インパーフェクト・ワールド
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私はガーデンへとまた足を向けた。
もう夕刻5時を過ぎてしまった。日もいよいよ陰る頃合いだ。こんな時間ではきっとかの探し人も帰ってしまったかもしれない。そしたらそしたで仕方ない、また明日探し歩くしかない。けれど最後に、彼が眠っていたこの桜の木陰の下に私は訪れた。
少しずつ夕闇に変わりゆく学園の風景。
こんなに遅くまで学園に居残ったことはまだ無いかもしれないな、と思いながら、ガーデンの芝を踏んだ。シロツメクサが一面に咲く。白く小さな花をあまり踏み荒らすことのないように歩いた。
「やっぱり……、誰もいないね」
辺りを見回すも、この夕闇に立つのは私一人だ。
桜の木にそう語りかけるもそれに返事する者など誰も居なかった。こんなに遅くまで探し回ってもダメか、とため息がまた出る。
「よいしょ、っと」
その桜の木は背が低かった。すこし背伸びをすれば、鼻に枝が触れてしまいそうなくらいには。幹に足をかけ、少し踏ん張ってみた。うん、これくらいなら登れそうだ。周りには誰もいないし、スカートが捲れても気にはならない。
「わ、意外と高い」
桜の幹の隙間に腰掛けて、地上を見下ろした。
3メートルほど地上の視点から持ち上がった世界は、思った以上に私の視界を拡げた。たった3メートル。180センチ。手を伸ばせば届く高さ。私の見る世界と変わった気がして、新鮮な気分を齎す。
夕焼けに焦げる木々たち。花々は夜に備えて少しずつ蕾に戻り、太陽から目を背ける。土の匂いの混ざった風は、薄らと止み始める。影が濃くなる。桜の木の感触はざらざらと肌に痛いが、不思議な暖かみがあった。5枚生え揃っていたはずの桜花は、その多くが2・3枚にまで減っていて、柄の赤みが顔を覗かせる。それと共に若芽が枝々より生え、深緑を色付かせようとしていた。
季節は春から夏に変わりゆく。
兄が死んだ時も、それは何も変わらなかった。
「……探し物はなんですか、見つけにくいものですか」
5年前の春。
当時10歳だった私は、死んだ兄をたくさん歩き回って探した。
「鞄の中も、机の中も、探したけれど見つからないのに……」
どこかで耳にしたことのある楽曲を口遊む。
その時の辛さは忘れはしないと思っていたが、こうしてあの時の春を思い返す風が耳を掠めても、風化した思い出は蘇ることは無い。私はここまでやってきた。そして今も、案外大丈夫でいる。無我夢中で、耳を閉じて、全部振り払って凪いで走ってきた。そして私はここにいる。
「はー。やっぱり、見つからないのかな……」
幹に顔を擦り付けて、目を閉じた。
徽章。死んだ兄の、潰えた輝き。あれがなくなったら、ここまで来たその足掛かりが、消えて無くなってしまいそうで。何故か怖くて。
「何が見つからないの?」
「え?」
さく、と芝を踏む音がすぐ近くで聞こえた。
突然そばで聞こえた男性の声に、私はびっくりして目を開けた。春風がその声の方から吹き荒ぶ。目の横を掠めた桜の花びらたちが、再び私の瞳を閉じさせた。その声は少し懐かしささえ感じられる。男性にしては少し声高な、無邪気な抑揚。
「俺は見つけたよ」
目をこすりながら、夕焼けから姿を現した彼を見た。
やはり彼はブレザーを身にまとっていなかったが、その代わりに、一回りほど小さな女子生徒のブレザーを腕に掛けて立っていた。恐らくそれは私のものだ。にこやかに笑顔を向け、彼はゆっくりとこちらへ歩いてくる。その度に彼の革靴が芝を踏み、私の心臓をより高鳴らせた。どうしてなのだろう。私はずっとその運命の足音を待っていたような、そんな気がした。
彼の髪は陽光に透けて、金色に輝いている。
「……ずっと探してたよ。君はここにいたんだね」
歯の浮くような台詞だが、真実なのだろう。彼はきっと私を探していたし、私も彼を探していた。心の奥底で気付かないままに、ずっと。
「あの、もしかして、……」
それ、と彼の持つブレザーを指さした。「君のだよね。声でわかったよ」と、彼は桜の木の根元のそばに立った。唐突にうら若い女子が木の上に登ってる姿を見られたことが恥ずかしく感じられて、私はわたわたと焦った。
「ま、待って。その、今降りるから」
「あ。ゆっくりでいいよ。危ないし」
ゆっくりでいいと言ってくれたが、そうもいかない。
