第1章 オカルト生活は突然に
全てはゆっくりとした流れで展開していく。
「鎮まりなさい!」
男の厳然とした声だけが鼓膜を震わせた。
迫り来る野球ボールやガラスの欠片に男が片手をかざすと、痩身から想像を超えるほどのエネルギーが放出された。
突如、狭い六畳間に台風のような突風が発生した。風は男の髪や着物を乱し、オレの頬をブルブルと激しく揺らす。
そして、信じがたいことに、今にもオレの背中の薄皮を裂き、肉を切り刻み、血管を破壊し、骨へと突き刺さろうとしているガラスたちを押し戻し、相殺したのだ。
粉々になった破片さえ、オレたちに一切届くことなく素直に力を手放した。
ボールはというとゆっくりと重力に従うように机の上でワンバウンドし、コロコロと畳の上に転がり落ちた。
オレとばあちゃんは茫然自失でその光景を見つめていた。驚きのあまり声を失っていた。
ボールやガラス片をまともに受けていたら、今頃、大怪我どころではすまなかった。生きていることが不思議なくらいだ。
男と接触する度に起こる不吉な出来事は、オレの守護霊不在を決定づけるにはもはや充分だった。
この男はオレの守護霊を封印したという怨霊に間違いない──。
助かったと確信した途端に周囲の音が戻ってきた。
「ものすごい音がしたけど。ちょっとママ、どうしたの腰を抜かして」
母さんがやって来て、いつの間にかオレの手を離れて座り込んでしまったばあちゃんの身体を支えて抱き起こした。
ばあちゃんは窓を凝視したまま、「守護霊様がお怒りになった……真 の所行 をお怒りになった……南無阿弥陀仏」と震える声で念仏を唱え出す。
「守護霊様って……またママの病気が始まったのね」
肩をすくめた母さんはばあちゃんの視線を辿り、悲鳴を上げた。
一瞬、怨霊男の姿が見えたのだと思ったが、そうではなかった。
割れた窓。
放心状態のオレとばあちゃん。
転がり落ちているボール。
これだけ証拠が揃っていれば、何が起こったのかを理解するには、そう時間はかからない。
「二人とも怪我はない?」
色をなくした母さんは無傷のオレ達を確認して、安堵の息を吐くと、キッとドングリ眼を細め、窓の外の空き地を見下ろした。
「ガラスを割った犯人は逃げたのね。空き地ではキャッチボールは禁止なのに絶対に許せない。見つけたら、容赦ないわよ」
なおも念仏を唱え続けるばあちゃんは、母さんに抱えられるようにして階下へ去っていった。
二人の足音が遠ざかり、オレはようやく窓から目を離した。震える手でボールを拾い上げ、握りしめる。
これはもう笑い話なんかじゃない。
オレは恐る恐る怨霊男を顧みた。
「今のは私以外の怨霊の仕業だよ」
怨霊男は眉間にしわを寄せ、怖い顔をしていた。さっきまでの笑顔は完全になりを潜めている。そして憤然として言った。
「積年の恨みをようやく晴らせるこのときをどんなに待ちわびていたか。崎山家を末代まで祟るのは私の役目なんだ。じわじわと痛めつけて立ち直れないくらい精神を限界までギリギリまですり減らしたところで一気に呪い殺すんだから、誰にも邪魔はさせない。真の命を奪うのは私だ」
なるほど、しっかり怨霊に祟られているお陰でオレとばあちゃんは命拾いしたようだ。崎山家を末代まで呪うのが彼の人生計画だったはずだが、結果的にオレたちは助けられた形になる。
怨霊男のずれた執念に呆れながらも、ふと彼の言葉に既視感が浮かび上がった。
そう遠くない過去で耳にした台詞だった気がする。
だが、恐怖で昂った神経はそれ以上深追いすることもなく、開きかけた記憶の引き出しを暗闇へと押し戻した。
※※※
西の空には熟れた果実のような真っ赤な夕日が、まだ昼間の余韻を残す淡い青空と、それにかかる雲の輪郭を黄金色に浮かび上がらせていた。夕暮れ時のひんやりとした風が、気の置けない友達と過ごすような心地よさを感じさせる。
