩着せがましく溜息をついてそう言いながら、ヨザックは懐から赤い革表紙の本を取り出した。それを見て、アマーリエはぱっと瞳を輝かせた。
「まぁ!今度はどんな本なの?物語?それとも歴史や学問の本?」
「おっと、その前に一つだけ。…さっきの『また来たの?』は傷つきましたねぇ。こうして貴女が退屈しないように、身体張ってるんですから。」
ひょいと本を高く掲げると、アマーリエは背伸びをして手を伸ばし、少し悔しそうに彼を見上げた。
「……悪かったわ。謝るから、そういう意地悪なことするのやめてよ。」
「まぁ、いいでしょう。」
得意げなヨザックをじろりとひと睨みして、アマーリエはカウチに腰掛けると手渡された本の表紙を開いた。
幼い頃から身体が弱く病に伏せがちだった彼女は、この要塞のような城の中で、兄であるグウェンダルの深い愛情に守られて生きてきた。
それは同時に、息苦しいほどの庇護でもあった。
そんな日々の中で、時折風のように現れるヨザックだけが、彼女に遠慮のない言葉を投げてくる存在だった。
軽口を叩き合える、ただ一人の友人。
「これ、人間の国の文字で書かれているの?」
「えぇ。”少し変わった本”をご所望だったから。お気に召しました?」
「ええ、勿論、ありがとう。とても嬉しいけれど…よくここまで無事に持ってこられたわね。」
「だから言ったでしょ、身体張ったって。」
アマーリエは呆れたような感心したような複雑な表情でヨザックを見上げて、文字を指でなぞった。
「向こうでは有名な昔話です。挿絵も多いから楽しめると思ったんですが。」
「…時間をかければ、読めそうだわ。」
「読めるんですか?人間の文字が?」
「少しだけなら。前に文字の成り立ちの本を読んだの。形から推測すれば、おおよその意味は理解できるわ。」
「はぁ〜…」
ヨザックは感心して目を丸くし、自然と彼女の肩越しに本を覗き込んだ。
不意に背中に近づいた気配に一瞬息を詰め、アマーリエはパタンと静かに本を閉じた。
「どうしても分からない部分は、あなたに教えてもらうわ。」
「そんなら最初から俺に聞けばいいじゃないですか。」
「それじゃだめなの。自分で読むから意味があるの。」
「相変わらず負けず嫌いなんだから。」
やれやれと両手を広げるヨザックを見下ろしながら、ふふんと笑って立ち上がると、紅茶を入れるために棚の方へ足を進めた。
「あぁ、そんなこと俺がやりますよ。」
「あなたはお客様でしょ、いいから座って待っていてよ。」
むっと頬を膨らませて、銀の盆にティーセットを乗せて運ぶアマーリエ。その白く細い腕を見守りながら、ヨザックは手を差し伸べたい気持ちを抑えた。
どうしても、周囲の人間と同じようにアマーリエを過保護に扱ってしまう自分がいた。
その表情を執拗なほど観察して、少しでも異変を捉えると胸の奥がざわりとする。
彼女がそれを自分に望んでいないことは、解っているのに。
目の前に置かれたティーカップに口をつけながら、ヨザックはアマーリエの横顔を盗み見た。
「ねぇ、今回の任務のことを聞かせて。話せる限りでいいから。どこまで足を伸ばしたの?」
「詳しい地名は言えませんが、まぁ…砂漠地帯です。思わぬ危険生物にも出食わしましたよ。」
「もしかして、砂熊?」
「ええ。いきなり砂漠が波打ったかと思うと、その中心からこう、両手を広げたヤツが現れて…」
ヨザックが手を大きく広げて話し出すと、アマーリエは驚いたり笑ったりしながら話に聴き入った。
「それから、無事に街には辿り着けたの?砂漠の街には、…どんな人達が…っ、」
「アマーリエ!」
言葉に詰まると、口元を押さえて激しく咳き込んだ。手に持っていた紅茶のカップが床に落ちて、音を立てて割れる。