木から降りようと、私は慌てて組んでいた足を崩し、幹の隙間に足をかけた。しかしその隙間に革靴が引っかかり、バランスが取れず、手は支えを掴めずに空中を引っかく。まずい、と思った次の瞬間には、そのまま体が重力に従って落ちる感覚が襲った。
地面に落ちる痛みに備えるためぎゅっと目を閉じて待ったが、それは訪れなかった。
「ほら。危ないって言ったでしょ?」
目を薄ら開けると、目の前に彼のネクタイが見えた。顔を上げると、まるで宝石のような彼の瞳と目が合う。透き通ったエメラルドのようだ。その色素の薄い瞳は、夕日に照らされてそしてまた不思議な色合いを醸している。どうやら木の上から落ちかけた私を抱きとめてくれたようだ。私の両腿と腰を抱えるように、彼のその見た目にはわからない筋肉質な腕が触れている。
時間が、止まったかのように感じられた。
彼も私の瞳をじっと見ていた。それはまるで詮索するかのような、瞳の奥の奥、その先の何かを思い出すかのような。そしてそれは私もそうだ。見覚えがある気がした。こんな瞳の色が記憶の一部分に引っ掛かってちらつく。確か、ずっと昔に……。
彼と抱き合うような姿勢に私は一瞬呆けたが、耳まで真っ赤に血が上るような感覚が回った。こんな顔の整った男子といつまでも顔を合わせていられない。心臓に悪い。「ごめん!その、立てるので、降ろしてください」とか細い声で言うと、「……あ。そう、だよね」と、彼はすんなりと降ろしてくれた。地面に足をつけて立つ。ようやく自分の体が着陸できた感覚に安堵して、一息ついた。
「ありがとう。おかげで怪我せずに済んだ」
「あはは、びっくりした。もしかして誰か来るんじゃないかってまたここに来てみたら、桜の木から君が落ちてくるんだから」
「ごめん、その、……重かったよね」
「ううんそんな事ないよ。お猿さんみたいな子だなって少し思ったけど」
え、猿ですか?
と突っ込む余地さえなく、「あ、そうそう」と彼はその手のブレザーを私の肩にふわりと掛けた。
「俺はシャルナーク=リュウセイ」
「私、ツカサ=ブライス……」
「俺が風邪をひかないようにこれを掛けてくれたんだよね?」
彼は確認をするかのように小首を傾げた。私はこくこくと声も出すことを忘れて頷く。
「会えてよかった。名前も顔もわからない君を探し出すのは苦労するかなって思ってたけど、ようやく見つけた」
「私もあなたにどうしてももう一度会いたかった。見つけなくちゃって、ずっと探してたの」
私は早速、彼が肩に掛けてくれたブレザーのポケットの中を探った。そこにある、冷たいチェーンの感触。取り出して確認すると、たしかにそこに、徽章のネックレスが夕日に照らされて輝いた。細やかな金細工。擦り切れた微細な傷も、全部全部、確かに私の無くしたものだ。
「よ、よかったぁー……」
思わず安堵してため息をつくと、彼ーーシャルナーク=リュウセイ君は少し瞳を光らせて言った。
「それも君の?」
「あ、うん、そう」
リュウセイ君は私の手の中にあるネックレスを指さした。厳密には私の物ではなく死んだ兄のものだが、今では私に帰属するのだからその質問に肯定をした。
「よかった、見つかって。一安心」
「ごめん、俺にブレザーを貸してくれたからだね」
「あ、別にリュウセイ君のせいなんかじゃないよ。ポケットに入れたままなの忘れてた私が悪いの」
「でも無くしたと思って気が気じゃなかっただろ」
「ううん、うっかりしてた私のせいだから。気にしないで」
ほっと一息ついた。もう二度と無くしたりしないように、その徽章のネックレスをすぐに首にかけて、服の中に仕舞った。捜し物もちゃんとこの手に戻ってきた事だし、「それじゃ、これで。またね、リュウセイ君」と手を振ってその場を後にしようと背を向けた。
「ーーー待って」
その声はすごく近く耳元で聞こえた。囁きだ。男性にしては少し高めの女性的なテノールの声。リュウセイ君があまりにも背中のすぐ後ろに接近していたので、体すべてを振り向くことは出来ず、顔だけ彼に向けた。リュウセイ君は、私の両肩をぐっと掴まえた。
「このまま行ってしまわないで」
「え……?」
……どうしてだろうか。
そのリュウセイ君の表情が、少しだけ泣きそうな顔をしていたように見えたのは。眉尻が下がり、何かを言いたくて堪らない、でもそれが何かをよくわかっていないようで、息苦しくて胸の詰まりそうな。そんな顔のように見えた。けれど、それは一瞬のことで、すぐに彼は爽やかな笑顔を取り戻した。私の見間違いだっただろうか?
