第1章 オカルト生活は突然に

 この日の授業はほとんど放心状態で男のことばかり考えていた。

 男が立ち去ったすぐあとに、校長先生が独特の整髪料のにおいと、四、五人のスーツ姿の男たちを引き連れて、授業を見学に来たが、案の定その中にあの男はいなかった。

 休み時間の全てを費やし、屋上から職員室、校舎中のトイレの個室にいたるところまで捜してみたが、どこにも男の姿はなく、蛇が絡み付いてくるような不気味さを覚えた。

 あの男はどこに行ってしまったのだろうか。

「顔色が悪いぞ。保健室に行ってこいよ」

 授業中、まんじりともしない居眠り常習犯を心配した友人Aは何度も気にかけてくれたが、その度にオレは「大丈夫」と応えた。保健室のような密室に近い空間より、大多数と共に過ごした方が身の安全を確保できると思ったからだ。

 そして、ヒットマンを送り込まれた政治家のように戦々恐々としているうちに放課後を迎えた。

 道草を食って遊び歩く気分には到底なれず、友達からの遊びの誘いを全部断り、オレはいち早く学校を出て、電車に飛び乗った。

 幸いにも車内に男の姿がないことを確認すると、ほっと安堵の息が漏れた。

 杞憂きゆうに終わった。

 男がいない。その事実に悶々としていた一日が、霧散していくような気がした。

 凱旋する戦士の誇らしさと戦地から無事生還した開放感を感じつつ、桜並木駅の改札を抜けた。

 そうだ。男は夢の中の人物だったとオレは自分自身に言い聞かせた。寝ぼけていて、夢と現実の出来事がごちゃ混ぜになり、分別がつかなくなっていただけだ。ビクビクする必要なんてない。全ては幻で、全ては解決したのだ。

 スキップに近い軽快な足取りで、駅の出口へと向かった。地元で有名な和菓子店、桜月屋おうげつやのどら焼きを食べて帰ろうかと心に余裕が生まれたとき、不安をせき止めていた堤防が決壊し、束の間の甘い幸せが消え去った。

 あの男がいるではないか!

 男は人待ち顔で、出口付近の壁に持たれて立っていた。スーツ姿から、白っぽい上着に紺地のロングスカートのような服装に着替えているが間違いない。

「あいつ、女装してんのか」

 男は女装姿で駅を出る人波の中から誰かターゲットを探しているようだった。

 ふと駅の掲示板に貼られている桜並木警察署からの案内文が目に留まった。かわら版と題された案内文には憚ることなくデカデカと「通り魔事件発生中!」の文字が踊っている。

 全身の毛が逆立ち、血の気が引いていくのを感じた。異常なほど音を立てる血流に目眩がした。

「まさかあいつが通り魔事件の犯人ってわけじゃないよな」

 何の根拠も証拠もないが、男の神出鬼没な不気味さのお陰で疑心暗鬼に陥り、不安がつのってゆく。

 オレは息を押し殺し、人混みに紛れて出口の観音開きのドアを抜けた。

 逃げなければ。

 逃げなければ、殺られる。

 本能的な危機感だけが、オレを突き動かしていた。

 駅を出て、安堵したのも束の間、背後からコンクリートを叩くような硬質の音が響いた。振り返ると男が韋駄天走いだてんばしりで追ってきていた。

 顔が強張った。やはり、男の標的はオレのようだ。

 すれ違う人達は猛ダッシュのオレを物珍しそうに傍観するだけで、男にはまるで興味がないのか、見向きもしない。クラスのみんなと同じように男の姿が見えていないのかもしれない。

「おネエのマジシャンかよ」

 恐怖におののく足を可能な限り前へ押し出し続けていると足下で何かが弾けた。スニーカーの靴紐が切れたようだ。走るたびに右足がゆるんでスピードが落ちていく。つい先日、少し早い誕生日プレゼントとして買ってもらったばかりの新品スニーカーであるのに。