ヨザックが駆け寄り、肩を抱いた。
人を呼ばなければ。
咄嗟にそう考えて扉に視線を移すと、アマーリエの震える手が弱々しくヨザックの衣を掴んだ。
「だめ、…」
「けど、このままじゃ、」
「…行かないで。」
激しい呼吸の間に絞り出した言葉は震えていた。ヨザックはゆっくりと呼吸を整え、アマーリエの小さな体を慎重に抱き上げる。
彼女は力なく身を預け、まるで羽のように軽かった。
***
いつからだろう。
彼の事を、ただの兄の部下ではなく1人の男性として意識するようになったのは。
私はその日、兄にしか閲覧を許されていない図書があり、それについて意見を聞きたくて執務室を訪れていた。
分厚い本の頁に目を落としたまま問いかけの言葉を探している時、執務室のドアに静かなノックの音が響いた。
けれど、兄は応じない。
書類から目を離すこともなく、ただ視線を落としたままだった。
どこか重苦しい雰囲気に私は不安になり、思わず口を開いた。
「お返事なさらなくて宜しいのですか?」
「ああ、後にしよう。」
「あ、お仕事のお話ですよね。私、部屋を出ますから。」
「いや、アマーリエ、待て…!」
兄の声に振り返るより早く、私はドアノブに手を掛けていた。
扉が開いた瞬間、部屋に冷たい空気が流れ込む。
その先に立っていたのは――
全身が血と埃に塗れ、壁に身体を預けるようにして、今にも崩れ落ちそうな青年だった。
息を呑む。
血の匂い。
金属と泥の混じった、知らない世界の匂い。
言葉が、喉の奥で凍りついた。
けれど当の本人は一瞬だけ青い瞳を見開いたあと、壁から身体を離し、へらりと人懐こい笑みを作る。
「ありゃ、これはこれはお嬢様、…お見苦しい姿で大変失礼いたしました。」
そう言って、オレンジ色の髪をくしゃりと掻いた。
「あ、…あなた、怪我を…!」
「あぁ、平気です。ちょっとそこで派手に転んだだけなんで。」
「転んでできる怪我じゃないわ!」
執務室の中から、「ヨザック!」と鋭い兄の声が飛んだ。
青年はまるで叱られた子供のように目を細め、蒼ざめたまま動けずにいる私の横を軽やかに通り過ぎる。
一瞬だけこちらを振り返ると、ひらりと手を振り、そのまま部屋へ入っていく。
扉が閉まる音がやけに重く響いた気がして、私はしばらくその場から動けなかった。
それから数日後のことだった。
中庭へ続く回廊を歩いていると、曲がり角の向こうから聞き慣れない声がした。
視線を上げ、私は思わず足を止める。
――あ。
あの日、執務室の扉の向こうに立っていた青年。
ヨザックは、城の兵士と何事か言葉を交わしながらこちらに向かって歩いていた。あの日の怪我は少し癒えたようだが、右腕には白い包帯が巻かれている。
それを見て、胸の奥がひりひりと痛んだ。
彼もこちらに気づいたらしい。
隣を歩く兵士に何か伝えて別れると、あの時と同じ、少し気の抜けた笑顔を浮かべた。
「あれ。お嬢様じゃないですか。」
「ヨザック、さん……?」
「あら、覚えていて頂けたなんて、グリ江嬉しい〜!」
彼の名前を口にするのは、これが初めてだった。
ヨザックはわざとらしく女性のような口調でそう喜んで、身体をくねらせた。笑うべきだったのかも知れないけれど、驚きが勝って笑えなかった。
私の反応にヨザックは頬を引き攣らせ、「えーっと、」と仕切り直すように言葉を続けた。
「先日は、驚かせてしまって申し訳ありませんでした。」
「お怪我は……、」
言いかけて、視線が自然と包帯に吸い寄せられる。
ヨザックはそれに気づくと、大したことはない、と言うように肩をすくめた。
「もうほとんど治ってます。見た目ほど大層なもんじゃないですよ。」
「でも……」
包帯の白が、やけに眩しくて。
あの日の血の色が、脳裏によみがえる。