「何かお礼したいんだ」
「……でも、悪いよ、そんなの。私も落ちたところ助けてもらったし、」
「お礼でもさせてくれなくちゃこっちの寝覚めが良くないから」
「そんな大した事してないよ?」
「そう?自分のものを知らない人に貸すなんて普通はしないさ」
「う、うん……」
それはリュウセイ君がイケメンだったからです、なんて口が裂けても言えない雰囲気だ。だからこそお礼を申し出てくれた彼に気が引ける。そんな私の思いは露知らず、シャルナーク君は「ちょっとした気持ちだから。ね?」となんとも爽やかな笑顔で私に笑顔を向けた。そんな邪気のない笑顔を向けられようものなら、うんと言わずにいられない。
「……そ、そこまで言うなら……」
「よかった、そうこなくちゃね。あ、お礼何がいい?」
「え、うーん。急に言われても思いつかないなあ……」
「そう?じゃあ何か好きな物奢るよ。それでどう?」
「あ、いいの?それ嬉しいかも」
好きな物を奢ってくれる人に悪い人なんていない。
やったぜ、とばかりに義理深いシャルナーク君に笑顔を向けると、彼は口を噤んで眉尻を下げた。そして続けて何故か咳払いをした。風邪でも引いたのだろうか。ほら、薄着で外で居眠りなんかしているからだ、言わんこっちゃない。
「大丈夫?風邪引いたんじゃ。外でさぼって寝てるからだよ」
「……あー、っと。うん、そうだね。風邪ひいたかな」
「今日の夜は暖かくして寝た方がいいよ、きっと。生姜茶とか飲んでね。あ、そういえばリュウセイ君ブレザーは無いの?」
「ちょっと事情があってね。昨日クリーニングに出したんだ」
クリーニングに出さなければならないほど汚れてしまったのだろうか。よっぽどの事でもあったのだろう。何があったのか知らないが,、とりあえず労いの姿勢を見せた。
「そういえば、えっと、リュウセイ君は学年は?」
「俺は一年。C組」
「あ、じゃあ私と同じ一年だね。私はA組。それならなおさらだめだよ、リュウセイ君。気を付けなくちゃ」
「気を付けるって、何が?」
「あんなに堂々とさぼってるなんて。先生もそうだけど生徒会にも見つかっちゃうよ。生徒会は処罰厳しいって噂聞くし」
「あー。……いや俺は、」
「特に副会長が怖いって聞いたよ。なんでも、天使の顔で性格は悪魔なんだって。私は副会長のこと見たことないけど、そうなのかなあ」
「………………ふーん。それ、誰が?」
「えっとたしか、スフィンクス先輩、だったかな」
「フィンクス=マグカブ?」
「あ、それ!その人!」
「フィンクスがそう言ってたんだ?了解、よーくわかったよ」
何がよーくわかったんだろうか。
けれどもリュウセイ君は何故か意味深に相槌を打った。何故か顔が引きつっているような気がしたが、きっと生徒会に居眠りが見つかっていたら恐ろしいことになっていたと想像でもしたからだろう。
「さて。それじゃあ、ブライスさん。立ち話もなんだし、どこかで話でもしない?何が食べたいとかある?」
「うーん。あ、それなら4階の自販機まで付き合ってくれる?」
「4階の自販機?」
「好きな飲み物がこの学園だとそこでしか売ってなくて」
「そうなんだ。じゃ、それ奢るよ。そしたら5階に景色のいい所あるんだ。そこでゆっくり話でもしよう?」
「いいの?うれしいなー」
おお、私今青春っぽいことしてるんじゃないだろうか。
同級生の金髪イケメンと放課後の余暇を過ごす、なんて素晴らしい。一生に一度の思い出になりそうな予感。いや期待してるんじゃないけど。私みたいな平民が王子様にこれほど構ってもらえることなんてもう今後無いだろう。ありがたい。
