インパーフェクト・ワールド
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朝日が眩しい。目覚めの朝が来た。
うーん、と背筋を伸ばし、一つあくび。凝りをほぐすように腰を回して、怠い体を無理やり起こす。頭が働かない。朝が弱い。朝に強い人間なんてこの世の中にいるのか、と心の中で言い訳をしながら、目覚ましのなるまでもう少し布団でぬくぬくしていようとまた横になった。
「…………………………んん……?」
今、何時だろう。
少し嫌な予感がした。心なしか、いつも起きる時間より朝日が眩しく感じる。一抹の不安を感じ、枕元のケータイを覗いた。何故かケータイにはメッセージの通知といくつかの着信履歴があったようだ。そこでもまたもや嫌な予感が倍増した。
「ち、遅刻だ……」
時刻は8時30分と少しを回った時間を示していた。始業のホームルームは8時45分、授業開始は9時。今からでは余裕で遅刻。
『さっさと起きろ』
ジュリアは私のお寝坊を見通していたようで、その一言だけがメッセージに残されている。この私が電話してやったのにどうして起きないのよこのスカポンタンが、と私を罵るジュリアの苛立ちがその一言に詰まっているような気がしたのは恐らく間違いではないと思う。
「なんで目覚まし切れてるのー!」
十中八九寝ぼけたツカサが目覚ましを切ったに間違いないのだが、きっとケータイのバグとかで切れたに違いないと機械のせいにして飛び起きた。急いで顔を洗い、制服に着替え、お茶だけ一杯口にした。そして鏡の前に立ち、忘れ物がないか思い返しながらスカートを整えた。
「あっ、と……いけないいけない」
兄の遺影の前に置いた徽章のネックレスを時間が無いのでとりあえずブレザーのポケットへと突っ込んだ。学校に着いたら付ければいい。よし、これで準備は大丈夫。ついでに昨日のようなことの無いようにハンカチとティッシュをしっかりカバンに押し込んだ。
「いってきます!」
返事は無いけれど、しっかり挨拶をして扉を閉めた。戸締りを確認し、マンションを出る。遅刻だけれど急がなければ単位が危うい。
1限目は、バショウ先生の古典の授業だ。
✱
「遅刻、遅刻〜!」
ありきたりな台詞を言いながら駆け足で学園に着くと、既に授業中である学内はとても静かだった。革靴が煉瓦を叩く私の足音だけがやたら静かに響いた。遅刻であっても授業に間に合えば最低限の単位は取得出来る。私の脳ミソでは成績もたかが知れてる。わずかな単位と、付け焼き刃の学力、それだけが頼りなのに。
ガーデンを通り抜けて校舎へと向かう。
豊かに敷き詰められた芝、いくつも植樹された木々の木陰、蕾の膨らむさまざまな花々。さんさんと降り注ぐ柔らかな午前の陽光。まるでガーデンは御伽噺にでも出てくるかのように緑豊かで華々しい。
授業が無ければお昼寝日和なのに、と思いながら薔薇の門を潜り抜けようとしたその時。
「っと、あれ?」
誰かが隅の木陰で横になっている。ここからでは遠いが、その風貌から見るに、学園生徒のようだ。
「もしかして……行き倒れ?」
学園内で生徒がそんな異常事態に陥るはずがないよね、と思いながらも、一応その者に声を掛けてみることにした。おそらくだがサボりだろう。しかし今は授業中だ。もし先生や生徒会に見つかろうものなら処罰されるかもしれない、警告だけでもしてやるのが親切というものだ。もしかしたら私みたいに寝過ごしてしまっているのかもしれないし。
「あのー……授業始まってますよ。先生や生徒会に見つかっちゃったら怒られちゃいますよ。もしもーし」
恐る恐る声を掛けたが勿論起きることは無かった。仕方ない、ともう少しそろり、そろり、と近寄る。
横になっているのは男子だった。しかも美形の男子だ。
風にそよぐ金の髪。しかし畝りのない直毛の髪質は短髪であるためにさらさらとその眉間を隠しては露わにする。伏せられた茶色の睫毛は綺麗に長く生え揃う。健康的な血色の良い白い肌。高い鼻に、薄い唇。けれどその綺麗な顔立ちの中に少し幼ささえ感じられるのは、目尻や輪郭に丸みを帯びた柔らかさがあるからだろう。少年らしくもあり、青年らしくもある。しかし体格は良く、私よりも身長が高そうだ。手足は長い。シャツのボタンの一つめは緩められていて、同様にネクタイも少しだけ緩く縛られていた。
