遙か6夢(長編)
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「こ、こんにちは〜……」
柄にもなく緊張する。さして滲んでもいない手汗を洋服で拭い、真琴はハイカラヤのドアをくぐった。
珈琲の香りが鼻腔をくすぐる。店内は橙色の灯りに照らされて、人はまばらに座って思い思いの時間を過ごしていた。
ゆっくり見回していれば、店の主と視線がかち合う。
「いらっしゃい。あら、その手にあるものは?」
「お邪魔してます。すみません……不躾なお願いで恐縮ですが、流しを貸していただけたりしないですか?」
眉を下げておそるおそるこちらを見上げてくる様子は、小動物のようだった。本当に申し訳無さそうに肩を縮こめている。出入口からさして動かないのは、断られたらすぐに立ち去るためか。
開店したばかりの朝。少しくたびれた様子の少女が、トレイにいくつかの食器をもって訪れる光景は、そう見られるものではない。咄嗟に事情を聞こうとして、やはり押し留めた。マスターとしてにこやかに微笑む。
「いいわよ〜。その代わり」
意味ありげに前置いて、少女の興味を引く。
「今流しに置いてある食器も一緒に洗ってくれるかしら? 交換条件よ」
「! もちろんです! ありがとうございます!」
「決まりね。こっちにいらっしゃい」
表情を輝かせて俯いていた顔を上げると、少女はきびきびと動き始めた。カウンターの内側に招く。早速とりかかろうと、洒落た洋服の袖をまくった腕は生白い。
カウンターに中年男性と若い少女の後ろ姿が並ぶ。
「お嬢さん、前に村雨につられて来ていた子よね? ご飯は食べた?」
「いえ、ちょっとバタバタしちゃって……食べてないです」
「それなら、サンドウイッチで良ければ作るわよ? 若い子が食事を抜くのは良くないしねえ」
「いえいえそんな……恥ずかしながらお金がないので……またの機会にさせてください」
「あらだったら……」
「俺がもつよ。マスター、珈琲淹れていいか」
「……村雨さん!」
「久し振りだな、立石」
落ち着いた低い声。和洋折衷の装束。里谷村雨がカウンターの向こう側にいた。
「はい、どうぞ。ごゆっくり」
「ありがとうございます」
「ほら」
「村雨さんも。ありがとうございます」
「ん」
それぞれ差し出されるサンドウイッチと珈琲。律儀にそれぞれ頭を下げて、真琴はカウンター席の一番端に座った。ハイカラヤの二階に通じる階段に一番近い、いつもは村雨の特等席。
そこに座っていろと指定をした当の本人は、真琴の左隣に流れるように腰掛ける。
「ミルクはあるから、好きなだけ入れな」
「ありがとうございます」
勧められたものには手をつけずに、カップを持ち上げる。それだけで珈琲の香ばしさとどこか懐かしい香りが漂ってくる。カップを前に、深呼吸して。一口、口をつけた。
「……ふふ。大人の味ってこういう感じかな」
「無理しなさんな。ほれ」
「……恐縮です……」
結局、村雨の手でカップにミルクが注がれる。ブラックからブラウンへ。黒は容易く白に汚され、入り乱れて黒でも白でもない色になった。
その様をじっと見つめたまま、ポツリと呟く。
「……昨夜ダリウスのとこ、出てきたんです」
「……そうか」
「驚かないんですね」
「朝からそんな疲れた様子で訪ねられてみろ、検討くらいつく」
「それもそうだ」
口元に手を当ててころころと笑う。可笑しそうに目を細めるそれは、年頃の少女そのものだ。目に光がないこと以外は。
風が止むように表情が消える。呼吸を数えるだけの時間が訪れた。店内にはあいも変わらず雑多な音が響き渡っている。コーヒーカップの持ち手を握ったまま、少女は俯いた。
「あの日、最初に思ったのは、『遅かった』ってことなんです。私、どこかで何となく分かってた」
「…………」
