ジンジャーエールが満ちるまで
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しかし、話はそれからだった。
それから数日して、またもやイルミに呼び出しを食らった。
『話があるから来て』、なんて言うだけで詳しくは何も教えてくれない彼の連絡に、あ、これは行かなくていいヤツだなと判断をした私はそのメールを無視した。前述した通り、私だって暇じゃない。稼がなくちゃならないし、依頼も無いわけでは無い。今度こそ結婚報告であったとしても、もう勝手にやってくれという気持ちだ。いやもちろんお祝いはするけど。
アーネンエルベ。昼に。
そう指定されたが、その時刻はとっくに過ぎていった。左腕の時計を少し気にしてしまうのは、きっと私の性だ。無視してしまってよかったのかな、という優柔な部分。そしてイルミがちょっと怖いと思う気持ちもあるからだ。だから、それ以上なんて無い。そう思い込んで、頭からその一方的な約束を振り払うように依頼を遂げることだけを考えて働く。
カチ、カチ、カチ。小刻みに震える時計。どうしてこんなにも時間が気になってしまうのだろうか。一針ずつ着々と刻んでいく盤に見入ってしまう。時計の縁をなぞっても、ぜんまいを無意味に回したりしても、時間は戻らないのに。革のベルトを巻き直したりしても、それは変わらなかった。
夏空は夕闇に入れ替わり、そしてたちまち真っ暗な曇空へと色を変える。
そして。彼の結婚がショックだったのかもしれない、と認めるつもりになったのは、短針が深夜を回る頃。シンデレラだったら、見窄らしい灰かぶりに戻ってしまう時刻だろう。
別に、私を選んでくれないということに何か文句を言うつもりはない。欲しいものが手の届かない場所にある私の場合、彼のように何もかも恵まれた人間と折り合いをつけるには少しやっかみがあるというものだ。人間なのだから、擦り合わせていけばいいと思うだろう。しかし人間だからそれが難しいのだ。自分より劣った人に一生をかけたいなんて思うことは出来ない。だから、彼が私を選ぶことなんて無いのはわかっている。それを心の深奥のどこかで認めたくない私が、彼からの声を拒むだけの話。ただ、それだけの話。
怖いのだ。「結婚が決まった」。その一言を、ついに彼の口から聞くのが。
暗雲が立ち込め、ひんやりとした空気と共に遂には雨が降って来た。夏とはいえ、夜に降る雨は体をじっとりと濡らし、どんどん体温を奪っていく。寒い、そう呟いても、誰の声も聞こえない。当たり前だ。行かないと決めたのは私なのだから。あのジンジャーエールを口にする彼の唇を眺めるのが、こんなにも苦しいと思う。手に入らない、触れることはない、関係がない。それで終わり。救いなのは、誰にもこの気持ちを悟られることなく終わっていくこと。
ーーーきっとイルミは、もうあの席にはいない。
あの喫茶店に足を向けるのも、これで最後。彼の姿が無いことを確認して、この想いに区切りをつける。そして、明日からはいつもの私だ。イルミ=ゾルディックの知人の女。ただそれだけの関係に時を戻す。彼に変に思われても嫌だから。そして、彼に連絡を入れよう。『ごめん、仕事だったから行けなかったよ』と。それだけでまた世界はぜんまいを嵌めて上手く動き始める。表層は、何も変わらないまま。手に入らないまま、触れることもないまま、関係もないまま。
イルミはこれからも家族と共に生きて、こうして私は一生を独りのままで。
見回しても、私しかいない道。服が肌にぺったりとくっ付いてしまうほど、雨は勢いを止めない。一滴一滴が、私の肌を叩いては、滑って落ちていく。ああ、と嗚咽。でも、たまにはこんな日もいいだろう。誤魔化してくれるのは、雨だけなのだから。