まるで王子様のような綺麗な男子生徒だ。しかも割と深く眠っている。寝顔があまりにもかっこいいので起こすのが勿体ない。私のように様々な女生徒が彼の寝顔で眼福を味わえば良い。そう考え、起こさずにその場を立ち去ることとした。
しかし、その男子生徒はブレザーを着ていなかった。シャツとカーディガンだけだ。この4月も終盤に差し掛かり暖かくなっているとはいえ、外で風に当たればやはり少し寒い。私は鞄を置いて、自分のブレザーを脱ぎ、せめて風邪は引かんようにと彼に掛けてあげた。休み時間になったら返して貰えばいいだろう。彼の名前は知らないけれど、きっとこんなにも美形の男子ならば特徴だけですぐ見つかるはずだ。後でジュリアに聞こう、彼女は学園内にそれなりに詳しい。
私はそして単位のためにその場を立ち去った。
ツカサが立ち去ったその暫く後。その青年はぱちっと目を開き、起き上がった。既にツカサに気づき、起きていたようだ。その瞳は群青色であり、大きく瞬きをさせる。そして首を傾げた。
「変わった子だなぁ。俺が誰か知らないなんてね」
そして自分に掛けられたブレザーの制服を見遣った。
この学園内で俺を知らないなんて、今どき世間知らずで世話焼きな女生徒だ。きっと同じ一年生だろう。遅刻をしたようだからこの場で処罰でも与えようかと思ったが、彼女のその思わぬ親切にその気が削がれてしまった。
「さてと」と、彼は立ち上がった。
彼女の制服はその場に捨て置いて去ろうとさえしたが、それは止めておこうと、彼の中の何かがそれを制止した。なぜなら、彼女の声に、少し不思議な感覚を覚えたからだ。ずっと待っていた子がようやく現れたような、少し懐かしい声に囁かれて、俺の記憶が呼び覚まされるような。昔会ったことさえあるような……そんな感覚だ。
「あの子の名前、調べなくちゃ」
シャルナーク=リュウセイはそう呟いたが立ち上がり、彼女の制服を片手にその場を後にした。
生徒が罰則規定を犯した際に、処罰を与えられる権限を持つ者は教職員の他にもう一つ組織がある。それは学園自治を統べる生徒会だ。生徒会組織員は、その自治を保つべく、公正的判断の元、たとえ同じ生徒であろうと処分を下すことが可能だ。
彼の名前はシャルナーク=リュウセイ。
若干一年生でありながらその手腕を買われ、入学早々に生徒会副会長に指名・そして就任した、生徒会組織員の一人。よって、彼のことを知らぬ者は、この学園に少ない。
✱
授業はすでに半ばを過ぎた時間であった。
私はせめて目立ちたくないという気持ちと、あわよくばバショウ先生に見つからず授業にすんなり参加することで遅刻そのものを無かったことに出来ないかという気持ちとで、こっそり教室に侵入することにした。教室の後ろの扉をそろりと開き、授業を伺った。
「あー、次は有名な短歌だ。小野小町は、平安時代前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。まあカンタンに言えばやたらめったら歌を詠むのに長けた文学女史の一人だったって事だ。古今和歌集にも載った、その内の有名な句を紹介しよう」
古典のバショウ先生は、まさに黒板に板書をしておりこちらには背を向けていた。入り込むなら今しかない。私は身を屈めて四つん這いをした。物音を立てないように細心の注意を払いながら、赤ん坊のようにハイハイをして自分の席へと突進した。
「『思いつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせばさめざらましを』」
窓際の奥の席まではそう距離も遠くない。障害物もない。そろそろと先生に気付かれずに席まで到着したところで、隣の席のジュリアは私に気が付いたようだ。ジュリアは大変飽きれた顔で私を見ている。なんて情けない姿で登場したものだ、と思っているような顔だ。しかしそんなことはどうでもいいのだ。私は目立ちたくないし、単位が欲しい。少しの物音も無く、素知らぬ顔で着席した。
「この句は三句切れで、反実仮想も入り交じった恋の歌だ。『や~らむ』が係り結び。『や』には疑問と反語どちらとも意味があるが、ここでは疑問形で口訳するのが適当で美しいだろう。…………さて、遅刻したブライス。この短歌の現代語訳をしろ」
「うぇっ」
「俺に挨拶も無く無断で着席するなんてな。完璧に答えたなら遅刻は見逃してやってもいい。単位もやるぞ」
バショウ先生は突然私を指名した。全部バレていたようだ。