ガラスの破片を掃除して、割れた窓を段ボールとガムテープで補修しながら、オレは咀嚼する。
男が怨霊となって姿を現したのは、男の命を奪った崎山家の偉大なご先祖様であり、オレの守護霊様への復讐のため、崎山家を末代まで呪うためだった。
末代、ひいてはオレの代で断絶させるつもりなのだろう。
ついに怨霊男は念願叶って守護霊様を封印し、守護霊のいなくなったオレの命を狙っている。
さらに彼ばかりではなく、他の怨霊までもがオレを殺そうとしているようで、守護霊様は生前どれほどの恨みを買った人物なのだろうかと不信感が生まれ始めていた。
大虐殺の戦国武将なのか、それとも攘夷とは名ばかりの人斬りなのか。
考えても答えは出ず、出口のない迷路に迷い込んでいるようだった。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
怨霊男は自分の恨みを晴らすためとはいえ、オレを守ってくれたのだ。
窓辺にある未だ芽の出ない植木鉢の無事を確認してから、オレはベットに行儀よく座っている怨霊男に言った。
「なあ、あんたさ。どうしてオレの守護霊に殺されたんだ? 殺されるくらいだからよっぽどのことをしたんだろ?」
怨霊男はオレに話しかけられるとは思っていなかったらしく、虚を突かれたように涼しげな瞳をわずかに見張った。
「そんなことどうでもいいじゃん。大人の世界はかくかくしかじか、いろいろあるんだよ。まあ、理由なんて聞かない方が真たち子孫のためだと思うけどね」
「かくかくしかじかって?」
「秘密だよ。プライバシーは守られるべきなんだ」
サムライには似つかわしくないカタカタ用語が飛び出してくるから、虚を突かれたオレは母さん譲りのどんぐり眼を小さく見張った。
「オレは別にあんたを責めたいわけじゃねえんだ。そういうのってさ、それぞれ自分なりの正義があっての結果だから、どちらか一方だけが悪いってことはまずないだろ。むしろ、オレの守護霊に非があるかもしれない。だから、あんたの言い分とオレの守護霊の言い分を聞かせてくれないか?」
「大岡裁きをしてくれるって? そうやって、双方の話を聞くふりをして、守護霊の解放を懇願するつもりだね」
怨霊男の勘の鋭さに完敗して、オレは両手を上げる。
「チッ。ばれちゃ仕方ねえな。オレの守護霊を封印したって言ったけどさ、どこに閉じ込めたんだよ?」
「え」
怨霊男は床に視線を流し、わずかに躊躇う素振りを見せたあと、
「ゴミ箱の中とか?」
質問で返してきた。
「嘘くせえな」
言葉を濁してゴミ箱レベルだ。恐らく、想像もつかない悪環境にいるに違いないと、オレは見たこともない守護霊の身を案じる。
早く怨霊男に成仏してもらい、守護霊を助け出さなくては。だが、方法がわからない。
「頼むからさ、成仏してくれよ」
「真の命を奪ったら、成仏できるんだけれど、協力してくれる?」
「やだね」
「じゃあ、聞くけどさ。真の守護霊が不在なのに、どうして貴方は生きているかわかってる?」
「え」
オレは床に視線を流し、わずかに考える素振りを見せたあと、
「さっきは助けてくれてありがとうございました?」
恩着せがましい怨霊男に対して、素直に礼を言うのも癪に触り、疑問符は外せなかった。
「嘘っぽいなあ」
怨霊男はあぐらに組み替えたあと、頬杖をついて愉快そうに笑った。目尻が下がり、まるで言葉のキャッチボールを楽しんでいるようだった。
キャッチボールはある程度の広場でするものであるし、言葉のキャッチボールは怨霊とするものではない。
なぜなら、狭い場所で野球ボールを投げ合えば、周囲に迷惑がかかるものであるし、怨霊と言葉を交わし慣れ親しんでしまえば、危機感が蒸発し、命を奪われることになるからだ。
