第1章 オカルト生活は突然に

 今日もこの時間が来てしまった。

 オレは風呂イスに腰を掛けて、かれこれ五分間はこうして足を小刻みに揺すっている。

 左手に握ったシャワーから流れる水もとっくにお湯になっていた。

 心がずっしりと重くなっていくのは、怨霊男にきまとわれているせいばかりではなかった。

「いいか、絶対に入ってくるなよ」

 脱衣所を肩越しに振り返り、何度目かの念を押した。

 浴室と脱衣所を仕切る半透明のアクリル製のドアの向こうではぼんやりと映る怨霊男のシルエットが首をかしげたようだった。

「女の子みたいなこと言うんだね」

 くぐもった声が返ってきた。

「安心してよ。こっちは男の裸に興味なんてこれっぽっちもないし、真の裸なんて小さい頃から見飽きてるんだ」

「そういう意味じゃねえよ。風呂に入っているときくらいひとりになりたいんだよ。いつまでも憑きまとわれていたら、こっちの身がもたねえの」

 オレは軽く舌打ちを洩らした。

「つうかさ、小さい頃からって、あんたいつからストーカーみたいなことをしてるんだよ?」

「ずっと前からさ。まことの守護霊の隙を虎視眈々と狙っていたんだからね。あいつを封印して崎山家を末代まで祟るチャンスをね」

 怨霊男の能天気な雰囲気のせいか、末代まで祟るんだと物騒なことを言われても現実味がなく、彼の心証次第では見逃してくれるのでは、と淡い期待も抱いていた。

 金魚のフンのようにどこへでも憑いて来るようだが、トイレや浴室ではきちんとドアの外で待機しているのだから、ある程度のプライバシーは厳守しているようだし、何だかんだで案外紳士なのかもしれない。

 事実、オレは憑きまとわれる不気味さや末代まで呪われて死ぬことへの恐怖より、今、目の前の恐怖におののいているところなのだ。

 浴槽にはふたがしてあるが、室内にはすでにもうもうと湯気が立ちこめていた。シャワーから勢いよく流れ出るお湯を眺めながら、否が応でも記憶がいつもフラッシュバックするのだ。


 助けて、誰か、助けて──。


 反転する視界。陽光を受けてきらめく水面。口と鼻からこぼれ出る空気の粒。気道に入り込む水。苦しみと焦燥。もがいてももがいてもどうにもならない絶望感。

 脳裏に約六年前のことが甦った。

 真夏のような暑さの五月だった。何人かの友達と水遊びをする目的で桜並木駅のそばを流れる桜花川おうかがわへ向かった。

 最初は浅瀬で水を掛け合う程度だったと思う。それが徐々に度胸試しに変わった。

 誰が言い出したのか忘れたが、浅瀬から川の中まで歩いていこう、一番深い場所まで行けたやつが勝ちだ──。

 一歩、また一歩、足首の位置だった水位が膝までになり、太ももの位置まで来たとき、オレは足を滑らせた。

 もともと泳げもしないから、溺れる他なかった。

 水に濡れた衣服は甲冑のように重い上、真空パックされ冷蔵室に閉じ込められた鮮魚のように身動きが取れなかった。

 友達は助けを呼びに行ったのか近くに誰の姿もなく、オレはひとり冷たい水の中へ引きずり込まれるようにして沈んでいった。

 意識が浮上したときには病院の白い天井と泣きじゃくる家族の顔が見えた。生きている安堵や実感よりも水への恐怖心が胸に深い傷跡を残した。

「あんたはオレが十二の頃、溺れたことも知っているのか?」

「まあ、崎山家の出来事はだいたい記憶しているよ」

 じゃあ、話が早いとオレは続けた。

「オレの守護霊はどうしてあのときもっと早く助けてくれなかったんだろうな。早く助けてくれていたなら、こんなに水が嫌いにならなかったのに」

 語気に非を咎めるような苛立ちが滲んだ。ほとんど八つ当たりだとわかっていた。そもそも桜花川に行って不注意で足を滑らせたオレに全ての責任があるのだが、守護霊の存在を知った今、これまで悶々と背負ってきたトラウマを、怨霊男に吐き出さずにはいられなかった。

「守護霊がもっと早く助けてくれたら、湯船にだって、プールにだって入れただろうし」

 オレは浴槽を睨んだ。

 本当ならば、今頃、湯船に浸かりながら足を伸ばし、「はあ、極楽極楽」と言えたはずだった。

 プールに入れさえすれば、中学時代はいじめにあうこともなかっただろうし、近い将来でいえば、できるかもしれない可愛い彼女と行くプールデートで、あわよくば水着がはだけるアクシデントを拝める可能性もあったのだ。

 水やジュース、お茶だって、喉へ流し込もうとすれば、液体が迫り来る圧迫感に目眩を覚えてしまい、ストローを使わずに飲むことができなくなった。

 水に触れるたび、テレビのスイッチを入れるようにボタンひとつで鮮明に映し出される恐怖と毎日繰り返し戦うこともなかっただろう。

 「水恐怖症」と一言で片付けてしまえば簡単だが、オレは人生の半分が変わってしまったといっても大袈裟ではないと思っている。

「それだけじゃない」

 これまでの不遇な経験が次から次へと思い出される。

「生死の狭間をさまよう未熟児で生まれたお陰で、今でも中学生並みに童顔だし、身長だって伸び悩みだ。それにトラックに跳ねられさえしなければ、今頃、チャリに乗れていたはずなんだ」

 流石に生まれたときのことまでは覚えていないが、六歳の誕生日がいよいよ間近に迫り、プレゼントに自転車を買ってもらったばかりのこと。自転車の練習中、やって来た大型トラックに自転車ごと跳ねられた。奇跡的に無傷ではあったのだが、抱いてしまった恐怖心により、「自転車」というスキルを手放さざるを得なかった。

 幸か不幸か、オレの人生は死の危険に遭遇してばかりなのだ。

 もっと早く、もっと早く。守護霊が助けてくれていたのなら、今頃、別な人生が待っていたのかもしれないのに。

 「こうであったかもしれない人生」を華々しく生きるパラレルワールドの自分自身にすら嫉妬する。

「オレの守護霊もたいしたことねえよな。あんたみたいなヒョロヒョロしたやつにやられるくらいなんだからさ」

 怨霊男はオレの怒りを受け、給湯室で上司の悪口で盛り上がる社員の如く、自分の正統性や守護霊に対する恨みつらみを並べ立てるものと思っていたが、違った。

 怨霊男の押し殺すような笑いが聞こえ、オレはようやくシャワーを止めた。

「貴方は私が怨霊だってことを忘れてない? 私が守護霊の邪魔をして、真を溺れさせたり、トラックに跳ねられるように仕組んだのだとしたら?」

 まさに水を打ったような静寂が浴室に訪れた。

 それも打った水が瞬時に凍りついてしまう氷点下の空気をともなって。
10/12ページ
スキ