クラスの皆は私を笑う。ジュリアは言わんこっちゃない、とそっぽを向いて助けてくれはしないようだった。バショウ先生は短歌や俳句を特に重んじる、そのリーゼントヘアには似つかわしくない文学人だ。特に口訳には口うるさい。
「答えられなかったらわかるな?……『貴様には 情けも無ければ 単位も無い』」
バショウ先生の能力はグレートハイカー。その俳句の通りに制約を敷かれる。私が答えられなかったら、つまり途中参加分の単位さえ与えてはくれないという事だ。単位が掛かった焦りと、恥ずかしいやら何やらで、私は顔を真っ赤にしながらしどろもどろに答えた。
「えっと、その……『あの人を想いながら眠りについたから、夢に現れたのでしょうか。もし夢とわかっていたなら、夢から覚めなかったでしょうに』……、です……」
「……ほう」
バショウ先生は髭を擦りながら、うんうん頷き、「良い口訳だ」と私を褒めた。どうやらお眼鏡に叶ったようだ。
「遅刻は見逃すぜ。単位もな。今回だけだ、今後は無いからな、ブライス」
「は、はい。すみません」
バショウ先生は何事も無かったかのように授業へと戻った。
ジュリアは、成績の悪い私が短歌の現代語訳を完全解答したことに信じられないような表情を浮かべていた。なんであんたみたいなおバカさんが、とでも言いたげだ。
それこそ答えは簡単だ。私は少し離れた席に座るヒソカを見遣った。アイコンタクトを送ると、ヒソカはやはり、にこにことしながら此方に手を振った。彼が念文字で答えをこっそり教えてくれたから助かった。私はまたもや彼に感謝することとなった。
✱
休み時間。経緯を説明すると、ジュリアの美しい切れ長の目は思い切り釣り上がった。ヒソカが大嫌いな彼女のことだ、きっとそれが気に入らないに違いない。そしてそれは正解のようだった。
「何よそれ、何ヒソカと癒着関係になってるのよ?」
「癒着って……」
「癒着は癒着でしょう。あのピエロがあんたを心から想って答えをわざわざ御丁寧に教える訳が無いって何でわからないのかしら。それなら単位を失くした方がマシよ」
「そ、そうかなあ。ヒソカ、そんな悪い人じゃないと思うけど……」
「見かけ騙しの親切に何ほだされてんのよ、このお馬鹿」
ジュリアは私の額を思い切りデコピンした。やたら痛い。か弱そうな女性にしては思いもよらないその強い指圧に私はおでこを思わず抑える。
「全く仕方の無い子ね、ツカサ=ブライス。というかあんた、ブレザーはどうしたのよ。まさか家に忘れたなんて言わないでしょうね」
「あ、ブレザー!そうだった。ねえジュリア、金髪の男子で思い当たるような人知らない?」
「はあ?何でよ」
「ここに来る途中、ガーデンで居眠りしてる人が居たんだ。風邪引いたら可哀想だったから、」
「もしかしてそれでそいつにブレザーを毛布代わりに掛けてあげたって訳?……あんたお人好しね、それでツカサが風邪引いたら元も子も無いでしょうが」
ジュリアは先日のティッシュの件で、私が少し風邪気味だということを気にかけてくれていたようだ。私が思わずそのことにニマニマすると、照れ隠しか、ジュリアはまたもや私にデコピンをかました。
「痛い!なんでぇ……」
「うるさいわね」
「私何も言ってないのに……」
「顔がうるさかったわ」
顔がうるさいってどういうことですか。
ジュリアはうーん、と顎に手をやり、金髪の男の子で該当するような人物を詮索し始めた。
「そうね……ああ、クラピカかしら?隣の中等部三年生。でも彼は居眠りして授業サボるようなタイプじゃないけれど」
「クラピカくん……髪は短め?」
「いいえ、少し長いくらいかしらね」
「じゃあ違うなあ」
「後は、二年生のヤンキーのフィンクス=マグカブも金髪っちゃそれに近い毛色かしらね。でも奴はオールバックよ。顔怖いし」
「じゃあそれも違うかも」
「あとは金髪っていうと、……他に誰かいたかしらね」
思い付かないわ、とジュリアは考える素振りをやめた。諦めが早いのが彼女の短所だ。もう少し考えてくれたっていいじゃないか、友よ。私のブレザーがその人に奪われたままなのだぞ。
私はだらーんと机に突っ伏した。
「……あら。あんた、そういえばあれも忘れた訳?」
何をだ、と問いかける前にジュリアは私の顎をくいっと持ち上げた。顎クイだ。まさか人生初の顎クイを女の子にされるなんて思わなかった。けれども別にジュリアはそんな私の気など考えずに、なぜかその暖かい指で私の首周りをまさぐった。