「その徽章について、少し聞きたいこともあるしね」
「え?」
「なんでもないよ」
シャルナークがそう呟いたのは、ツカサには聞こえなかった。
✱
私とリュウセイ君は、生徒の少なくなった校内をぽちぽちと歩きながら、4階の自販機まで談笑しつつ向かっていた。正直、ヒソカ以外の男子生徒とここまで仲良く話すことなんてそう無いため、少し緊張さえあったけれど、リュウセイ君の柔和な雰囲気と好青年然りの笑顔とが、私を妙に落ち着かせてくれた。
「へえー!リュウセイ君、寮に住んでるんだね」
「うん、そうなんだ。本当、男ばっかりでむさ苦しいとこだよ」
「楽しそうでいいなあ」
「そりゃまあ楽しいけどさ、地獄だよ?キッつい時もあるし」
「へえ、キッついって、例えばどんな時?」
「そうだなぁー、ダウトで負けた罰ゲームとかは本当に最悪だったかな。酔っ払ったウボォーギンってムサい奴に思いっ切り顔面キス食らってさ」
「あはは、なんだか男子ならではの罰ゲームだね。……ん?」
ちょっと待て。酔っ払った……?
そう聞こえたような気がしたが、学園には未成年しかいないはずだ。まさかね。お酒とかじゃないよね。気のせいだろうと私はスルーした。
「こ、コホン。……なんだかリュウセイ君、人当たりいいからいつもそういう罰ゲームの当たり役になってそうなイメージは確かにあるかも」
「人当たりが良いって褒められるのはいいけど、当たり役ってのは嬉しくないなあ」
「要領も良さそうだよね。なんだか火消し役に回ってるって感じ」
「あ、そうそう、火消し役といえばさ。この間もそうだよ。ノブナガって奴がいるんだけど、そいつが寝タバコしてちょっとしたボヤ騒ぎが起きてさ。消化ベルが鳴っちゃって寮中大騒ぎ。本当に揉み消すの大変だったよ」
「あはは、本当の火消し役だね。……んん?」
ちょっと待て。タバコ……?
そう聞こえたような気がしたが、やはり学園には未成年しかいないはずだ。まさかね。喫煙じゃないよね。空耳だろうと私スルーをした。
「そ、そういえばさ!ブレザーは今事情があってクリーニング中って言ってたけど、どうしたの?」
なんだか掘り下げたら聞いてはいけない話をもっと聞かされそうな気がして私は話題を変えた。藪から蛇、触らぬ神に祟りなしだ。
「あ、ブレザー?それ、つい昨日汚れちゃったんだ。もう甘ったるい臭いが取れなくってさ」
「へえ、それは災難だねぇ」
「まったくだよ。避けなかった俺も悪いかもしれないけど、まさかお昼間に外を歩いてて空から飲み物が落ちてくるなんて思いもよらないし」
「空から飲み物?誰かが捨てたってこと?」
「さてね、捨てたか落としたかは知らないけどさ。犯人の顔は見てないんだ。けど、絶対に見つけてやらなくちゃ気がすまないよ」
「確かに……それは許せないね」
一体どこの誰だろう、そんなことをしたのは。
リュウセイ君は眉を八の字に曲げて頬を膨らませていた。新品のブレザーが入学早々にそこまで汚れてしまうのは手酷い。私も憤慨するリュウセイ君に同調しつつ、階段を登り切って4階へとたどり着いた。
4階には、他の階と同様に複数台の自販機とイートスペースがある。しかし違うのはバリエーションで、そのラインナップは豊富かつマイナーだ。そしてそれを求めてここに来る生徒はそう多くないため売り上げはきっと雀の涙ほどだけど、根強いファンがいる。私もその中の一人とも言える。
「ここらの自販機、マニア向けの飲み物多すぎるとは思ってたけど、まさか君もここの常連さんだなんてね」