「軍と対立してること、私達が元の世界に戻るために協力してくれること、龍神の伝承に詳しいこと。よく考えて繋ぎ合わせれば、たどり着けない答えじゃない」
誘導されていた。偏った情報を与えられていた。そうやって彼らを責めて悪者にするのは簡単だ。
けれども自分は知ろうとしなかった。行動が遅かった。
鬼の一族はとうに動いていた。最初からあの日まで、梓を計算に入れていた。だから計算外の自分だけが、大きな流れを変えられたかもしれないのに、何もしなかった。その結果が今だ。
「……梓、泣いてた」
「…………」
「自分の力なのにコントロールできなくて人を傷つけていて、ダリウスが暗示をかけてきたことにも、何も知らなかった自分にも、ただ見ているしかできない無力さにも。全部の現実に、傷つけられてた」
始まりはエゴだった。ただ、元の世界に帰りたいという願いの為に。
けれども目の前のことを大切にする梓は、人々の暮らしに触れて、ダリウス達の思いに触れて。この世界のためにといつしか思うようになっていたことを、真琴は知っていた。
人々の為にと願って行動した結果が、それは全て他人の掌の上で、ただ破壊のためだけの下準備だった。
「私がもっと上手く出来ていれば……違う、もっと早く行動していれば……それよりもちゃんと考えていれば、こんなことにならずに済んだかもしれないのに」
「……立石」
「……私のせいだ。あの子を泣かせたのは、私がぐずぐずしていたから……!」
「立石!」
力強い温もりと共に、真琴の視界は暗闇に遮られた。
触れられる肌の温度と、ほのかに香るタバコの匂いで、村雨の手が目元を覆っていると気付く。
「落ち着け。深呼吸しろ。今のあんたは、世の中の悪い事全てを自分のせいだと言いかねん」
目の端に流れた涙が、親指で優しく拭われる。ギュッと目を瞑れば、また一粒二粒とぽろぽろと溢れてきた。こめかみから目尻まで、村雨の無骨な指が寄り添うように何度も往復する。
言われた通りに息を吸うと、自分の意思に反してしゃっくりが飛び出た。羞恥で口を塞げば、ふ、と息を吐く音がしてこめかみがやや雑に撫でられる。言葉が無いだけで、雄弁な慰めだった。胸の震えが、徐々に収まっていく。
ややあって、目元の覆いは離れていった。遠ざかる温もりを名残惜しく思いながら、真琴は気恥ずかしさで俯く。横髪は簡単に表情を隠してくれた。
「……落ち着いたか」
「……はい。すみません」
「謝ることはない。あんたのそれは純粋で自然な感情だ。……俺も憶えておくよ」
村雨の言葉に真琴が顔を上げる。目元は赤く滲んで、どう取り繕っても泣き腫らした目だ。
「高塚が泣いていたことを、あんたが忘れないように。あんたが傷付いていることを、俺も憶えておくってことだ」
「村雨さん……」
村雨の横顔は真剣で、ただの慰めではないことが真琴にも分かった。
「やっぱり、村雨さんと話せて良かった」
たった二回しか会っていないのに、この大人は大丈夫と真琴の中には妙な安心感があった。自分達をガキ扱いすることが、真琴には彼なりの誠実らしさに思えてならなかった。
「村雨さんはなんか、頼れる大人って感じだったから」
「……買い被りすぎだよ」
少女の言葉に顔を背けて、男はコーヒーを口にする。いつもの味と香りに一息ついて、村雨はふと、あることに思い至った。
「あんた、これからどうするんだ?」
「え?」
「今まで衣食住、全部ダリウスのところで用意されていただろう。あてはあるのか?」
質問の体を装っているが、まず無いだろうと村雨は見越していた。
ダリウス達によって行動は制限されていただろうし、ここに来て知り合いも作る暇などなかったはずだ。
ハイカラヤなら、二階に空き部屋があった。マスターに話を通す必要があるが、おそらく快く是と頷くだろう。あとは衣食だが、これは村雨の方で養うつもりだった。未成年の子供一人の食い扶持が増えたところで困るような稼ぎじゃあない。