双方共にコントロールには最善の注意が必要だ。
「鎮まりなさい!」
男の厳然とした声だけが鼓膜を震わせた。
迫り来る野球ボールやガラスの欠片に男が片手をかざすと、痩身から想像を超えるほどのエネルギーが放出された。
突如、狭い六畳間に台風のような突風が発生した。風は男の髪や着物を乱し、オレの頬をブルブルと激しく揺らす。
そして、信じがたいことに、今にもオレの背中の薄皮を裂き、肉を切り刻み、血管を破壊し、骨へと突き刺さろうとしているガラスたちを押し戻し、相殺したのだ。
粉々になった破片さえ、オレたちに一切届くことなく素直に力を手放した。
ボールはというとゆっくりと重力に従うように机の上でワンバウンドし、コロコロと畳の上に転がり落ちた。
オレとばあちゃんは茫然自失でその光景を見つめていた。驚きのあまり声を失っていた。
ボールやガラス片をまともに受けていたら、今頃、大怪我どころではすまなかった。生きていることが不思議なくらいだ。
男と接触する度に起こる不吉な出来事は、オレの守護霊不在を決定づけるにはもはや充分だった。
この男はオレの守護霊を封印したという怨霊に間違いない──。
助かったと確信した途端に周囲の音が戻ってきた。
「ものすごい音がしたけど。ちょっとママ、どうしたの腰を抜かして」
母さんがやって来て、いつの間にかオレの手を離れて座り込んでしまったばあちゃんの身体を支えて抱き起こした。
ばあちゃんは窓を凝視したまま、「守護霊様がお怒りになった……
「守護霊様って……またママの病気が始まったのね」
肩をすくめた母さんはばあちゃんの視線を辿り、悲鳴を上げた。
一瞬、怨霊男の姿が見えたのだと思ったが、そうではなかった。
割れた窓。
放心状態のオレとばあちゃん。
転がり落ちているボール。
これだけ証拠が揃っていれば、何が起こったのかを理解するには、そう時間はかからない。
「二人とも怪我はない?」
色をなくした母さんは無傷のオレ達を確認して、安堵の息を吐くと、キッとドングリ眼を細め、窓の外の空き地を見下ろした。
「ガラスを割った犯人は逃げたのね。空き地ではキャッチボールは禁止なのに絶対に許せない。見つけたら、容赦ないわよ」
なおも念仏を唱え続けるばあちゃんは、母さんに抱えられるようにして階下へ去っていった。
二人の足音が遠ざかり、オレはようやく窓から目を離した。震える手でボールを拾い上げ、握りしめる。
これはもう笑い話なんかじゃない。
オレは恐る恐る怨霊男を顧みた。
「今のは私以外の怨霊の仕業だよ」
怨霊男は眉間にしわを寄せ、怖い顔をしていた。さっきまでの笑顔は完全になりを潜めている。そして憤然として言った。
「積年の恨みをようやく晴らせるこのときをどんなに待ちわびていたか。崎山家を末代まで祟るのは私の役目なんだ。じわじわと痛めつけて立ち直れないくらい精神を限界までギリギリまですり減らしたところで一気に呪い殺すんだから、誰にも邪魔はさせない。真の命を奪うのは私だ」
なるほど、しっかり怨霊に祟られているお陰でオレとばあちゃんは命拾いしたようだ。崎山家を末代まで呪うのが彼の人生計画だったはずだが、結果的にオレたちは助けられた形になる。
怨霊男のずれた執念に呆れながらも、ふと彼の言葉に既視感が浮かび上がった。
そう遠くない過去で耳にした台詞だった気がする。
だが、恐怖で昂った神経はそれ以上深追いすることもなく、開きかけた記憶の引き出しを暗闇へと押し戻した。
※※※
西の空には熟れた果実のような真っ赤な夕日が、まだ昼間の余韻を残す淡い青空と、それにかかる雲の輪郭を黄金色に浮かび上がらせていた。夕暮れ時のひんやりとした風が、気の置けない友達と過ごすような心地よさを感じさせる。