「うん、ここいつ来てもあんまり人いないかも。潰れちゃいそうで心配」
「それは大丈夫だと思うよ。会長が潰すなって我儘言ってるからね」
「え?会長?」
「あ、ううん何でもない。それで、ブライスさんが好きな飲み物ってどれなの?」
「うーんと。あ、これこれ!」
いくつかある自販機の内の隅っこの1台、そしてその更なる隅に鎮座したその飲み物を、私はピッと指差した。
「じゃーん。プリン牛乳でーす!」
私はジェスチャーできらきらを演出したが、リュウセイ君の反応は乏しかった。
「……………………へえ……プリン牛乳、ね………………」
リュウセイ君は、どこか意味深に、そうぽつりと呟いた。そして彼は腕組みをして突如威圧的な雰囲気を纏わせる。あれ、私、何か彼の気に触るようなことをしただろうか。先程とは一変して、笑顔の中にもダークサイド的な闇の陰りが表情に映った。まあ、甘いものが嫌いな人にはこういう飲み物はあまり好まないと思う。きっとリュウセイ君も甘いものは好きではないのだろうと私は考えた。
「……それが好きなの?」
「うん。甘くて美味しいよ」
「いつも飲んでる?」
「そうだね、一番好きだからよく飲んでるかも」
「ちなみにだけど、昨日も飲んだ?」
「すごい、よくわかったね!うん、昨日も飲んだ」
「もしかして誰かから貰った?」
「え、うん。……なんでわかるの?」
言ってもいないのに、私の昨日の行動を言い当てるリュウセイ君に薄ら寒さを覚えながら、私はどうしてわかるのだろう、と頭を捻らせた。
「君だったんだね」
「え?」
そして確信をしたかのようにリュウセイ君は笑った。けれど目が何となく笑っていない。君だったんだね、ってどういう意味ですか。
「……ずっと探してたよ。君はここにいたんだね」
「り、リュウセイ、君?」
「会えてよかった。名前も顔もわからない君を探し出すのは苦労するかなって思ってたけど、ようやく見つけた」
「それさっきも聞いたけど」
先程では歯の浮くような台詞だったが、ここではまるで、積年の仇敵を遂に追い詰めたかのような、そんなニュアンスに変わっていた。なんでた。この短時間に彼にどんな心境の変化があったと言うんだ。
「あ、あの……?」
「そういえば言ってなかったよね?俺のブレザーが何の飲み物で汚れたのか」
「あ、うん……き、聞いてない、かも……」
「教えてほしい?」
…………いいえ?
別に教えてなどほしくはなかったが、だがここはしっかり聞いておかなければならない雰囲気だったため、私は固唾を呑んで頷く。リュウセイ君は「じゃあ教えてあげるよ」と黒い笑顔を絶やさず、躙り寄るように、じわじわと獲物を追い詰めるように、一歩、また一歩と、何故か私との距離を詰めてきた。その怒気さえ感じられる物言わせぬ雰囲気に、私も少しずつ足を引いたが、背中に壁が当たり行き止まりとなった。そして顔の横に、リュウセイ君の手が通せんぼした。壁ドンと言うやつだ。まさか人生初の壁ドンがリュウセイ君だとは思わなかったが、この状況を鑑みるにこれはそういう生優しいものではないと私の本能が告げる。リュウセイ君の目は確実に笑っていなかった。瞳孔カッ開いてる。
「……それはね、プリン牛乳だよ」
それを聞いてしばらく思考を逡巡させた後、私はハッと青ざめた。
お昼間。空から落ちてきた飲み物。プリン牛乳。汚れたブレザー。甘ったるい臭い。クリーニング。そしてブレザーを着ずにいたリュウセイ君。点と点が線で結ばれたかのようにすべて合点がいった。そして私には心当たりが大いにある……。