アーネンエルベは、薄暗い路地にぽつりと外灯を一つ垂らし、時計の針が12時を回った時刻だというのに店を開いていた。昼間とは打って変わった雰囲気に、雨に濡れた体を震えさせながら店の前に立つ。とても重い取っ手を握りしめて、ゆっくりと押した。扉を開けると、ちりんとベルが鳴った。夜だけど、変わらない雰囲気。カウンターに居座るマスターは私を見て、そしてなぜか奥の座席に視線をやった。私も、そちらへ目を向けた。
「……イルミ……」
彼が居た。
奥角の、いつもの席。赤茶けた椅子、光沢のある古いテーブル。そこに頰杖をついて、イルミが座っていた。どういうことだろう。どうして、こんな時間に、ここにイルミがいるのだ。約束は昼だったはずだ。怒ってとっくに帰ってしまったはずだ。なのに、どうして……。
足から力が抜けそうになりながら、ふらふらと彼の元に向かう。イルミは、びしょ濡れで見窄らしい格好で訪れた私をじっと見ていた。別段、普段と変わりのない彼。私だけが、こんな夜のせいで変わってしまっていた。時計のぜんまいは、動きを止めた。
「遅いよ」
ぽつんと、イルミはそう言った。責められているはずの言葉だったが、まるで棘はなく、ただの呟きのようにも感じられた。
「来ないかと思った」
続けて彼は言った。これもまた、呟きだった。
私も、あなたはもういないと思った。きっと。きっとだけど、約束の時間からこんな夜中まで、きっとイルミはここで待ってくれていた。ただ私だけを。ジンジャーエールを空にして。ここにいる目的は、私だけ。それが堪らなく嬉しくて。上手に声が出せなかった。
「座ったら?」
「……う、ん」
「アメリア、どうしてそんな濡れてるの」
「……あ、外、雨が……」
「そんなの知ってる」
雨音が、店内にもささめいて聞こえる。イルミが聞きたいのはどうしてそんなわざわざ濡れて来たのかということだろう。そんなのわかってる。けど、上手く説明できそうになかった。
イルミは、無言の私をどう思ったのかわからないが、それ以上は何も言わないで、自らのジャケットを私に差し出した。濡れるからいいと手を振って断ったが、今度は彼は立ち上がり、私の肩にそれを掛けた。思った以上に大きなサイズのジャケットを羽織らせてもらったせいかわからないが、寒さは、もうすっかり無くなってしまった。
「いいから」
そこへタイミングよく、マスターが真っ白で清潔そうなタオルを持って来た。イルミがそれを受け取り、私の頭にふわりと被せた。そしてその上に添えられた彼の大きな手。もしかしてもしかしてだけど、優しく拭いてくれるのかと思いきや。
「ウワアアアアア」
「ちょっと動かないでよ、アメリア」
思った以上に、豪快にワッシャワッシャと拭き始めた。それはもう、髪が絡まり倒しそうな勢いで気遣いもクソもない。力も強ければ、髪の流れに逆らって縦横無尽にタオルドライ。首がもげそう。枝毛の多い私には致命的だ。
「あの!イルミ!もういいから!自分でやります本当に!」
「大丈夫。弟達によくやってたから」
そっちは大丈夫かもしれないがこっちは大丈夫じゃないんだ、と心の中で叫ぶ。なんとかイルミからタオルをやんわり取り上げた頃には、私の髪はボサボサでキューティクルは死んでいた。ブラッシングに苦労する事だろう。イルミは、「髪、汚いね」と率直な感想を述べた。なんだと……そっちがやったくせに。うるさいな。さっきのトキメキを返してくれ。なんとか手櫛で戻せるところまで髪を戻したが、それでもやはり髪は荒れ野のようだった。
イルミは、そんな私をどこか遠い目で眺めていた。何かに思いを馳せているかのように、上の空。なんとなくだけどそんな雰囲気。どうしてキレてこないんだろうと、私は恐る恐る尋ねた。
「……あ、あの、イルミ。遅れたこと、怒ってないの」
「怒ってるよ」
「え、怒ってるの」
「そりゃね」