「何なんだよ、縁起悪いっつうの」

 制服の第二ボタン。

 黒板にめり込んだチョーク。

 靴紐──。

 男と接触するたびに次々と起こる不吉な予感。これは男が仕組んだ罠なのだろうかと妙な勘ぐりが働いてしまう。

 まず第一に男とは全く面識がないのだから、オレの知らないところで恨みを買ってしまった可能性だって捨てきれない。

 現在までに起こった数々の殺人事件のほとんどが知らぬ間に買った怨恨による犯行であるとオレは思っている。一部例外、通り魔を除いては。

 脳内が大混乱しながら、駅前通の二つ目の角を右に折れ、そのまま真っ直ぐ突き進むと、住宅街の一角に月並みな門構えの木造二階建てが見えてきた。

 オレはそれを目指して最後の力を振り絞った。
 
 玄関ドアを破るようにして飛び込み、施錠してチェーンをかける。

「誰か、助けて……!」

 全身で息をしながら、玄関の上がり口に這うように倒れ込んだ。

「何なのよ、騒々しい」

 悠長な口調で母さんが現れた。どんぐり眼に「今忙しいんだけど」と言いたげな、面倒くさそうな色が浮かんでいる。

「おネエで、マジシャンで、通り魔の男に命を狙われてるんだ」

「そのエラく長い肩書きは何? その前にあんたがおネエに狙われてるって? おネエはね、男選びにうるさいの。女の子にすらモテないあんたが選ばれるはずがないでしょ?」

 恐怖に色をなくしているだろうオレをよそに、母さんは身をよじり笑う。

「笑い事じゃねえよ、オレは殺されそうなんだ。あいつは家の側まで来てるんだぞ」

「それじゃあ、母さんが追い払ってあげるから」

「開けちゃダメだって!」

 オレが止めるのも聞かず、母さんは目元の涙を拭いつつ、ドアの外へ半身を乗り出した。

 しばしの沈黙のあと、

「誰もいないじゃない」

 どんぐり眼を訝しげに細めた。

「あいつはオレにしか見えないんだ。学校でも駅でも見えているのはオレだけだった」

「ほら、おかしなこと言ってないで見てみなさいよ」

 母さんに首根っこを掴まれて、半ば無理やりドアの外へ顔を突き出す羽目になる。

 きつく閉じた目を恐る恐るゆっくりと開けた。

 しかし、門前に立っているはずの男の姿がない。

「嘘だろ」

 オレは拍子抜けし、素っ頓狂な声を上げた。

「最初から誰もいなかったのよ。まことは小心者だから早とちりだったんじゃないの?」

「そんなはずないって。一日中、追いかけられて怖い思いをしたんだ」

「あのね」

 母さんは抑揚なく言って、小さく息を吐いた。

「今おばあちゃんのお客様がいらっしゃってるの。お母さんは対応で忙しいんだから、つまらないことで大騒ぎしないでね」

「嘘じゃないんだ、真剣に話を聞いてくれよ、母さん」

 オレの追いすがる声をいとも簡単に振り切って、心底呆れた顔の母さんは客間へ消えていった。

 ふすまをへだてた客間からは「今息子がひとりで大騒ぎしていて」と母さんの愚痴が聞こえた。その後に続く控えめな男女の笑い声とばあちゃんのぼやき。

 玄関には客間の男女のものと見られる、羽化に失敗したカブトムシのようなしわしわの革靴とつま先のとがった女性用スニーカーが並んでいた。このスニーカーには見覚えがあった。

 確か履くだけでスタイルがよくなるとかそんな謳い文句で、三年くらい前に若い女性の間で流行ったスニーカーだ。当時母さんが年甲斐もなく欲しいと言っていたのでよく覚えている。

 オレはもう一度、玄関の外に目を向けた。

 グローブを持った二人組の小学生と目が合った。少年たちは道路を挟んだ向かいにある空き地でキャッチボールを始めるところのようだ。

「お前ら、危ないから早く帰れよ。通り魔がうろついているからな」

 まともに取り合ってもらえない上、信じてもらえない歯がゆさから、ほとんど負け惜しみで言った。

 少年たちのきょとんとした顔を外に押しやり、オレはドアを閉めた。
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