ジンジャーエールが満ちるまで
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塵溜めの一角に少女がいました。痩せ細っていて、身なりは汚く、貧しいようです。彼女の前に、一人の少年が現れました。少年は身なりも綺麗で、知恵もあり、また豊かです。少年が銀の指輪を少女に差し出そうとすると、『美しくて、賢くて、お金持ちでなければならない』と彼女は言いました。
少年は、美しくない振りをしました。少女は許しました。
少年は、賢くない振りをしました。少女は許しました。
少年は、お金持ちでない振りをしました。少女は許しました。
そして、少年が最後に銀の指輪を差し出すと、少女は嬉しそうに受け取りました。こうして二人は、いつまでもいつまでも幸せに暮らしました。
そして、ジンジャーエールの氷がカラン、と鈴の音色のように割れて、時間が止まった。
外は、真夏の盛り。コンクリートが蜃気楼のせいで歪み、その灼熱が店内のこちらにもじわじわと迫り来るようだった。けれど室内は快適にも空調整備されており、まるで外と中の世界は断絶された別次元のように感じられる。
「……あー、今日暑いね。たえらんない。こう見えて私、暑いの苦手で」
「へえ。アメリアは夏でも走り回ってるイメージあったけどね。意外だな」
「何そのわんぱく小僧みたいなイメージ」
私のツッコミは、白昼の喫茶店の中で虚しく響いた。
アーネンエルベ、ここは大好きな店だ。確か店名の由来はドイツ語だったような気がする。喧騒からは離れた路地裏に位置しており、しかし静かすぎない。マスターは黙々とグラスを磨き、時に注文した料理を作り、そしてうたた寝さえしている。客の会話を盗み聞いているような気配はない。絶妙なタイミングで客席に出向いては水を配り、そしてこれまた絶妙なタイミングで注文した料理を運んでくる。そんなマスターが作ってくれたジンジャーエールは、この夏空の陽射しのせいで渇ききっていた私の喉に癒しを与えるのだ。清涼な喉越し。ピリッとした炭酸に、少し香る生姜のフレーバーと甘み。透き通った氷が、からんとコップの中で割れた。味も香りも、何もかも完璧なジンジャーエール。美味しい薄黄色。
この店のマスターが作るジンジャーエールに最近ハマっている私。着席するや否や、私は開口一番にそれを注文した。イルミはいつものアイスティーにするのかと思っていたが、今日はそんな気分でも無かったようで、「じゃあ俺もそれで」と彼は私と同じ物を注文した。マスターは無言でうなづいて、カウンターへ戻った。マスターの手元を遠くから見る。氷をグラスの三分の一詰めて、新生姜とスパイス・そしてお砂糖を煮詰めたシロップを炭酸で割る。くるくるとかき混ぜて出来上がり。ジンジャーエールはすぐさま二つ分運ばれてきた。ご丁寧にミントの葉も彩りにある。この氷の量がとても好きだ。同じくともに運ばれてきたストローを差し、さっそく一口飲んだ。イルミはストローは差さなかった。
「ねえ。それ、ストローで飲むの?」
イルミは、ちゅうちゅうとジンジャーエールを飲む私にそう疑問を呈してきた。
「え、おかしい?」
「あまり見ないだろ」
「……まあ、確かに」
イルミの白い指が私のジンジャーエールを差した。彼はまだそれに口をつけてはいない。
イルミの指摘はつまり、炭酸飲料をストローで飲むのかということだろう。言われてみれば、コーラとかサイダーとかにストローを差したことは無いかもしれない。
「ちびちび飲みたいからかな」
「貧乏性っていうんだよ、それ。足りなければもう一杯頼めばいいだろ」