その割には、穏やかな彼だった。こういう時、怒っているのならもう少し態度に出すはずなのに。「何時間待ったと思ってるの」と、小言を言うわりには、溜め息一つ。ということは、だ。もしかして、今日こそ大事な話だったのだろうか。それは申し訳のないことをした。待ち惚けをしてでも、きっと私に言いたかったに違いない。
「座ろうか」
「うん」
神妙な雰囲気さえ持って着席を促すイルミ。私は素直にそれに応じた。タイミングを合わせて、マスターが注文を取りに来たので、私は貸してくれたタオルにお礼を言ってからジンジャーエールを頼んだ。イルミもまた、「彼女と同じものを」と言った。マスターは無言でうなづいて、カウンターへ戻った。マスターの手元を遠くから見る。紫と橙の二つのマグカップに、新生姜とスパイス・そしてお砂糖を煮詰めたシロップを入れ炭酸で割る。くるくるとかき混ぜて出来上がり。それはすぐさま二つ分運ばれてきた。今日はご丁寧にも、甘そうな蜂蜜のレモン漬けが底に沈んでいた。イルミはそれを「飲みなよ」と促した。グラスに注がれたそれに、今日はストローを差すことはしなかった。一口。いつものジンジャーシロップの味に、心が解けていくような気がした。イルミは、「俺の分も欲しかったらあげるよ」と言った。それもまた、彼らしいと思った。
「そ、それで。話っていうのは……」
「うん。驚かないで聞いてほしいんだけど」
「色んな意味で期待してないから大丈夫」
今度こそ、イルミの口から私の心臓を止める一言が出てくる。
『結婚が決まった。相手はーーー』
もはや相手の名前なんて耳には入ってこないだろう。私には必要のない情報だ。一生を一人で生きていく予定の私には。でも、おめでとうを言う準備だけはしておかなくちゃいけない。ちゃんと言わなくちゃ。おめでとう、おめでとう、家族が増えるね、素敵だね。上っ面の言葉だけでも、取り成しただけの態度でも。私はそう心構えをして、イルミの次の言葉を待った。
「俺の家、倒産した」
「…………………いや、さすがに私でもそれは嘘ってわかるよ」
しかし、彼の口から出た言葉は、ここでも“結婚”の二文字ではなかった。
「親父が手を出してた事業が失敗して大損食らってね」
「え、待って待って、倒産したって言うけどゾルディック家って会社なの?暗殺以外にも事業やってるの?それにこの間ヨークシンの仕事で儲けたって言ってたよね?」
「俺たち一家は路頭に迷うことになったんだけど」
「路頭に迷うゾルディック家ってもはやテロだよ。迷わないよ絶対。無理があるって」
「帰る家もないんだよね」
「どうしてそこまでしてその設定押し通すの?」
「驚いた?」
「いやもう……お願いだから私の話も聞いてイルミ」
驚いたは驚いたけど、そういう驚きじゃない。想像以下の、というより想定外すぎる告白に対する驚きだ。虚をつかれたような気分だった。
「それで」
「え?」
「俺はもう金持ちじゃないということを知った訳だけど。どう思うの?」
「どう、とは……」
その取って付けたかのような安易な設定。たぶんだけど恐らくだけど絶対的に嘘なのはわかってるけど、イルミはそれに対する私の反応を探っているようだ。お金持ちじゃなくなったゾルディック家なんて想像出来ないけど、でも。困っているなら手を貸してあげるのが筋ってものだろう。それに、イルミはお金持ちじゃなくなったってイルミだ。何も変わらない彼がそこにいるだけだ。いや、むしろ貧乏になったイルミというのも有りかもしれない。逆に見てみたい。
「まあ、なんというか」
「うん」
「私もお金はそんなに無いけど、困ってるなら支える。それに、貧乏でもお金持ちでもイルミはイルミのまま変わらないんだから、それでもいい、んじゃないかなあ……?」
「そう?」
「あ、うん。私はそう思うけど」
それより結婚報告……あ、もうなんかいいや。待ってるこっちが疲れたわこれ。もうこの人の行動なんて予想も出来ないし、気を揉むだけ無駄なことかも。そう思いながら彼の様子を伺っていたが、イルミは、「あーよかった。気掛かりだったんだよね」と言って両の手を合わせた。先ほどよりも緩んだ彼の目元。