「君が犯人だよね?ブライスさん」
そ、そうだった。確か、昨日屋上でジュリアとお昼を食べていた時だ。飲んでいたプリン牛乳をヒソカから貰ったものだとジュリアに明かしたら、彼女がそれを私から奪って屋上からぶん投げたのだ。まさかこんなところにその被害者がいるとは思わなかった。リュウセイ君の黒い笑顔はその怨恨から立ち上る邪気に違いないが、私はせめて、言い逃れをしようと震える口を開いた。
「ままま、待ってください。た、確かに私は昨日プリン牛乳を飲んだけど、リュウセイ君に被ったのはもしかしたら私以外の生徒が飲んだものの可能性があるんじゃでしょうか……」
「言い逃れは見苦しいよ?因みに、業者に問い合わせた情報では昨日のプリン牛乳の売り上げは1個だ。つまりその1個を購入した奴が犯人という事だよね。更に言うと俺が昨日カブったプリン牛乳はよく冷えてた。ということは昨日以前の売り上げのものではなく、購入したばかりのものを空から捨てたという考えが妥当だろう。そして君は昨日プリン牛乳を飲んだと、確実に言ったよね。……さて、俺が聞きたいのはそれからだ。君はそして、その飲みかけのプリン牛乳をどうしたのかな?」
矢継ぎ早に正確な推理を展開するリュウセイ君。そしてその名探偵ばりの推理は恐らく大正解だ。
私は昨日ヒソカにプリン牛乳を奢ってもらい、そしてそれを屋上でジュリアと昼食時に飲んでいた。ヒソカとは犬猿の仲にあるジュリアにそのことを明かすや否や、ジュリアはヤケクソに飲みかけのプリン牛乳を屋上からぶん投げた。そして、その飲みかけたプリン牛乳をカブったのがリュウセイ君ということだ。
「りゅりゅりゅりゅリュウセイ君。いえリュウセイ様。どうか聞いてください。それは、その……ある意味では私が犯人というか、でもそうじゃないとも言えるといいますか、犯人と思いきやさらに裏に真犯人がいるといいますか……」
だって、私の飲みかけたプリン牛乳を屋上からぶん投げたのはジュリアだ。しかし問答無用、とばかりにリュウセイ君はさらにその深緑の瞳を暗く光らせた。
「聞こえなかった?俺はそれをどうしたか聞いてるんだけど?」
「ひい!」
「プリン牛乳を昨日俺にぶっ掛けたのはツカサ=ブライス、……君だよね?」
もはやリュウセイ君は、YES以外の私の返答など求めてはいなかった。その素敵な緑玉の瞳は復讐に突き動かされ闇堕ちした人間のそれである。私はなんとか言い逃れをしようと目論んでいたが、その威圧に耐えかねて、私は遂に首を縦に動かしてしまった。
「…………も、申し訳ございませんでした…………」
厳密には私は真犯人じゃないのに。ジュリアなのに……。
笑顔であるのに陰りが差すほどブラックを醸し出すリュウセイ君は、私が地に頭を擦り付けんばかりに謝罪すると、溜息をつき、一転して邪気のない笑顔を取り戻した。
「まったく仕方ないなー。でも、あースッキリした」
「……え?」
「ま、犯人はわかったからここは良しとするよ」
「……あ、あの?リュウセイ様、わ、私めをお許し下さるので?」
「過ぎたことを言ってもしょうがないし、罪は消えないしね」
全てを許すかのような天使の笑顔に戻るリュウセイ様。私はその慈悲深い御心に感動し、ありがたやありがたやぁとカタカタ震えながら縋り着いた。
「え、ちょっと?」
「此度の失礼、如何程詫びを致しても足りません。その慈愛満ちる御言葉痛み入ります故、重ね重ね何卒御容赦を……」
「大げさだなー、ブライスさん。その喋り方面白いね、小汚い貧民みたい」
小汚い貧民?