近況報告がてら茶でも一杯しばこうってことになって久し振りに会ったというのに、イルミの失礼千万な振る舞いは相変わらずのようだった。貧乏性って。お坊ちゃんから見たら今の私の様はそんな風に見えるかもしれないが、別にお金が無いからちびちび飲んでいるって訳じゃない。なんというか、カラカラの喉で飲む一杯と、そうじゃない状態で飲む一杯とでは、美味しさが違うじゃないか。運動して汗をかいて水を飲むと、ただの水なのにものすごく美味しく感じるあの現象だ。そう説明するとイルミは、「だからそれが貧乏性だよ」とさらに一蹴してきた。いやそれは貧乏性じゃないと思うんですけど……、もう論議するのも面倒だからいいか。ハイハイ貧乏性でいいですハイハイ。
「でもさ、ジンジャーエールはなんかストロー有りじゃない?シロップを炭酸で割ってるワケだから、下に残っちゃうでしょ。掻き混ぜたいじゃん」
「マドラーがあるだろ」
マドラーなんて家庭にあっても絶対使わない食器トップ3に殿堂入りするヤツだ。洗い物が増えるだけだし、だったら使い捨てのストローでいいでしょうが。イルミお坊ちゃんのことだから洗い物のことなんて考えたりした事さえないだろうけど。
「マドラーとストローだったらより多機能なストローがいいよ」
「ふーん。そう」
「あ、知ってる?ストローって英語だけど藁って意味なんだよ」
「知ってる」
「あ、さいですか」
会話はそこで途切れた。一区切りなので、私はまたストローでジンジャーエールを飲んだ。
イルミはそんな様子だったのでストロー無しで口を付けるのかと思ったのだが、何を思ったのか備え付けのストローに手を伸ばし、それを自分の分のジンジャーエールに差した。そして飲んだ。
「え。ストロー否定派じゃないの?」
「別にそういうつもりはないけど」
「あ、そう……」
やはりそれもそういう気分だったのだろうか。でも、彼が誰かに倣ってそういう振る舞いをするなんて、これまで見たこと無かったから少し驚いた。左手でグラスを持ち、右手でストローを摘む。時折ジンジャーエールをかき混ぜては、口をつける。やはり育ちが良いからか、その所作も上品だ。それを見て、少し私は得意げな気持ちになった。ほらね、ストローで炭酸も悪くないでしょう、と。彼の表情からは、その良し悪しなんて窺い知れないけど。
「でもま、貧乏ってのもあながち間違いじゃないんだけどねー」
「どういうこと?」
「景気絶不調ですよ。世間的にそうなのかなぁ。そっちは?イルミは最近調子どう?」
「俺は元気でやってるけど」
「……あ、うん。元気だよねいつも」
いや、元気なのは見てわかる。むしろイルミが元気じゃない場合ってあるんですか?
いやね、もちろんね、イルミが元気かどうかも大事なことなんだけれどね、話の流れ的に私が聞きたかったのは仕事とかプライベートとかなにか変わりはありましたかって事だ。小ボケか天然かわからないけど、きょとん顔のイルミ。
「いや、その。仕事のこととか、お家のこととか。何か変わりはあった?」
「ああ。最近だとヨークシンでの仕事が稼いだかな。依頼が重なってね」
「ヨークシン?あ、それクロロでしょ。そういえばそんなこと言ってたかも。景気良い話ですねぇ、二人とも稼いでるなぁ」
「え」
「え?……何?」
イルミは目をおっ広げて、珍しく驚いた表情でいたけれど、すぐに「……何って言うか」とポーカーフェイスを取り戻した。彼がリアクションを取るなんてなかなか珍しい事だけれど、何がそんなに気になったのだろうか。
カラン、とまたグラスの氷が音を鳴らす。じわじわと増す結露。それが滴り落ちて、机を濡らした。私は何となく気になって、お手拭きでそれを拭った。夏は、この結露が嫌だ。けれど夏を感じさせるのも、この結露だ。イルミは、そんな私の様子を伺っていた。まるで観察するかのように。涼しい顔をして、湿気の強い夏日のようなジトっとした視線。その意図がよくわからなくて、私は首を傾げた。
「クロロと仲良いわけ?」
「え、いや別にそんな事ないけど」
「まさか関係持ってる?」