「だいたい、イルミん家が破産するほどの事業って何。失敗するってのも想像つかないし」
「ははは。さっきのは、嘘だよ、嘘」
「いや……わかってましたけど……」
まったくお前は騙されてばかりだね、とばかりにせせら笑うイルミに私はもうツッコむ気力も失せていた。ドッキリの質が低すぎる。
過去2回の経過の通りならば、イルミはここで「さてと」なんて立ち上がり、帰ってしまうはずだったが、彼は今日は席を立たなかった。3回目の正直というやつだろうか。彼は、まだ話があるとばかりにジンジャーエールで唇を湿らせた。私は、今日こそこの人にこれまでの意図を聞くべく口を開いた。
「ねえイルミ、どうしちゃったの? 3回も立て続けにどうしてこんな話するの?」
「だってアメリアが言ったんだろ」
「言ったって……何を?」
「三高の話」
三高……ああ、そういえば、確かに言ったかもしれない。結婚するなら高身長、高学歴、高収入の男が理想だという話だ。あくまでも理想。建前の欲。それをイルミは何故かしっかり覚えていた。
「それが、何?」
「ちょっと試したんだよ」
「え?」
「三高。確かに理に適った条件だけど、でもそういう男は他にもいる」
「はあ」
「だから俺がそうじゃなくなったらって話さ」
イルミが三高じゃなくなったらって。あ、まあ、確かにイルミは三高っちゃ三高なのか。身長高いし、ゾルディック家出身だし、お金持ちだし。自分で俺は三高だって言うのもちょっとどうかとは思うけど。
そう言われて思い返してみれば。
『実は俺、身長低いんだよね』
『実は俺、勉強出来ないんだよね』
『俺の家、倒産した』
身長のことと、学歴のこと、そして収入のこと。すべては、その三つ。
イルミは、その三つについて、私にIFの話を仕掛けてきた。
ーーー俺がそうじゃなくなったらどう思う?
そして私は、試す彼に、何と答えただろうか。
「アメリアは……」
抑揚のない透き通るような声が、静かに響いた。私の名を呼ぶその吐息で、卓上の蝋燭の炎が揺らぐ。
「いずれの条件が欠けたとしても、それでもいいと言ったよね」
それでもいい。それでもいいと、彼ならば思うことが出来た。その三つの条件全てが不揃いだとしても、きっと私はそれでもいいと言うだろう。その三つでなくて他の何かが欠けたとしても、いずれ今の彼が彼で亡くなる日がきたとしても、それでも。
「だから、契約は成立」
契約成立?
首を傾げている私に、イルミは「手を出して」と命じた。咄嗟のことによくわからず、利き手の右手を差し出す。すると彼は、眉を顰めて「そっちじゃない」と言った。なので私はさらに言われるがまま、左手を差し出した。
イルミの白い手が、私の左手を掴む。
それは、先程のような粗雑な扱いではなくて、彼の精一杯の丁寧が込められたかのような触れ方だった。けれど、私は彼の手に触れるのは初めてのことだったので、そんな気がしただけかもしれない。
イルミはそして、流れるような動作でポケットから何かを取り出した。それはあまりにも小さいもののようで、彼の手の中に隠れてしまって姿が見えない。なんだろう、と見送っているうちに、イルミはそれを私の薬指に付けた。
銀の指輪だった。
「え、ちょ、これ、な、なにこれ」
「何って指輪」
「なんで!?」
「契約だって言ったよね」
「何の契約!?」
「婚姻契約」
「こっ……」
婚姻契約。聞き間違いでなければ、確かにそう言った。
どうしてそんな物をイルミがくれるのか、どうしてそんな事になったのか、私は全くわからずに頭の中を疑問が巡回する。
「婚姻契約って、その、結婚ってこと?」
「他に何があるの」
「いやでも、でも、なんで突然そうなっちゃうの?」
「言ったよね、もうすぐ結婚の頃合いだって」
「あれ私の事だったの!?」
「そうだけど」