そんなつもりは無いのだが、と訂正する前に、「ほら、もういいから」とリュウセイ君は跪く私の手を取り起立を促した。
「さっきは怒ってごめん、ブライスさん。仲直りじゃないけどさ、さっき言った5階の景色のいい場所に案内するよ。ダメかな?」
「あ、いや、そんなこと!むしろこちらこそ本当にごめんなさい。ちゃんとブレザーのクリーニング代払うから」
「ああ、いいよそんなのは。経費で落ちるから気にしないで」
経費?よく分からないが彼は先程の口振りから察するに、そういう組織に所属しているらしい。クリーニング代を遠慮してくれた紳士天使リュウセイ君に感謝しつつ、また重ねて謝罪をした。リュウセイ君は自販機に居直り、プリン牛乳を1つ購入。そして冷えたそれを「はい、お礼はお礼だからね」と私に手渡す。私は彼のその行動に驚いた。彼にとってトラウマともなり得るはずのこのプリン牛乳を約束通り買ってくれるなんて。私は一生この紙パックを捨てずに記念に取っておくことを心に決めた。
「ありがとう。本当に嬉しい、リュウセイ君」
「喜んでもらえて何よりです。それじゃ、行こうか」
「は、お供致す」
またもや彼のエスコートで、5階にあるという眺望のよろしい場所へと私達は歩き出した。
校舎の中は放課後であるため、人もまばらでがらんどうのようだった。人寂しささえあったが、まるで校舎の中は時間が止まったかのように感じられた。太陽は、足早にその顔を地球の裏に隠そうとしている。傾く夕焼けの日差しが、私たちを照らしては影を長く伸ばそうとするのだった。
どこからか聞こえる生徒達の足音。上履きが擦れる音が、押しては引いていく。部活動に励む声が校庭の方面から響き、いくつかの教室のそばを通ると幾人かの生徒達の話声が掠った。廊下の掲示板には、委員会活動報告書や、部活動員を募る張り紙、はたまた意味のなさそうなポスターまで様々ある。
ーーー私は、この光景をデジャヴのように感じた。ああ、でも、変わっていない。5年前にあの人に連れられてきた学園と、何一つ変わっていない。
「リュウセイ君?あの、どこまで行くの?」
「うん。もう少しだよ」
「もう少し、って……」
私の記憶に間違いが無ければ、この先は……。
「ここだよ」
「え、ここ、って……」
最上階、5階の、ある一室の前でリュウセイ君は立ち止まった。【生徒会室】と札の掲げられた部屋だ。
「ーーーようこそ。ブライスさん」
彼は恭しくその扉を開き、私に入るように促した。
部屋には大きな窓があり、そこから校庭、複数の校舎、ガーデン、学園門と、広く校内を一望できるようになっていた。窓が大人の背丈程あるため、夕焼けの陽射しがすべて入り込み眩しく感じる。遠くに見える木々、噴水、芝。生徒達の小さな姿。まるで窓枠が額縁。一枚の絵画のようだ。
あの日、兄と見た学園内のその変わらない眺めに、私は目の端に涙が浮かぶのを懸命に堪えた。部屋の中には、それぞれ役職の書かれた机と複数の席があった。生徒会長、副会長、会計、書記。この部屋に入るのは2回目だ。しかし、今はその生徒会長の席に座る者はいない。
「あ、あの、リュウセイ君。勝手に入っちゃっていいの?生徒会の人に怒られちゃうんじゃ……」
しばらく、この懐かしい部屋に感嘆を抑えきれずに惚けていたが、はっとしてリュウセイ君に振り返った。いくら学園生徒とはいえ、生徒会室に勝手に忍び込んでしまうのは駄目なんじゃないか、と。しかし彼の返答はその心配を裏切るものだった。
「大丈夫。俺、生徒会だから」
「…………え?」
「一年だけどね。次期生徒会に指定推薦されてて、副会長就任が決まってるんだ」
「ふ……副会長?」
「うん、そう」
リュウセイ君は、「黙っててごめんね」と小首を傾げて悪戯に微笑んだ。その微笑みはまるで悪意のない天使のそれであったが、その裏の意図を鑑みるに悪魔の妖しさを感じられずにはいられなかった。その時、フィンクス先輩の昼時の言葉を思い出した。天使みたいな顔をした悪魔。もしかして、それは、このリュウセイ君のこと……?
それならば、ここに連れられてきたのは策略?何故?
