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神雨

 誰かの泣いている声が聞こえる。
そこは真っ暗な世界で。私しかいなくて。何も持ってない今じゃ、私じゃなくても何もできないんだけど。
「どこから……?」
 少なくとも、私は泣いていない。真っ暗で心細くないかと言われたら、首は縦に振るけれども。でも、それ以上に誰かが泣いていることが気になって仕方なかった。
「そこにいるのは誰?」
 前に進んでいるのかわからないままに足を動かしていたら、ぼんやりと影が見えた。その影は、だんだんと形作られていき輪郭がはっきりとしてきて。
「……女の子?」
 しゃくり声を上げる小さな女の子。顔は俯いていて、よくわからない。だけど、その子が泣いているのは私が嫌で。少しずつ距離を近づける。
「……どうしたの? 迷子?」
「……ぐず、っ」
「……」
 ど、どうしよう。小さな子を泣き止ます方法なんて、私知らないよ。あやし方なんて、神琳に聞かない、と。
「……え。神、琳?」
「……っ」
 待って、神琳って思ったの、私。そこで気が付く。私、何か大事なことを忘れている気がする。とても大事なことを。
「……お姉さん」
「……っ、どうしたのかな」
 そんなことを思う私に向けて、いつの間にか泣き止んでいた小さな女の子が私を呼ぶ。返事をしながらも、胸の拍動がどんどん大きくなっていく。
「ねぇ、お姉さんはここにいていいの?」
「……え」
 この子は、何をいきなり言い出すんだろう。あなたはさっきまで泣いていたのに。
「戻らなくていいの?」
「戻る、って……」
「──戻ってください、雨嘉さん」
「!」
 戸惑う私に女の子は告げる。顔はよく見えないのに、ちっとも怖くなくて。どこか安心する声で。私の、名前を。
「雨嘉さんは……私のそばにいてくれないと」
「! ま、待っ……!」
 問い返そうとした瞬間、強い力で背中が引っ張られた。眩しくて女の子の姿を見ていられない。ただ、意識が白色に染まりきる瞬間。
「──あ、」
 私の見間違えじゃないとしたら。
 その女の子は、綺麗な赤と金の瞳の色をしていた。