そう首を縦に振って、「お互いに条件は揃ってるし」と平然と言ってのけるイルミ。まるで前提だったかのような流れに困惑を隠せない。
「条件って、」
「アメリアは結婚相手は三高がいいんだよね」
「そ、そりゃ、そうは言ったけど……!」
「俺なら申し分の無い相手だと思うけど」
そしてイルミの自己評価がやたらと高い。いや客観的にもそれは事実だけども。
こんな状況でも平常の彼に、苛立ちが募っていく。それをわかってくれるまでぶつけてやりたい気持ちが湧き上がってくるようだった。
「イルミ、婚姻だよ? 結婚ってことだよ? 誰かと暮らしたことないからよくわからないけど、なんていうかこう、一緒に住まなくちゃいけないし、喧嘩したり、苛々したりもするんだよ。それを私で我慢できるの?」
「わかってるけど」
「また嘘だったら、私、怒るよ。もうきっと顔も見たくないと思う。今なら嘘って言っていいから。ゆるすから」
「嘘じゃない」
「そ……、それなら余計わかんないよ。全然わかんない。わかんなくて怖いよ。どうして私なの? どうして、私にするの。他にもいっぱい、いい人いるでしょう。駄目だよ、受け取れない」
私は、指輪を薬指から外して机の上に置いた。本気ならば尚のことその行動に彼は怒るかと思ったが、意外にも冷静にイルミはただ私を見ていた。
怖い、と思った。嬉しいけど、怖い。誰かと親密になることも、ましてや家族になるなんてことも。そうだ。他にも彼に見合う女性はいる。私である必要はないだろう。特別なものを持たないのだから。
ずっと何もなかった。私の手は気付いた時から空っぽ。
けど、欲しいとも望まなかった。
失くした時のことを思うと、怖かったから。
その恐怖が、今、銀の指輪の姿をして迫る。
「私は……、天涯孤独だよ? 捨てられたから家族もいない。イルミみたいに三高なんかじゃないんだよ。美人でもないし、頭も悪いし、お金もあまり無いの。私、何にも持ってない」
世間で言う、社会不適合。欠陥品。そういう人間の一人。
社会の闇に混じって生きている、煙たがられるはずの分類に属する一部だ。私みたいな者を、街を歩く人々はモブとでも言うのかもしれない。テレビのある社会学者はプアと言っていた。確かにそうだと思った。意味はわからない。とにかく、そういう人間なのだ。
美が足りない。学が足りない。金が足りない。
それだけじゃない。
気品が欠けている。教養が欠けている。常識が欠けている。気遣いが欠けている。家族が欠けている。友達が欠けている。人望が欠けている。手腕が欠けている。優秀に欠けている。
そういう、挙げきれない多くのものすべて。
「何もかもが欠けてるし足りないんだよ」
何もかも満たされたあなたが、何もかも足りない私を、どうして必要だと思うの。
胸がつかえるかのようだ。息苦しい。肺を広げて呼吸が出来ない。心臓の音も、どこか焦燥を感じて早鐘を打つ。そしてそれが少しずつ頭に登ってきて、涙を流すようにと指示をするのだ。とても堪らない感覚だ。こんな事で、と自分が弱く思えてしまう。だがそんな自分を正当化する為に認めたい、その鬩ぎ合いが私を混乱に突き落とす。だから、もっともっと辛く感じてしまう。落とした涙のせいで、目尻は痒くなって、それを誤魔化すために拭えば拭うほど、また涙は零れる。もっと、もっと、と、頭は泣くように指示をする。まだ足りない。それでも足りない。これでもか、と。嗚咽を漏らしても酷くなるばかりだ。どうして。生まれてしまった悲しみを落とすためにこんなに涙を絞り出しても、感傷は増す。
蝋燭が揺らめいた。その燻る炎の陰に、その白くて美しい顔が輝くかのようだった。じっとアメリアを見つめる黒い瞳が、ここでようやく開放するかのように視線を外した。イルミは、どう説明したらいいのか考えているようだったが、少し沈黙の後に、言った。