「ど、どういう……なんで、私をここに……」
彼が私にその身上を黙った上で、この生徒会室に連れてきた理由。その意図がわからずにいると、再び出入口の扉が開いた。
「あ、会長」
背後の突然の物音に驚きそちらへと振り返ると、そこに立っていたのは制服を来た黒髪の男性だった。リュウセイ君は、その人の事をそう呼んだ。
「何処行ってたの?言ってた子、連れてきたよ」
「ああ。済まない。次期選挙の件で少しな」
そしてリュウセイ君は、聞き間違えでなければその人に「会長」と声をかけたように聞こえた。私の推測が間違いでなければ。ここは生徒会室で、ここに出入りできる会長というのは、もしかして。
「シャル、お前にしては少し手間取ったんじゃないか?」
「ごめんごめん、ちょっと別件と重なっちゃってね。会長、次期選挙の件って?」
「選挙管理委員会が子煩くてな、呼び出しを食らった。推薦候補が多過ぎると」
「選挙管理委員会が口出ししてくるのは想定内だったけど、でもお呼びがかかるとは思ってなかったな。対策立てなくちゃね」
「ああ。……それで、彼女があれの持ち主か」
「うん。まだ理由は聞いてないけどそれは間違いないみたいだ」
「ほう」
次期選挙?推薦候補?選挙管理委員会?あれの持ち主?……私?
蚊帳の外のそんな会話に疑問を抱きながら二人の顔を見合わせるように眺める。リュウセイ君に「会長」と呼ばれた黒髪の男性は、静寂且つ闊歩とした足取りで、真っ直ぐにその席へと向かった。そこは生徒会長と役職の記された、中央の椅子。
私はその椅子に座るその人を見た事があった。確か、先日の入学式だ。
その淡々とした声色とは真逆の、悠然とした代表挨拶。正統性とカリスマを感じさせる物腰。艶やかな黒髪と、深く黒い瞳。隙のない整った顔。額の描かれた十字が、よりそれを際立たせる。
「紹介するよ。彼はクロロ=ルシルフル、ハンター学園生徒会執行部会長」
そして、その襟に光る金の徽章。今、学園の唯一象徴の存在。
現生徒会長としてのその証明が、そこにあった。
「急に呼び出して済まなかった。君の名前は?」
「あ、その、一年のツカサ=ブライスです……あの、ルシルフル会長。私、その、どうしてここに連れられてきたか、わからなくて。……学園規則に引っかかるようなことでもしたんでしょうか……」
「ああ、そういう事は無いよ。……が、少々君に聞きたいことがあってね」
「わ、私に、ですか?」
「ねえ、ブライスさん。君、あれ持ってたよね」
「リュウセイ君?持ってるって……何を?」
リュウセイ君は、やはりにこやかに私を諭したが、物言わせぬ空気を漂わせた。ここでは先程のような下手な嘘や言い訳はまかり通らない、そしてそれをしようものなら、私はこの先どうなるか想像に及ばなかった。何故なら、目の前に座るこの学園の絶対の存在が、それを赦しはしない。
「徽章について」
静かな室内に、その一言が響いた。それがリュウセイ君かルシルフル会長かどちらが発した言葉なのかは、私にはわからなかった。
「き、徽章、ですか……?」
私は思わず、胸の中に仕舞った徽章に手を触れた。その行為が彼らにどう捕えられたかわからないが、ルシルフル会長は観察するかのように目を細めた。リュウセイ君は、悪魔でもその完璧な笑顔を崩しはせず、私に言った。
「それだよ。生徒会長だけが身に付けることを許される、その無二の学園の徽章。現時点ではそれを持つ者はクロロだけだ」
ここから逃げることは出来ない。
生徒会室、その鳥籠。そしてこの「蜘蛛」の二人。
「……ツカサ=ブライス。新入生且つ学園にも全く詳しくない君が、どうしてそれを持っているのか、事情を聞かせてもらえる?」
物腰柔らかく問いかけるリュウセイ君。それに拒否権は無い。問いかけは強制だ。沈みゆく夕焼けが少しくらい憐れに私を照らしていた。
そしてここまでが序説。
すべてが動き始めたこの生徒会室。長い夢になるけれど、どうか聞いてください。ここからが私の、世界の始まりだったのです。
そしてイントロダクション
✱
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