私が何も言えずにいると、彼は少しだけ声を落とした。
「いやぁ〜…、あんなもんレディに見せるべきじゃなかったですよね。俺がただヘマしただけなんで、本当にお気になさらず。この通り、ピンピンしてますし。それより…」
大きな身体を屈めて、私の目を覗き込んだ。
その青があまりに透き通っていて、私は一瞬呼吸を止めた。
「お嬢様こそ、あの後大丈夫でしたか?俺なんかより、よっぽどお顔真っ青でしたよ。」
冗談めかした口調なのに、その視線は妙に真剣で。私は、なぜか誤魔化すように小さく首を振った。
「平気です。」
そう答えると、彼は一瞬だけ目を細めた。
納得したようにも、していないようにも見える曖昧な表情で、それ以上は踏み込まない。
「それなら良かった。」
ただそれだけ言って、軽く肩の力を抜く。
まるでこの話題をここで終わらせると、最初から決めていたみたいに。
「兄の所には、よくいらっしゃるのですか?」
「ええ、まぁたまに。ご用のある時に呼んでいただいて、お喋りをして、帰るんですよ。」
「お見かけした事が無かったら…。」
「国外に出てる事が多いもので。あ、もしよかったら、お嬢様にもお土産に買ってきますよ?地域限定ご当地ケティちゃん。」
「ケティちゃん?」
聞き慣れない言葉に首を傾げる。ヨザックはそれを見て、「いや、何でもないです。」と1人おかしそうに小さく笑った。
「ケティちゃんは別にいいのですけど、お話が聞きたいです。」
「お話?」
「えぇ。この国の外のお話。どんな人が住んでいて、どんなものを食べていて、どんな景色が広がっているのか教えて欲しいの。貴方は色んな国を旅するのでしょう?お兄様から聞きました。」
「ほー、そりゃ、旅芸人みたいで素敵だ。」
「だから、私に教えてください。」
ヨザックは少し困ったように腕を組んで考えた後、ゆっくりと顔を上げて微笑んだ。
「ま、俺なんかの話で喜んでくださるなら。また立ち寄った時にでもお話ししましょう。」
「本当に?!」
「ええ。楽しいお話、たくさん持ってきますよ。」
「約束よ、待っていますから。」
私の後ろに一瞬だけ視線を投げると、そう言って踵を返し、手をひらりと振る。
その背中は、もうこちらを振り返らない。
まるで身体中の血液が沸き立つように、私は喜びでいっぱいになった。
けれどその感情があまりに急で、あまりに眩しくて、どう扱えばいいのか分からない。
胸の奥が、ふわりと浮き上がる。
今まで知らなかった温度で。
彼の背中はもう回廊の先へ消えてしまったのに、彼が残した空気だけはまるで時間が止まったかのように私の周りに留まっていた。
それからというもの、ヨザックは約束通り、折に触れて私のもとを訪れてくれた。
外の世界の匂いと風を運びながら、閉ざされた私の世界に、そっと暖かな光を差し込んでくれる―そんな存在だった。
そして気づけば私は、彼に抱くこの感情の正体を、答えの出ないまま何度も胸に問いかけていた。
その感情は淡く、繊細で、しかし確かに私の内側に芽生えていた。
一緒に過ごすひとときの温かさや、さりげない仕草のひとつひとつが、私の世界を少しずつ優しく揺らしていく。
それは、初めて知る心の震えだった。
それはもう長年の癖のようなもので、意識しなくても身体が覚えている。
石造りの回廊を抜け、柔らかな光の差す一角へ向かう。近づくにつれて胸の奥がふっと緩み、重たいものが剥がれ落ちていく。
そこは、彼にとってただ一つの、安寧と呼べる場所だった。
マホガニーの扉を軽くノックする。
重厚な扉の奥で、ぱたぱたと控えめな足音が響いた。
「ご機嫌麗しゅう、お嬢様。お身体の具合はいかがです?」
わざとらしいほど丁重にそう挨拶すると、