「……高身長、高学歴、高収入。それが結婚条件だとお前は言ったよね。俺はそれに該当する男の一人で、条件にかなっているはずだ。……でも」
お前と同じだよ。条件だけなら、誰だってよかったんだ。
別に、俺を選ばないということに何か文句を言うつもりはない。欲しいものがすべて手の届く場所にある俺の場合、彼女のように何もかも欠けた人間と折り合いをつけるには少しやっかみがあるというものだ。人間なのだから、擦り合わせていけばいいと思うだろう。しかし人間だからそれが難しいのだ。自分より劣った人に一生をかけたいなんて思うことはきっと難しい。だから同等とまでは言わないが、結婚の相手はそれなりの女だと思っていた。容姿、頭脳、家柄。すべてにおいて満ちた女。
条件だけなら、幾人もが候補に挙がった。
『イルミ様』
その女達はお前より綺麗で、
『この度の縁談、光栄です』
お前より賢くて、
『両家にとっても素敵なお話でしょう』
お前より血筋も良かったのに。
『お子は何人ご所望ですか?』
ねえ、アメリア。
俺は“何”と結婚するんだろうね。
条件が合う女を探して、向こうも条件の合う男を探して、それならばと結婚をして。
例えようもないけど、心臓に少し、隙間風が通ったような感覚だった。不思議な感覚だ。誰かに傷つけられた訳でも無いのに。痛いとも、辛いとも、感じてはいないのに。
けれど、途端に虚しくなったような気がしたんだ。意味があるのか、と。
「それだけなら、俺である必要なんてなかった」
あの夏の日の庭。アーネンエルベ。日差しから身を潜めるように、陰から空を見上げている。長い睫毛が、蝶の羽のように開いては閉じてを繰り返し、その合間に透き通るような瞳が遠く窓の外の世界を見る。少し眩しそうに目を細めて、時折思い出したかのようにジンジャーエールを口にする。炭酸の泡が弾けて、グラスの内側にたくさん跳ねた。結露をその小さな指でなぞって、一つずつ落としていく。氷がお互いに擦れて、美しい音が響いた。お前は笑った。何が面白いのかわからないけど、何故だか楽しそうに。ーーーそして時々、俺を見る。
『イルミ』
意味なんて無くていい。理由も条件も、必要無い。
ただお前と過ごす時間が、どうしてももっと欲しくて。
「俺である必要が欲しかった」
高身長、高学歴、高収入。それが結婚条件。俺はその条件に合致している。それならば、彼女が言葉の通りに条件だけを重きにしているのなら、他の女達のように首を縦に振るだろうか。けれど、そんな結婚に意味なんてない。彼女も他と同じだ。それなら駄目だと思ったんだ。だから、試した。
「けど、お前は条件が欠けた俺を三度とも認めた。それでもいい、と」
そして今日、アメリアに待ち惚けを食らって、苛立ちもしたし怒りも感じた。だが、それが俺に拍車をかけた。俺に満たない不完全な女。条件に見合わないのに、俺はその女をただ待った。その事実。
そして、“それでもいい”と。
きっと三度目も、お前はそう言う。だから、その未来にある言葉を担保に、お前を待った。
「……お前が本当に何も持ってないのは知ってる。欠けているのも、足りないのも」
いつもどこか、物足りないような顔をしていたよ。玩具を取り上げられたのに我慢する子どものように。家族の話をすると境界を引いて、別の世界の御伽話のように耳を済ませるんだ。最初から何も持っていないのに、それに納得しているはずなのに、どうしてかお前は懺悔する。足りない事を、欠けている事を。そういう星の元に生まれたのだと、自分に言い聞かせて。得ることはできないのだと、自分に足枷まで付けて。理想まで歪めて。
捨てられたというのは知っている。父母の顔さえ知らないというのも。戸籍がないために社会的に認められず、スラムで育って、路地裏で物乞いをして、残飯を恵んでもらって食いつなぐような日々で、鼠が這うような地下が最も安全な住居で、寒い日は凍傷になって、暑い日は溝の水を飲んでやり過ごし、ゴミ溜めを漁って凌ぐ生活で、着る物など無いから肌を晒して、誰からも教育を受けられなくて、雑務でさえも誰も雇ってなどくれなくて、食い扶持が無いためにいつしか人殺しで稼ぐようになって、