「カンケイ?まあ、たまに会う関係、では、あるけど……」
「は?」
「えっ」
クロロとたまに会ったりしたら、イルミに都合が悪いのだろうか。仕事でたまに顔を合わせる程度だ。この間だって会ったのも約束を取り付けていた訳じゃなくて、たまたまだ。その時に世間話をした。そのことを説明すると、「あっそう」とイルミはそれだけ応えた。
暫しの沈黙。なんとなくイルミの苛立った雰囲気に、所在なくグラスの縁をなぞる。
視線を彼から外して周りを見回すも、店の中に際立った特徴の客はいなかった。仕方なく窓の外の世界を見遣ると、妙齢のご婦人が照り付ける日差しの中を足早に歩いていく。打ち水に湿ったコンクリートは蒸されていて今にも乾ききってしまいそうだ。風も無く、外に置かれた鉢植えの花や草木は、それでも頑張ってお日様を向いている。
でも、イルミはそれだけだった。それ以上に思う事をやめたのかわからないが、彼は「それならいいけど」と、私を許した。いや許すって何に怒ったのかもよくわからないけど、まあとにかく容赦してやろう、と気を変える雰囲気になった。ジンジャーエールの中で揺蕩う氷の音のように、男性にしては少し声高な彼の声が私の名を読んだ。
「アメリアは」
「ん」
「そっちはどうなの」
イルミは再び話題を私に向けた。そっちはどうなのとは、近況報告をしろと言いたいのだろう。私は「うーん」と少し唸って、真っ先に思いついたことを口にした。勿論、仕事のことだ。
「小さな仕事をちょいちょいやって食いつないでる感じ。いやー、この業界って経験長ければ長いほどお金貰えて食いブチあると思ってたんだけど、そうでもないのかな?」
「さあ。ウチはダイレクトに依頼が来るし、代々の家業だし」
「だよねえ。なんかちょっとずつ報奨金減っていってるんだよ。だからこっちも依頼受ける件数上げていくしかないじゃん?仕事ばっかり多くて小金稼ぎって感じ」
「忙しいの?」
「まあ、そうかも。そっちみたいに大した仕事は無いんだけどねー」
「それ、ピンハネだと思うけど」
「え?ピン……何それ?」
「アメリアが受け取るはずの報酬金を一部掠め取られてるって事。仲介業者から依頼受けてるんでしょ?」
「あ、うん、そうそう」
「そいつが元締めで依頼主から受け取る報酬をせしめてるんだろ」
ピンハネ。そうか、少し合点がいくかも。確かに最初はお金の羽振りがよかったから、いい仲介屋にあたったなと思ってた。でもほんの少しずつ報酬金は減っていって、まあ駆け出しだしそんなもんかなって思い込んでた。だからこっちも少しずつ依頼を増やして稼いでいくしかないなーって思ってたけど、まさか仲介屋の思う壺だったとは。ちょっとしたタダ働きじゃないか。
「ええー、そんなことあるなんて……」
「世間を知らないね、お前は」
まさか世間知らずのお坊ちゃんからそれを言われるとは思わなかった。
はあー、とため息を吐く。机に突っ伏して「悔しい。あの仲介屋、今に見てろ」と呟くと、「殺したいなら手を貸そうか?」とイルミがお手を挙げた。腹は立つが殺したいほどじゃないし、それはそれで高くつきそうなので丁重にお断り申し上げた。
「……まあ仕事はそんな感じですよ。多分ピンハネされて安い給料で働いてました、以上」
「そう」
「まあ、それはそれでお勉強になったってことで、仕方ないか。心身健康だし。命あっての物種っていうし」
「そうだね」
イルミは、くるくるとストローを指で弄ぶように回す。多分聞いているんだろうけど、返事が単調すぎるような気もした。気のせいだろうか。
「他は?」
「え?他?」
「そう。変わったこと」
「……特に何もないけど」
逆に何かありますか?とこっちが聞きたいくらいだ。
なんなんだ、何か楽しい話でも無いのかってことだろうか。申し訳ないけどイルミが腹を抱えて笑ってくれるような話題は特に無い。