「ぎゃ!な、なに、ジュリア?まさか突然そっちに目覚めたとか……?で、でも私、一応性対象としては男の子だから、その、ジュリアの気持ちは受け止めきれないっていうか……」
ジュリアはそんな私の反応をなんとも微妙な顔をして伺っていたが、「……馬鹿ね。違うわよ」と否定をした。
「ネックレス」
「え?」
「お兄様のネックレスよ、今日は忘れた訳?」
「え……!」
私もまた自分の首元を間探ったが、確かにネックレスは無かった。そんな、あれだけは忘れたことなんてないのに。確かに今日も持ってきた筈だ。忘れ物がないか確認したし。
「あ」
「……何よ?」
ジュリアは怪訝な表情をした。私は青ざめた顔をしていただろう。
「ぶ、ブレザー……」
「はあ?」
「ブレザーの中に、ポケットに、入ってるかも……」
「……あんた、馬鹿ァ?」
どこかで聞いた事のあるような台詞でジュリアは私にそう言ったが、確かに馬鹿だと自分でも思った。まさか大事なネックレスをポケットに入れたことを忘れて、名も知らぬ他人に親切にも貸し渡してしまうなんて。自分でもほとほと愚かだと後悔の念が募る。こんなことなら親切などしなければ良かった、とふつふつと思った。
「あれだけ大事そうにしてた癖に」
「うう……」
「自業自得ね」
「ご、ごめん……」
「恩が仇となった良い例だわ」
「……ジュリア……」
そんな突き放すような事言わずに助けてくれ、と目だけでジュリアに訴えた。ブレザーが無くなっただけならば別にいい。けれど徽章のネックレスだけはそうはいかない。兄の形見で、そして私の希望だ。無くしたならばショックは大きい。
「……はあ。仕方の無い子、ツカサ」
ジュリアはそんな私の様子を見てさすがに不憫に感じられたのか、ため息を吐いて、私に何故かチョップをした。
「い、いたい……」
「いいわよ、一緒に探してあげるわ。けれど有償よ」
「えーっ」
「そんな大したことはあんたには求めたりしないわ。ちょっとした見返りを寄越しなさいと言っているの。ギブアンドテイク、例え友人であろうとそういうのは大事なことよ」
「そ、そっか……」
「どう?それでも良いなら誓約成立よ」
確かに。ジュリアが無償で手伝ってくれるなんて逆に後が怖いというものだ。むしろ有償の方がある意味安心出来るかもしれない。契約のようなものだからだ。私はこくん、と頷いた。ジュリアはそれを確認すると、「よろしい」と美しくその唇に弧を描いて微笑んだ。
「な、なに?ジュリアの言う見返りって……」
「……そうね。あんたの家に一日泊まる、それでどう?」
「え」
「何よ。嫌なの?」
意外な申し出に私は目を丸くさせた。ジュリアは、少しそっぽを向いた。彼女が私からわざと目を離す癖は、気恥ずかしさを感じている表れだ。
「……そんなことでいいなら、全然だけど」
「そう。じゃあ決まりね。期日は問わないわ」
「むしろジュリア、そんなことでいいの?まるで私にはご褒美だよ」
「何よ、ご褒美って」
「だって、初めての友だちがお泊まりに来てくれるなんて」
そんなのとても嬉しいことじゃないか。
ジュリアに笑顔を向けると、更に彼女はそっぽを向いた。白い頬が少し赤らんでいるような気がする。「ご褒美とか何言ってんのよ、気持ちが悪いわね」と毒を吐いたが、今の私にはそれはとてもくすぐったく感じられた。
「……まあでも、あんたに距離を詰めることができるかもしれないし」
「それはもう、もちろんだよ、ジュリアっ」
「……いい覚悟ね、ツカサ」
「お泊まりなんて楽しみだね!一緒にごはんつくろ?そんでいっぱいお喋りして、一緒にお風呂入って、一緒のベッドで寝るんだよねっ?」
「…………まあ。合意の上でね」
「え?合意?」
「うっさい。今はそれは気にしなくていい」
ジュリアのその合意という意味がわからず首を傾げたが、それについてはジュリアは深く説明する気はないようではぐらかした。
「忘れるんじゃないわよ、ツカサ」
「忘れないよ、ジュリア」
ゆびきりげんまんだ。小指を差し出すと、ジュリアも珍しくそれに乗じて小指を差し出してくれた。女性にしては骨張った白い手が、私のそれと絡まった。契約成立だ。
「それじゃ、あんたのために探すわよ」
そして、ジュリアとのブレザー捜索作戦が開始された。
✱
「『思いつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせばさめざらましを』……」