この部屋の主――フォンヴォルテール卿グウェンダルの妹君、アマーリエ嬢――は、少し訝しげに瞳を細めてヨザックの顔を見上げた。
「…また来たの?グリエ・ヨザック。」
彼女の声色に何も変わりが無い事に安堵を覚えながら、ヨザックは大きな本棚の並ぶアマーリエの部屋へと踏み込んだ。
「新しい本を持ってきましたよ。閣下にバレないよう持ってくるの、大変だったんですから。」
恩着せがましく溜息をついてそう言いながら、ヨザックは懐から赤い革表紙の本を取り出した。それを見て、アマーリエはぱっと瞳を輝かせた。
「まぁ!今度はどんな本なの?物語?それとも歴史や学問の本?」
「おっと、その前に一つだけ。…さっきの『また来たの?』は傷つきましたねぇ。こうして貴女が退屈しないように、身体張ってるんですから。」
ひょいと本を高く掲げると、アマーリエは背伸びをして手を伸ばし、少し悔しそうに彼を見上げた。
「……悪かったわ。謝るから、そういう意地悪なことするのやめてよ。」
「まぁ、いいでしょう。」
得意げなヨザックをじろりとひと睨みして、アマーリエはカウチに腰掛けると手渡された本の表紙を開いた。
幼い頃から身体が弱く病に伏せがちだった彼女は、この要塞のような城の中で、兄であるグウェンダルの深い愛情に守られて生きてきた。
それは同時に、息苦しいほどの庇護でもあった。
そんな日々の中で、時折風のように現れるヨザックだけが、彼女に遠慮のない言葉を投げてくる存在だった。
軽口を叩き合える、ただ一人の友人。
「これ、人間の国の文字で書かれているの?」
「えぇ。”少し変わった本”をご所望だったから。お気に召しました?」
「ええ、勿論、ありがとう。とても嬉しいけれど…よくここまで無事に持ってこられたわね。」
「だから言ったでしょ、身体張ったって。」
アマーリエは呆れたような感心したような複雑な表情でヨザックを見上げて、文字を指でなぞった。
「向こうでは有名な昔話です。挿絵も多いから楽しめると思ったんですが。」
「…時間をかければ、読めそうだわ。」
「読めるんですか?人間の文字が?」
「少しだけなら。前に文字の成り立ちの本を読んだの。形から推測すれば、おおよその意味は理解できるわ。」
「はぁ〜…」
ヨザックは感心して目を丸くし、自然と彼女の肩越しに本を覗き込んだ。
不意に背中に近づいた気配に一瞬息を詰め、アマーリエはパタンと静かに本を閉じた。
「どうしても分からない部分は、あなたに教えてもらうわ。」
「そんなら最初から俺に聞けばいいじゃないですか。」
「それじゃだめなの。自分で読むから意味があるの。」
「相変わらず負けず嫌いなんだから。」
やれやれと両手を広げるヨザックを見下ろしながら、ふふんと笑って立ち上がると、紅茶を入れるために棚の方へ足を進めた。
「あぁ、そんなこと俺がやりますよ。」
「あなたはお客様でしょ、いいから座って待っていてよ。」
むっと頬を膨らませて、銀の盆にティーセットを乗せて運ぶアマーリエ。その白く細い腕を見守りながら、ヨザックは手を差し伸べたい気持ちを抑えた。
どうしても、周囲の人間と同じようにアマーリエを過保護に扱ってしまう自分がいた。
その表情を執拗なほど観察して、少しでも異変を捉えると胸の奥がざわりとする。
彼女がそれを自分に望んでいないことは、解っているのに。
目の前に置かれたティーカップに口をつけながら、ヨザックはアマーリエの横顔を盗み見た。
「ねぇ、今回の任務のことを聞かせて。話せる限りでいいから。どこまで足を伸ばしたの?」
「詳しい地名は言えませんが、まぁ…砂漠地帯です。思わぬ危険生物にも出食わしましたよ。」
「もしかして、砂熊?」
「ええ。いきなり砂漠が波打ったかと思うと、その中心からこう、両手を広げたヤツが現れて…」