ーーーそして俺に出会った。
「でも、それでもいい」
それでもいいとお前が許してくれるのなら、俺も。
俺は満ちていて、お前は足りない。
それなら与えるよ。補われるまで。満ちていくまで。
そうしていくことで、アメリア、お前が傍にいるのなら。
「それでもいいよ」
イルミは、繰り返しそう言った。
まるで優しく言い聞かせるかのように聞こえた。全部与えるから、それでいいだろう、と。
空っぽのジンジャーエール。満たされないグラス。誰かが飲み干したから、私は飲めない。私の分はない。分けてくれる人はいない。ましてや、与えてくれる人も。
ずっとそうやって一人で生きてきた。暗い道を這いずって。
これからもそういう人生なのだと、覚悟もあった。大丈夫。きっと大丈夫。一人には慣れてる。何も変わらない。何も持たない。それが続いていくだけ。このまま淡々と孤独を続けて、いつしか誰にも看取られず、ひっそりと死んでいく。独りで。そう思っていた。
どうしてだろうか。嬉しくて跳び上がって喜ぶべきであるのに。 私は今、足りなかったもの、欠けていたもののすべてを、手に入れたはずなのに。
ーーーどうしてか、イルミの求婚が、痛いほど苦しい。
いつか、手から零れる砂のように、滑り落ちて無くなってしまったら。
その苦痛を受けるくらいなら、出会わなければよかったと後悔する時が、怖くて。
盲目であるのが、楽だったの。
人が何千年もの間、海は青いものだと思い込んでいたように。
太陽が地球の周りを回っているのだと信じ込んでいたように。
すぐ傍にあるのに、気づかない振りをして生きることが。
けれど。
イルミが、初めて私にその銀色の恐怖を与えた。
「結婚しよう。アメリア」
彼が、再び私の指に、その指輪を嵌めた。
その冷たい感触が、重さが、薬指を締め上げる。
知りたくなかった。
こんな怖いくらいの、幸福、が、この世界にあることを。
愛が、こんなにも身近に、静かに、揺蕩っている事を。
客観的に、彼の場合、それは支配や独占といわれるものであるのかもしれない。
「言っておくけど、俺以外の申し出を受けるつもりなら殺すから」
けれど、私には。
そばにいてと、そう聞こえる。
そんなことはどうでもいいから、と。
その言葉は、とても冷たくて残酷なのに。
イルミの他には、もう何もいらないと感じるほどに暖かくて。
「ふ、うっ、ぐず、い、イルミぃ……」
「鼻水汚いんだけど」
「うう、他にそんな人いないよ、イルミだけだよぉ……」
「俺がモノ好きみたいな言い方やめてくれる?」
「でも、でも……」
「嬉しくて泣くくらいなら一生独りだなんて言わなければいいのに」
「だって、」
「もういいから黙りなよ」
「んん」
ほら、とイルミは私の目頭を擦って、涙を消し去った。彼なりに精一杯優しく触れようと努力している手。その細くて冷たい指のおかげで、ようやく私は泣き止んだ。もう目は腫れぼったくて、真っ赤で、ただでさえ美人でもないのにもっと酷い仕上がりになっているかもしれない。けれど彼は、それでも私の顔から目を離そうとはしなかった。
こんなにも醜い私を、こんなにも触れて証明する。
彼は、もう一度私の目頭を親指で擦った。そして眉を擦り、頬のてっぺんを撫でる。耳朶を擦り、耳の輪郭を確かめるように触れる。流れるような指の動きで、下唇を二度、行き来するかのように撫でた。
「……アメリア」
イルミが、私の名を呼ぶ。
その真っ黒い瞳が、少しずつこちらに近付く。蝋燭の光がその暗闇の中に差して、燻るように灯った。顔に添えられた手は、きっともう私を逃すことなど無いのだろう。とても強制的で、しかし暖かい。彼の吐息が頬に触れ、そして、しっとりと冷たい唇が私のそれに触れた。
