第1章 オカルト生活は突然に

「違うよ。オンリョーだよ、怨霊」

 目の前の、嫉妬する気も起こらない端整な顔立ちの不法侵入者から信じがたい言葉が放たれた気がして、オレはもう一度聞き返した。

「音量だよな?」

「お・ん・りょ・う。怨霊は祟りをもたらすユーレイのことだよ、ゆ・う・れ・い」

 男は、地球が丸いのは常識だとでも言うように、なぜそんなことも知らないんだと非難の色を滲ませて口を尖らせた。

「はあ?」

 悪びれる様子もない男の態度に呆気に取られ、口が半開きになる。

「ほら、千代ちよが守護霊だって豪語している崎山家の偉大なご先祖様がいるでしょ?  その偉大な先祖にひどい目に遭わされて、可哀想に、私は殺されちゃったんだ。あれは悪夢だったなあ。まあ、それ以来、崎山家に積年の恨みを抱いている、つまり怨霊になってしまってね。ちなみに私の人生計画では崎山家の末代まで呪わせてもらう予定だからよろしく!」

 男はオレに友好の意思を示してか握手を求めようとまた手を差し出してきた。

 その手を今度は払いのける。新手の詐欺か何だか知らないが、今時そんなネタを信じるやつは誰もいない。

「バーカ、何が怨霊だ、幽霊だ。嘘をつくならもっとまともな嘘をつけっての。オレはさっき、あんたの手を掴んだんだぜ、幽霊じゃなくて生身の人間じゃねえか。どうせ、『貴方はこのままでは不幸になりますので、指定の口座にお金を振り込んでください』ってたぐいの詐欺なんだろ」

 近頃のオレオレ詐欺の手口が巧妙になっているとは耳にするが、ついには幽霊まで登場させてくるとは。劇場型オレオレ詐欺ならぬ心霊型オレオレ詐欺だ。

「参ったな、信じてもらえないなんて」

 男は台詞とは裏腹にちっとも困った様子もなく、鼻の頭をかいたあと、のんびりとオレを覗き込んだ。

「見えないものを信じないなんてナンセンスだよ。世の中は目に見えないもので満ち溢れていることに真は気付いてる?」

 男の澄み渡った黒い瞳に困惑顔のオレが映る。

「Wi-Fiだって、Bluetoothだって、紫外線だって、真の好きな音楽だって、目に見えないのにちゃあんと存在しているじゃないか」

「それは科学的に証明されているんだよ!」

 妹が科学部に所属していることもあり、兄として語気荒く言い返しはしたが、体は金縛りにあったかのように動かない。恐怖のためではなく、考えたこともない世界の存在に戸惑ったからだ。

「仕方がない、証拠を見せてあげるよ」

 ノンフライのスナック菓子より軽い調子で男は言った。そして、その口調よりも軽く畳を蹴り上げると、男の痩身が空中を浮遊し始めた。風船のようにふわふわと漂いながら、口の端に強気な笑みを浮かべる。

「幽霊は空を飛べるんだよ。もう信じてくれるよね」

 オレは舌を巻いた。だが、慌てて驚いた顔を取り繕った。

「だったら、オレがあんたの手を取ったのはどう説明するんだよ」

「それは簡単、霊力の調節さ。死者である私たち幽霊には霊力という特別な力があるんだ。霊力を使うことで姿を見せたり、消すことができる。さっき、真が私の手を掴めたのは霊力を消費しているからだよ。こんな風に──」

 男は言いながら着地し、先ほどオレが払いのけた手で、パシッとオレの腕を取った。

 驚いたオレは、思わず後ろへ仰け反る。

まことの腕を掴んだり、物体に触れたりすることは物凄く霊力を使うんだ。さあ、今度は私に触ってごらん」

 男に促されるまま、恐る恐る手を伸ばした。胴体に触れたはずなのに、そこには初めから何も存在しないかのように手がくうを切る。光やSF映画のようにホログラムに触れても通過するだけで何も感じないのとよく似ていた。

「今は霊力を最小限に抑えている状態だから、触れることができないんだ。でも、こうすると」

 次は男の胴体に触れることができた。なめらかな肌触りの上質な着物と、引き締まった筋肉の感触を指先に覚え、咄嗟に手を引っ込めた。

「うわ、気持ち悪ィ」

 両方の掌を代わる代わる眺めるオレに、男は「失礼だな」と言いながら、声を上げて笑った。

「ついでに言うと、今は真以外の生者には私の姿が見えないように霊力を節約しているんだよ。だから、他の人には私が見えない」

「どうせ、トリックがあるんだろ。あんた、マジシャンだもんな」

「トリックなんてないし、私はマジシャンじゃない、平凡な怨霊だってば。相変わらず、真は疑い深いなあ」

 男が初めて浮かべた困ったような表情につけ込み、オレはさらに息巻いた。とっておきの切り札を叩きつけてやる。

「怨霊だって言い張るんだったらなあ、あんたを殺した崎山家の先祖とやらをここに連れて来いよ」

「それは無理なお願いだね」

「どうせ嘘だから、できないんだろ?  今警察呼ぶからな、覚悟しろよ、詐欺師野郎」

 スマートフォンの液晶画面にためらいなく、「110」を打ち込んだとき、

「どうして連れて来れないと思う?」

 男はオレを試すように涼しげな目元を細めた。

「それは私が彼を封印したからだよ」

 通話ボタンに触れる寸前で、人差し指を止めた。

「何だって?」 

「封印したって言ったんだ。崎山家に伝わる偉大なご先祖様は実のところ、千代の言うように真の守護霊なんだよ。その守護霊を私がこの手で封印してしまった。ということは今の真には守護霊がツいていない」

 男は意味深に唇をつり上げる。

「真たち生きている人間、つまり生者には、必ずひとり守護霊がツいている。普段、何気なく生きている真たちが平穏無事に日常生活を送れているのは、守護霊の加護の元にある奇跡なんだ。その守護霊がツいていないってどういうことかわかる?」

 現実味のないキーワードの羅列に脳内がめちゃめちゃにかき乱されていた。

 これが詐欺の手口だと脳の司令塔で理解していても、すっかりパニックの波に呑み込まれたオレは、秩序を失ってしまっていた。まんまと男の話に取り込まれたというわけだ。

 単純で用心深い割に、情に流されやすいお人好し。オレの欠点が裏目に出た。

「……わからない」

 男の勢いに気圧されて、か細い声が漏れた。

「つまりは常に危険と隣り合わせ、なんだ」

 男は電車で見せた闇を抱えたような表情で、上半身を乗り出してきた。背筋に虫が這うような不快な気分になる。

「今日起こったことを思い出してみて。ひとつ、第二ボタンが取れた。ふたつ、チョークが黒板に突き刺さった。みっつ、靴紐が切れた。これは全部予兆なんだ」

「な、何の予兆なんだよ」

「今、貴方は私以外の怨霊にも狙われているってこと」

 男の婉曲な言い回しに、オレは生唾を飲み下した。

「どういうことなのか、はっきり言えよ」

 男は楽しむには充分すぎるほどの小さな間を取ったあと、整った顔を惜しみなく崩して、憎たらしいほどの笑顔でとんでもないことを言った。

「一世一代の大ピンチ。真はもうすぐ死んじゃいまーす!」

 それはまるで「福引きで一等が当たりました」と心踊る歓喜の声が聞こえてきそうな顔いっぱいの笑顔だった。
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