ガラスの破片を掃除して、割れた窓を段ボールとガムテープで補修しながら、オレは咀嚼する。
男が怨霊となって姿を現したのは、男の命を奪った崎山家の偉大なご先祖様であり、オレの守護霊様への復讐のため、崎山家を末代まで呪うためだった。
末代、ひいてはオレの代で断絶させるつもりなのだろう。
ついに怨霊男は念願叶って守護霊様を封印し、守護霊のいなくなったオレの命を狙っている。
さらに彼ばかりではなく、他の怨霊までもがオレを殺そうとしているようで、守護霊様は生前どれほどの恨みを買った人物なのだろうかと不信感が生まれ始めていた。
大虐殺の戦国武将なのか、それとも攘夷とは名ばかりの人斬りなのか。
考えても答えは出ず、出口のない迷路に迷い込んでいるようだった。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
怨霊男は自分の恨みを晴らすためとはいえ、オレを守ってくれたのだ。
窓辺にある未だ芽の出ない植木鉢の無事を確認してから、オレはベットに行儀よく座っている怨霊男に言った。
「なあ、あんたさ。どうしてオレの守護霊に殺されたんだ? 殺されるくらいだからよっぽどのことをしたんだろ?」
怨霊男はオレに話しかけられるとは思っていなかったらしく、虚を突かれたように涼しげな瞳をわずかに見張った。
「そんなことどうでもいいじゃん。大人の世界はかくかくしかじか、いろいろあるんだよ。まあ、理由なんて聞かない方が真たち子孫のためだと思うけどね」
「かくかくしかじかって?」
「秘密だよ。プライバシーは守られるべきなんだ」
サムライには似つかわしくないカタカタ用語が飛び出してくるから、虚を突かれたオレは母さん譲りのどんぐり眼を小さく見張った。
「オレは別にあんたを責めたいわけじゃねえんだ。そういうのってさ、それぞれ自分なりの正義があっての結果だから、どちらか一方だけが悪いってことはまずないだろ。むしろ、オレの守護霊に非があるかもしれない。だから、あんたの言い分とオレの守護霊の言い分を聞かせてくれないか?」
「大岡裁きをしてくれるって? そうやって、双方の話を聞くふりをして、守護霊の解放を懇願するつもりだね」
怨霊男の勘の鋭さに完敗して、オレは両手を上げる。
「チッ。ばれちゃ仕方ねえな。オレの守護霊を封印したって言ったけどさ、どこに閉じ込めたんだよ?」
「え」
怨霊男は床に視線を流し、わずかに躊躇う素振りを見せたあと、
「ゴミ箱の中とか?」
質問で返してきた。
「嘘くせえな」
言葉を濁してゴミ箱レベルだ。恐らく、想像もつかない悪環境にいるに違いないと、オレは見たこともない守護霊の身を案じる。
早く怨霊男に成仏してもらい、守護霊を助け出さなくては。だが、方法がわからない。
「頼むからさ、成仏してくれよ」
「真の命を奪ったら、成仏できるんだけれど、協力してくれる?」
「やだね」
「じゃあ、聞くけどさ。真の守護霊が不在なのに、どうして貴方は生きているかわかってる?」
「え」
オレは床に視線を流し、わずかに考える素振りを見せたあと、
「さっきは助けてくれてありがとうございました?」
恩着せがましい怨霊男に対して、素直に礼を言うのも癪に触り、疑問符は外せなかった。
「嘘っぽいなあ」
怨霊男はあぐらに組み替えたあと、頬杖をついて愉快そうに笑った。目尻が下がり、まるで言葉のキャッチボールを楽しんでいるようだった。
キャッチボールはある程度の広場でするものであるし、言葉のキャッチボールは怨霊とするものではない。
なぜなら、狭い場所で野球ボールを投げ合えば、周囲に迷惑がかかるものであるし、怨霊と言葉を交わし慣れ親しんでしまえば、危機感が蒸発し、命を奪われることになるからだ。
双方共にコントロールには最善の注意が必要だ。