契約だ。一生をかけて。
視界の端で、冷たい指輪が私に光ってみせた。私の頭に掛けられたままの白いタオルは、まるでウエディングベールのようだった。安い私には、それでも立派なもののように思えた。
そして、ジンジャーエールの氷がカラン、と鈴の音色のように割れて、時間が動き出した。
*
塵溜めの一角に少女がいました。痩せ細っていて、身なりは汚く、貧しいようです。彼女の前に、一人の少年が現れました。少年は身なりも綺麗で、知恵もあり、また豊かです。少年が銀の指輪を少女に差し出そうとすると、『美しくて、賢くて、お金持ちでなければならない』と彼女は言いました。
少年は、美しくない振りをしました。少女は許しました。
少年は、賢くない振りをしました。少女は許しました。
少年は、お金持ちでない振りをしました。少女は許しました。
そして、少年が最後に銀の指輪を差し出すと、少女は嬉しそうに受け取りました。こうして二人は、いつまでもいつまでも幸せに暮らしました。
「……何それ」
彼は終始つまらなさそうに話を聞いて、そう呟いた。黒い瞳が偏屈そうに私を見る。
「何それって言われても……素敵なお話でしょ、感動的だし」
「こんな無茶苦茶なお話ないでしょ」
「無茶苦茶って言われても、実体験なんですけど……」
「御伽話にしてはファンタジーに欠けるし、現実でこんな事案有り得ないし」
「事案て」
「非現実的だよ。条件の無い結婚だとか愛だとか」
「そ、そんなことないのに。……あ、イルミ。お帰りなさい」
「ただいま」
イルミが帰宅するや否や、彼は黒髪を靡かせ、逃げるように部屋を出て行った。イルミにそっくりな彼の後ろ姿を見送って、私は溜め息を吐いた。
「あーあ、逃げちゃった」
「……何で俺を避けるわけ。あいつ、本当にかわいくないよね。誰に似たんだか」
「イルミにそっくりだと思うけど……」
「何か言った」
「ううん何でもない」
同族嫌悪というものだろうか。そっくりだと言うといつもなぜかイルミから睨まれる。
「まだ少し早かったかなあ」
「ねえ。あいつのことはいいから俺の出迎えをしなよ、アメリア。ほら」
「……イルミがそんなだからあの子に避けられるんじゃない?」
「仕事から疲れて帰ってきた夫に小言を言うつもり?」
「子どもの目も気にせずくっついてくるのはどうかと思うけど」
「ああもう、うるさいな」
イルミは、私の腰を持ち上げて、そのまま壁に押しつけるようにキスをした。何千回、何万回としたそれだけど、私はどうにも慣れないし、これからもきっとそうだろうと思った。右、左と、角度を変えて、何度も繰り返される口付けにいよいよ苦しくなってきたところで、イルミはそのギリギリのタイミングで私を解放した。
「……ほら、そういうことするから」
「お前もしたかっただろ」
「時と場所を考えてください」
「つまり、夜ベッドの上なら何してもいいってことだよね」
「違う!」
「違うの?」
「ち、違わないけど……、そうじゃなくて!」
イルミはいつものように「ははは。冗談だよ、冗談」と嘘くさく笑った。そして私の左手を取り、薬指の指輪に軽く口付けをした。彼の薬指にも、同じものがある。
「それで。 何を聞かせてあげてたの? 奥さん」
私が笑って「婚姻契約の話だよ」と言うと、イルミは眉を顰めて「アメリアこそ、そういう惚気を聞かせるからあいつが俺を避けるんじゃないの」と難色を示した。
そう。何から聞かせてあげようか。
まるで遠い昔のようだけれど、確かにあった御伽話。
群青色。蒸せ返るような夏の日。あの雲の輪郭の、さらに向こう峰。
氷がカラン、と鈴の音色のように割れた。
ジンジャーエールは、グラスいっぱいに満たされていた。
*
おわり。
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