ヨザックが手を大きく広げて話し出すと、アマーリエは驚いたり笑ったりしながら話に聴き入った。
「それから、無事に街には辿り着けたの?砂漠の街には、…どんな人達が…っ、」
「アマーリエ!」
言葉に詰まると、口元を押さえて激しく咳き込んだ。手に持っていた紅茶のカップが床に落ちて、音を立てて割れる。
ヨザックが駆け寄り、肩を抱いた。
人を呼ばなければ。
咄嗟にそう考えて扉に視線を移すと、アマーリエの震える手が弱々しくヨザックの衣を掴んだ。
「だめ、…」
「けど、このままじゃ、」
「…行かないで。」
激しい呼吸の間に絞り出した言葉は震えていた。ヨザックはゆっくりと呼吸を整え、アマーリエの小さな体を慎重に抱き上げる。
彼女は力なく身を預け、まるで羽のように軽かった。
***
いつからだろう。
彼の事を、ただの兄の部下ではなく1人の男性として意識するようになったのは。
私はその日、兄にしか閲覧を許されていない図書があり、それについて意見を聞きたくて執務室を訪れていた。
分厚い本の頁に目を落としたまま問いかけの言葉を探している時、執務室のドアに静かなノックの音が響いた。
けれど、兄は応じない。
書類から目を離すこともなく、ただ視線を落としたままだった。
どこか重苦しい雰囲気に私は不安になり、思わず口を開いた。
「お返事なさらなくて宜しいのですか?」
「ああ、後にしよう。」
「あ、お仕事のお話ですよね。私、部屋を出ますから。」
「いや、アマーリエ、待て…!」
兄の声に振り返るより早く、私はドアノブに手を掛けていた。
扉が開いた瞬間、部屋に冷たい空気が流れ込む。
その先に立っていたのは――
全身が血と埃に塗れ、壁に身体を預けるようにして、今にも崩れ落ちそうな青年だった。
息を呑む。
血の匂い。
金属と泥の混じった、知らない世界の匂い。
言葉が、喉の奥で凍りついた。
けれど当の本人は一瞬だけ青い瞳を見開いたあと、壁から身体を離し、へらりと人懐こい笑みを作る。
「ありゃ、これはこれはお嬢様、…お見苦しい姿で大変失礼いたしました。」
そう言って、オレンジ色の髪をくしゃりと掻いた。
「あ、…あなた、怪我を…!」
「あぁ、平気です。ちょっとそこで派手に転んだだけなんで。」
「転んでできる怪我じゃないわ!」
執務室の中から、「ヨザック!」と鋭い兄の声が飛んだ。
青年はまるで叱られた子供のように目を細め、蒼ざめたまま動けずにいる私の横を軽やかに通り過ぎる。
一瞬だけこちらを振り返ると、ひらりと手を振り、そのまま部屋へ入っていく。
扉が閉まる音がやけに重く響いた気がして、私はしばらくその場から動けなかった。
それから数日後のことだった。
中庭へ続く回廊を歩いていると、曲がり角の向こうから聞き慣れない声がした。
視線を上げ、私は思わず足を止める。
――あ。
あの日、執務室の扉の向こうに立っていた青年。
ヨザックは、城の兵士と何事か言葉を交わしながらこちらに向かって歩いていた。あの日の怪我は少し癒えたようだが、右腕には白い包帯が巻かれている。
それを見て、胸の奥がひりひりと痛んだ。
彼もこちらに気づいたらしい。
隣を歩く兵士に何か伝えて別れると、あの時と同じ、少し気の抜けた笑顔を浮かべた。
「あれ。お嬢様じゃないですか。」
「ヨザック、さん……?」
「あら、覚えていて頂けたなんて、グリ江嬉しい〜!」
彼の名前を口にするのは、これが初めてだった。
ヨザックはわざとらしく女性のような口調でそう喜んで、身体をくねらせた。笑うべきだったのかも知れないけれど、驚きが勝って笑えなかった。
私の反応にヨザックは頬を引き攣らせ、「えーっと、」と仕切り直すように言葉を続けた。