「プライベートでも何もないしなぁ。一生独身の覚悟だからこそ、今一生懸命稼いでるってのもあるし」
「は?結婚する気無い訳?」
「え、まあ、うーん……どうかなぁ……」
絶対そうだとは言わないけれど、そこは少し濁して返事をした。何故かイルミは、少し臍を曲げたかのように眉をひそめた。まあ、ゾルディック家は子孫繁栄の歴史の上に成り立つお家柄だ。結婚しないとか子供作らないとか、そういう家の為にならない考えは無いのだろうと思う。まあ私はそんなお家もない訳だし。イルミからすればこの独身お気楽女め、って感じかもしれない。
「なんで」
「いい人がいたら一回くらい結婚っつーものもいいなと思うけど、現実はちょっとね」
「お前の言ういい人って何」
「いやー、そこはやっぱりね、行き着く理想としてね、やっぱり男性は三高ですよ」
「サンコー?」
「あ、知らない?高身長、高学歴、高収入のこと」
もちろん本気でそんなことを言っているつもりじゃないけど。好きな芸能人も思い浮かばないので、そうであったら最高だな、と思ってそのワードを持ち出した。最高じゃないか、三高。言うことなし。それに加えて性格も顔も良かったらなお良しだ。しかし三高とは程遠いこんな私に、そんな人が振り向くわけもないので、あくまで理想論だけど。そういう男性はそれに見合った女性とくっ付くと相場が決まっているもんだ。
イルミは「ふーん」と、頬杖をついて生返事をした。あー絶対今イルミ、そんな奴私に現れるわけねえだろって思ってるよ。絶対思ってるよ。なんか口元うっすら笑ってるもん。
「ま、理想だから。夢見るだけならタダでしょ。人生そんな甘くないってわかってるって」
「まあね。でも意外だよ」
「そうかな」
「うん」
妙に納得する様子であった彼だが、一転して考え込むように顎に手を添えて、「でも、そうか。それだと駄目だな」と呟いた。いや、ダメダメ言われなくても。わかってますよ、身の程は。だから一生独身の覚悟でいるんじゃないか。
じっとイルミを睨むと、彼は私の悪意に気づいていないのか、小首を傾げた。黒檀のような髪。真っ白な肌。睫毛の一本さえ、日に照っても黒く映る。少しとぼけたその顔が、不覚にもかわいいと思う。
「そういうイルミは?」
「俺はもうそろそろ頃合いかな」
「……え、あ、そうなの?本当に?」
「うん。親父も決めたならさっさと身を固めろって言うし」
「へえ。お父さん、そんなこと言うんだね」
「親父が俺の歳の頃にはとっくに結婚してたしね」
「あ、じゃあお父さんからすればイルミの歳でも遅いくらいなんだ?」
「そ。ま、時代が時代だけど」
「……そっかあ。イルミが結婚かぁ」
いやはや、彼とこんな話題をする日が来るなんて。まあ私も向こうもいい歳だもんね。お嫁さんはやはりそういう筋をあたるのだろうか。子どもできたら溺愛するタイプかもしれない。イルミの弟、名前なんだっけ。イルミ、ミルキ、……そうそう、キルアだ。前例のキルアのように、付き纏いをしたり管理したがったりするんだろう。うう、やだなあ。嫁も管理しまくりそう。
「……苦労するだろうなあ」
「何?」
「あ、いやいやなんでもない」
そんな話をぼちぼちしながら、時間はゆっくりと過ぎていった。
この喫茶店だけ、緩やかな時間が流れているのだろうか。あっという間に夕刻になり、かんかんの夕日が鮮烈にアンティークな店内を輝かせる。私もイルミも、ジンジャーエールをすべて飲み干した。次にまたここへ訪れる時、彼は嫁の話でもするのかもしれない。今度はアイスティーを頼むのかもしれない。そう思うと少し寂しいものがあったし、後ろ髪引かれる思いもあったが、私はここで彼とお別れをした。
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