 ◇◇◇

「……こ、こは……」
 体が重い。頭も考えがまとまらない。ただ、見慣れた視界の景色だけが、自分の部屋にいるということを理解させてくれていた。
「っ、目が覚めたんですね」
「……しぇん、りん……?」
 ぼんやりとする中で聞こえた声。私が聞き間違えるはずのない声。心が求めるままに大事な名前を呼ぶと、自分が出したとは思えないほどに掠れた声だった。
「雨嘉さん……お寝坊ですよ」
「……神琳?」
 私の顔を覗き込んできたのは、やっぱり。ルームメイトの神琳だった。二回目はそれなりにしっかりと呼べたような気はする。ただ、それは寝起きっていうのもありそうだけど。でも朝じゃないような気がする。神琳は制服を着ているけど。訓練だったり、戦闘だったり、学校だとしたら。あの真面目を形にしたような神琳が。私を起こさないはずがないし、何よりも『目が覚めた』なんて言わないはずだから。
「……私、なんで寝て……」
「私を庇って、怪我をされたんですよ」
「……ぁ」
 覚えていませんか。静かに響く神琳の声。その言葉で意識を失う前の記憶が蘇ってきた。
(──神琳、危ないっ!)
 ヒュージが神琳を狙っていたのに気がついたから思わず射線に入り込んで、驚いた様子の神琳の気配を感じながらも直後に頭が真っ白になったんだ。痛いって思う暇もなかったな。
「……ごめん」
「無事ならいいんです」
「……うん」
 神琳の笑顔。ほっとするような、あったかい笑顔。咄嗟にごめんと口に出たけど、間違ってないような気がした。だって、神琳はいつも通りのようでいて、少し疲れているように見えたから。
「……んっ」
「起き上がっても大丈夫そうですか?」
「多分、大丈夫だと……思う」
 パジャマの裾から覗く包帯はどうやら一ヶ所だけではないみたい。静かに頭に触れると、何周も巻かれていることがわかった。
「……そう、ですか」
「うん」
 少しだけ起き上がるときに体が痛みを感じたけれど、それには気が付かないフリをして体を起こす。やっぱり神琳の顔はいつもより、浮かない顔をしていた。
(神琳……)
他の一柳隊のみんななら、もしかしたら見過ごしてしまっていたかもしれないけれど。ルームメイトで誰よりも一緒の時間が多い私だから。
(それでも、神琳のことだから)
 私が心配してもお礼を言って、有耶無耶にしてしまうかもしれない。というか、神琳に対しては大体そんな気もした。
「起き上がれるのでしたら、喉が乾いていませんか?」
「そうだね、もらっても……いいかな」
「わかりました。それでしたら、お茶……入れますね」
「う、ん」
 笑った神琳が背を向けた。その姿から改めて思う。神琳が怪我、してなくてよかった。痛いのが私でよかった。だって。
(神琳が痛いのを見るのは、嫌……だもん)
 もし、あのまま神琳がヒュージの攻撃を受けていたら。神琳が怪我をしたら。目を覚まさなかったら。私は、どうしていいかわからなかったかも。
「……ね、神り……」
「……」
 お茶を淹れる背中へ、お茶のお礼を言おうとした時。私は、雷が落ちたような衝撃が走った。聞こえるように呼び掛けた名前は、尻すぼみとなって消えてしまった。
「……神、琳?」
「……っ」
 今は寒くなんかない。むしろあったかくなってきている。でも、神琳の背中は震えていた。小さく嗚咽も聞こえて、しまった。
(私、馬鹿だ)
 さっき、私はこう思った。『神琳が怪我をしなくてよかった』って。『神琳が痛いのを見るのは嫌だ』って。
 じゃあ、逆だったら。神琳は私が怪我をするのを良しとするか、って考えたら。そんなことはない。そんなことを神琳がいいって考えるはずがない。
(ごめん、神琳)
 気力を絞ってベッドから降りる。体を動かすたびに痛みが走る。でも、今は私よりも神琳の方がもっとずっと痛いはず。時計を見てないから、今が何時なのかわからないけれど。だけど、たとえ数分であったとしても。心に傷をつけてしまったのだから。
「……神琳」
「……っ、雨嘉、さん」
 顔は見えない。だけどそれでもかまわないと、神琳の体を抱きしめた。傍で聞こえる神琳の声も震えている。それはきっと私の勘違いなんかじゃない。ごめん、神琳。痛かったよね。ごめん。
「神琳」
「……どうしたんですか、雨嘉さん。お茶は運ぶのでベッドに戻って」
「心配かけて、ごめん。神琳」
「っ!」
 私がごめんを口にした瞬間。神琳の体が固くなった。私が、固くしてしまった。
「心配かけてごめん、神琳」
「……雨嘉さん」
「ごめんね、神琳」
「……」
 神琳は怒っているかもしれない。頼まれてもいないのに庇って怪我をして、倒れて意識を失って。盟友だって解消されても、おかしくないもん。
 でも、身勝手なのはわかっているけれど。
「……神琳が無事で、よかった」
「っ」
 目の前の温もりを噛みしめる。本当に無事でよかった。
「……した」
「……神、琳?」
「私は、嫌でした」
 す、と静かに神琳の手が重なる。その温かさにホッとする私と言葉を重ねる神琳。その声には悲しいって気持ちが込められているようだった。
「雨嘉さんがヒュージの攻撃を受けた時、私は胸が張り裂けそうでした」
「……うん」
「名前を何度呼んでも、目を開けないあなたが……怖かった」
 とつとつと語られる神琳の胸の内。それは次第に熱いものがこみ上げてくるほどに。
「力なく投げ出された腕が、怖かった。握り返してくれない手が、怖かった」
「うん」
 重ねた手の震えが大きくなる。掌に、神琳の想いが弾けて熱い。ぽた、ぽた、と落ちるそれは。どれだけ心配をかけてしまったのか、苦しませてしまったのか。とどまることを知らなかった。
「……雨嘉、さん……っ」
「なぁに、神琳」
 湿り気を帯びた神琳の声に、私はここだよって想いを込めて名前を呼ぶ。私の大切な人の名前を。守りたいと願う、盟友の名前を。
 抱擁を解かれたと思うも、すぐに手を取られ向き合う形になった私たち。神琳は瞳から涙を溢れさせていた。気丈に振舞うことを意識しないといけないと思ってしまったんだろう。神琳がまっすぐ私を見つめる。今は、目をそらしちゃいけないと思いながら。
 息を一つ吸い込んだ神琳が口を開く。
「……約束、してください」
「うん」
「絶対に、私のために無茶をしないでください。あなたまでいなくなったら、私は……っ」
「うん、そうだね」
 本当にごめん、神琳。もうこんなこと、しないから。普段と立場が変わったなって、空いた片手を静かに目尻に近づける。掬い取っても神琳からは次々と大粒の雫が零れていた。
「……次、こんなことをしたら絶交、です」
「わかった」
「お茶も淹れてあげません」
「うん」
「……盟友、だって。解消、です」
「それは、嫌だな……」
「っ、だったら」
 もう、私のために無茶をすることはやめてください。神琳の切実な願いが私の心の真ん中に響く。それだけの想いが込められていることを、私はわかってしまったから。
「約束する。もう二度とこんなことはしないから……だから、泣かないで神琳」
「……っ、雨嘉さんの、せいです……!」
 そうだね。本当に私が悪いね。
 オッドアイから零れる雫が熱を帯びていた。全部受け止めたいと思って。湯気が立ち昇るカップを視界に収めながら。震える盟友を今度は正面から抱きしめたのだった。
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