「先日は、驚かせてしまって申し訳ありませんでした。」
「お怪我は……、」
言いかけて、視線が自然と包帯に吸い寄せられる。
ヨザックはそれに気づくと、大したことはない、と言うように肩をすくめた。
「もうほとんど治ってます。見た目ほど大層なもんじゃないですよ。」
「でも……」
包帯の白が、やけに眩しくて。
あの日の血の色が、脳裏によみがえる。
私が何も言えずにいると、彼は少しだけ声を落とした。
「いやぁ〜…、あんなもんレディに見せるべきじゃなかったですよね。俺がただヘマしただけなんで、本当にお気になさらず。この通り、ピンピンしてますし。それより…」
大きな身体を屈めて、私の目を覗き込んだ。
その青があまりに透き通っていて、私は一瞬呼吸を止めた。
「お嬢様こそ、あの後大丈夫でしたか?俺なんかより、よっぽどお顔真っ青でしたよ。」
冗談めかした口調なのに、その視線は妙に真剣で。私は、なぜか誤魔化すように小さく首を振った。
「平気です。」
そう答えると、彼は一瞬だけ目を細めた。
納得したようにも、していないようにも見える曖昧な表情で、それ以上は踏み込まない。
「それなら良かった。」
ただそれだけ言って、軽く肩の力を抜く。
まるでこの話題をここで終わらせると、最初から決めていたみたいに。
「兄の所には、よくいらっしゃるのですか?」
「ええ、まぁたまに。ご用のある時に呼んでいただいて、お喋りをして、帰るんですよ。」
「お見かけした事が無かったら…。」
「国外に出てる事が多いもので。あ、もしよかったら、お嬢様にもお土産に買ってきますよ?地域限定ご当地ケティちゃん。」
「ケティちゃん?」
聞き慣れない言葉に首を傾げる。ヨザックはそれを見て、「いや、何でもないです。」と1人おかしそうに小さく笑った。
「ケティちゃんは別にいいのですけど、お話が聞きたいです。」
「お話?」
「えぇ。この国の外のお話。どんな人が住んでいて、どんなものを食べていて、どんな景色が広がっているのか教えて欲しいの。貴方は色んな国を旅するのでしょう?お兄様から聞きました。」
「ほー、そりゃ、旅芸人みたいで素敵だ。」
「だから、私に教えてください。」
ヨザックは少し困ったように腕を組んで考えた後、ゆっくりと顔を上げて微笑んだ。
「ま、俺なんかの話で喜んでくださるなら。また立ち寄った時にでもお話ししましょう。」
「本当に?!」
「ええ。楽しいお話、たくさん持ってきますよ。」
「約束よ、待っていますから。」
私の後ろに一瞬だけ視線を投げると、そう言って踵を返し、手をひらりと振る。
その背中は、もうこちらを振り返らない。
まるで身体中の血液が沸き立つように、私は喜びでいっぱいになった。
けれどその感情があまりに急で、あまりに眩しくて、どう扱えばいいのか分からない。
胸の奥が、ふわりと浮き上がる。
今まで知らなかった温度で。
彼の背中はもう回廊の先へ消えてしまったのに、彼が残した空気だけはまるで時間が止まったかのように私の周りに留まっていた。
それからというもの、ヨザックは約束通り、折に触れて私のもとを訪れてくれた。
外の世界の匂いと風を運びながら、閉ざされた私の世界に、そっと暖かな光を差し込んでくれる―そんな存在だった。
そして気づけば私は、彼に抱くこの感情の正体を、答えの出ないまま何度も胸に問いかけていた。
その感情は淡く、繊細で、しかし確かに私の内側に芽生えていた。
一緒に過ごすひとときの温かさや、さりげない仕草のひとつひとつが、私の世界を少しずつ優しく揺らしていく。
それは、初めて知る心の震えだった。
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