第1章 オカルト生活は突然に

 三時間目。聖子せいこ先生の古典の授業が半分ほど過ぎた頃だった。

 体がビクンと跳ね上がり、目を覚ましたオレは、友人Aの失笑を買った。

 いつの間にか居眠りをしていたようだった。

 背後からオレを叱責する咳払いが聞こえ、慌ててシャーペンを持ち直す。聖子先生が後ろに立っているものと思ったが、聖子先生は教壇で黒板に和歌の要点を書きながら解説していた。

 では一体誰が──。

 おもむろに振り返ると息が止まった。

 聖子先生の声も、授業のざわめきも、意識から遮断された。

 あの男!

 電車の中で消えたあの男が立っていた。革ジャン革パンから、スーツに着替えているが、間違いなく例の男だった。

 男は後ろ手を組んで、前方、黒板をじっと直視し、オレを一顧だにしない。

 どうして男がここに──。

 パニックに陥り、悲鳴を上げそうになったが、何とか唾と一緒に飲み下した。硬直した首を無理やり黒板に戻し、震える手でノートに写し始める。平静を装えば事態は穏便に過ぎていくに違いない。祈りながら、ミミズが這ったような文字を落としていく。

 ふと疑問が湧いた。

 居眠りをしている間に何が起こったというのだろう。

 聖子先生は、クラスメイトたちは、男をどう見ているのか。男はホームルームの際に話題に上った校長先生のお客さんなのだろうか。だとしたら、友人Aはなぜ起こしてくれなかったのだろうか。

 考えられるだけの可能性を生み出しては路頭に迷う。男を無視して続けられる普段通りの授業が、白々しさを浮き彫りにしているようにも思えた。

「では崎山君。続きを読んでください」

 聖子先生に指され、オレは飛び上がるようにして椅子を弾いた。

「は、はあ」

 教科書を開いてみたものの、居眠りをしていたせいで、ページもわからない。

「わかるわけがありませんよね、今まで眠っていたんですから。遅刻に赤点に居眠り常習犯。ホントに君って子は……」

 聖子先生は獲物を狙いすました猫科の肉食動物のようなギラギラとした視線でオレ捕らえると、手に持っていたチョークを構えた。そして、

「お仕置きです!」

 オレの眉間目がけて投げ放った。


 ヒュッ。


 チョークが宙を切る。

 聖子先生の投げるチョークは自動追跡機能付きの銃弾のように百発百中、狙った標的を逃がさない。例え、ボクシング部の動体視力を持ったとしても目にもとまらぬ速度で眉間を打ち抜くと有名だった。オレもこれまでに何度もターゲットにされてきたが、眉間にチョークを受ければ、小一時間はもだえるほどの痛みと戦うことになる。

 校長先生の客人かもしれない男がいる前でチョークを投げた聖子先生に驚きながらも、覚悟を決めた次の瞬間、いきなり男が視界に現れた。そして左手首を強く引っ張られたかと思うと、ボールのように抱き抱えられ、気がつけば床に押し倒されていた。

 自分の身に何が起こったのか、思考が付いてこなかった。

 顔を上げると目前に迫った男の顔がニヒルに歪む。

「後ろの黒板を見てごらん」

 言われるまま、教室の後ろの背面黒板へ目をやると、聖子先生の投げたチョークがめり込んでいる。まるで、銃弾が背面黒板に向けて撃たれたかのようだった。

 咄嗟に眉間へ手をやるが、頭蓋骨に穴は開いていないようで痛みもない。

「崎山君、大丈夫!?」

 聖子先生の悲鳴を皮切りに、クラスメイトがにわかに騒ぎ始めた。

 駆け寄ってきた聖子先生は大きな瞳をさらに大きく見張っていた。オレを起こそうと添えてくれた手がわなわなと震えている。

 恐らく、チョークを投げた張本人が一番驚いているのだろう。無理もない。今まで一度たりともこんな驚異的なピッチングを体感したことはなかったし、聖子先生の細腕から放たれたチョークが、弾痕を残すほどの破壊力があるはずもなかった。

「全然大丈夫ですよ、ほら、この通り」

 顔面蒼白の聖子先生を元気づけようとわざと明るく振る舞ってみせる。

 体を動かして見せ、どこも異常がないことを確認してもらうと、表情が少し和らいだ。

 例の男は騒動の隙を突いて教室を出て行ったのか、いつの間にかいなくなっていた。

 男に腕を引っ張られなければ、今頃オレは──。

 そう自覚した途端、背中を這い上がるような寒さを感じた。

 男はオレを助けてくれたのだろうか。

「ねえ、先生。オレを助けてくれた人って、校長先生のお客さんだったんですか?」

 胸に沸き起こるたまらない思いが、オレを口早にさせた。

「校長先生のお客さん?」

 聖子先生は眉をひそめた。

 教室に笑い声が上がる。

 クラスメイトの意見を代表するようにして、友人Aが口を挟んだ。

「お前、まだ夢の中にいんの? 早く目を覚ませよ」

 オレはムッとして、友人Aに言い返した。

「オレの後ろに立っていた男がいただろ。そいつに助けられたんだよ」

 再び、笑い声が沸き起こる。

 さっきまで驚き顔だった聖子先生まで、クスクスと抑え気味に笑い出していた。

「何で笑ってるんだよ。笑うなって、本当なんだ!」

 オレが必死になればなるほど、クラスメイトの笑いが大きくなる。

「それにしてもさ。まことって案外、運動神経いいじゃねえの?」

「だから、オレがよけたんじゃなくて、男に腕を引っ張られたんだって!」

 腹を抱えるばかりで真剣に取り合わない友人Aに腹を立て、「ねえ、先生」と同意を求め、オレはもう一度聖子先生を見た。だが、

「頭でも打ったの?」 

 聖子先生の長い睫毛まつげが不安げに揺れ、オレは言葉を失った。

 これ以上、押し問答を続けてはならないと直感的に悟った。

 信じがたいが、クラスメイトには男の姿が見えていなかったのだ。

 全ては夢の続きが見せた夢の出来事で、オレは寝ぼけていたとでもいうのだろうか。

 男に引っ張られた左手首には、はっきりと赤く手の[#痕=あと_ふりがな#]が残っていた。
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