「もし、お前さんが嫌じゃなければ──「あ、とりあえず住まいは何とかなりました!」……は?」
思わず剣呑な目付きで少女を見返す。わずかに引きつった笑顔を見て、村雨は自分の眉間に親指を押し当てた。目を閉じて、細く息を吐く。
「……昨日の今日で、か。親切な御仁にでも行き遭ったか?」
「えーと……そんな感じです! 色々と条件はあるんですけど、家賃も用意できるまで払わなくていいらしいですし……」
「……その条件ってのは?」
「家に他人を絶対に招き入れないこと。あと、家の場所も極力教えないこと……ですかね。随分な人嫌いらしくって」
「…………」
村雨は閉口した。端的にいって、怪しさしかない。
真琴はどう見ても未成年の少女である。子供が家を探しているなど、どう考えても『訳アリ』だ。そんな面倒な人間をわざわざ招き入れるなど他に思惑がある以外考え難かった。何か事件に巻き込まれていて、脅迫されていたりするのではないか。指折り数えて、問題点を挙げていく少女の様子を観察する。
「ただお風呂とか台所とか、そういう基本的な備え付けのものがまったく無くて。ほんと寝るだけって感じなんです。だから破格の条件なのも納得しちゃいました。雨風凌げれば、後は外で調達すればいいかなーって思ったんですけど。そもそも調達する方法知らないなって」
目の濁りはなく、思い出すように視線を泳がせてはいるものの、切羽詰まっている様子はない。どうやら、今は特に問題ないようだ。
元より利発なこの少女のことだ、本当にまずい状況であれば何某かのサインを出すだろうと結論づけた。それはそれとして、きちんと見守るつもりではあるが。
「……なるほど。それを聞きに来たってわけか」
「仰る通りで……ええと……」
両手を合わせて、少女が下から覗き込む。典型的なおねだりの姿勢。
「……村雨さんお願いします! ご迷惑でなければ、色々教えてください!!」
顔の前でパンッと手を合わせる音が響く。あまり真剣すぎてお願いではなく拝まれている姿勢だった。思ったより勢いが良く、これが若さか、と村雨はひとりごちる。
「構わんよ。これを飲み終わったら、街の散策がてら案内ぐらいはしてやる」
「ありがとうございます!」
ほっと息を吐く。口には出さないが、断られなくて良かったと真琴の顔には書いてあった。握りしめていたカップを持ち上げて、ミルクがたっぷり入った珈琲をごくごくと飲んでいる。
「ほら、こっちも食べな。空きっ腹に珈琲だけはよくない」
「はーい。いただきます!」
自身を棚上げしてサンドウイッチの皿を押せば、少女は素直にパンを手にとった。大きく一口かぶりついて、明かりがついたように表情が華やぐ。どうやら口に合ったらしい。
「美味しー! 毎日食べたーい!」
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない」
「えへへ。聞こえてましたか」
ニコニコと笑う口の端にパン屑がついていることに気づいていない。村雨が黙って指してやれば、わたわたと逆側に指を走らせている。
「そっちじゃない。こっちだ」
「あっ、こっちですか。……取れました?」
「ん」
「なんだか、二人ともそうしてると兄妹みたいねえ」
マスターの台詞に、二人してカウンターを見る。その仕草も間合いがぴったりで、とうとうマスターは吹き出した。
背を丸めて喉を震わせている店主を前に、二人で顔を見合わせる。
「……箸が転がってもおかしい年頃って言うんでしたっけ」
「冗談はよせ。あれが幼気な年に見えるか?」
「ちょっと! 聞こえてるわよ村雨!」
マスターの鋭い返しに村雨はわざとらしく肩を竦めた。その様子がおかしくて、真琴からもつられて笑い声が上がる。コーヒーの香りにみずみずしい声音が混ざっていくのを、男達はほろ苦さと共に見守っていた。
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