生徒会室にて。
シャルナークは、窓辺に腰掛け、小野小町のその短歌を呟いた。どうしてか、このブレザーを掛けてくれた彼女の声が、懐かしくてたまらない。頭は冴え切っているのに、その感覚が冴えきらない。
「どうした?シャル」
クロロは書類を整理していた手を止め、そんなシャルナークに声を掛けた。しかし、シャルナークは首を振って「別に」と答えた。シャルナークにもどうしてそんな感覚が湧き上がって止まらないのかよく分からなかったからだ。
「まるで片思いのようだな。何かあったのか?」
「そんなんじゃないよ」
「そうか。それはそうとして、シャル、お前ブレザーはどうした?」
「昨日どこかの誰かさんにプリン牛乳ぶっ掛けられたからね。クリーニング中だよ」
「否、違う。俺が聞きたいのはそっちのブレザーだ」
クロロは、シャルナークが手にしたブレザーを指し示した。それはどこから見てもシャルナークの物ではなく、女生徒のものだ。
シャルナークは、「ああ、これ」と応えた。
「ガーデンで寝っ転がってたら通り掛かりの女の子が掛けてくれてさ。返しそびれてるところだよ」
「ほう。お前のファンか?」
「いや、俺の事は知らないみたいだった。俺もその子の事は知らない。きっと一年生かなって思うけど」
「学園の生徒会副会長を知らないなんてな。浮世離れした奴だ」
「確かに。俺もそう思うよ」
けれど、だからこそ少し、その厚意がほんの少しだけ嬉しかった。そんなことはクロロにも誰にも口が裂けても言いたくないけれど。
「まあ、でも、……このブレザーくらい、礼を言って返さないとね。俺達は生徒会なんだし」
彼女にもう一度会えたなら、この懐郷病のような感覚も整理がつくだろうか。俺を知らずに親切にしてくれた、誰かも知らない他人に何かを貸し与えることができるなんて、せめて名くらいは知っておいてやってもいいかもしれない。
「そうか。好きにするといい」
クロロは興味のなさそうに書類に目を通しながらそれだけ言った。ただ、その口元には、少しの笑みが浮かんでいた。
「けど、顔見なかったからなぁ。一年生っぽかったけれど、本当にそうかわからないし。ブレザー着てない子をただ闇雲に探すのも、ちょっとね」
「そのブレザーに何か身元のわかるような物は入っていないのか?」
「名札とかは付いてなかったんだよね。他には何も入ってなさそーだけど……」
シャルナークは、その女生徒のブレザーの中に何か入っていないかポケットを探ると、ちゃり、と音が聞こえた。その指先に触れる、冷たい何か。チェーンか何かのようだ。「あ、何かあるっぽい」と、シャルナークはそれをポケットから出した。
「え?……クロロ、これって……」
それはネックレスだった。しかしそのペンダントトップには、この学園には二つとあるはずのない、生徒会長職だけが装着を許される金の徽章が輝いている。今、この学園でそれを持つことを許されているのは、クロロ=ルシルフル生徒会長、この者だけだ。
「……ほう」
現生徒会長クロロ=ルシルフルは、その輝くもうひとつの徽章に、興味深そうに視線を向けた。
「クロロ、まさかこれコピーかな?」
「否、そうではないな。本物だろう。その金細工はコピー出来るような代物ではない」
「特に何の特徴も無さそうな子だったけど。どうしてこれをあの子が……」
「さて、な。それはその持ち主を特定すればわかる事だ」
「どうやらそうみたいだね」
制服のお礼だけでは済まないようだ。どうしてこの徽章を君が持っているのか、聞かなければならない。名前も顔も知らぬ君。けれどきっと探し出す。その匂いと声を頼りに、蜘蛛はそうして張った巣に君を捕らえる。
クロロは、その胸に輝く徽章の元に指示を出した。自治を統べるこのハンター学園生徒会執行部現会長。それが彼だ。
「シャル、司令だ。その徽章の持ち主を探し出し、ここへ連れて来い」
「アイ・サー、クロロ会長」
シャルナークはピッとふざけ半分に敬礼をし、彼女のブレザーを手にして生徒会室を後にした。蜘蛛の手足たちへと伝達しようかと画策したが、彼女を知るのは俺だけだ。俺が捕まえてみせる。まずはこの徽章のネックレスが餌となるか、それとも素知らぬ顔で近付くか。シャルナークは、笑みを浮かべた。
「もう一度会えるなら、夢で会う必要は無さそうだ」
『あの人を想いながら眠りについたから、夢に現れたのでしょうか。もし夢とわかっていたなら、夢から覚めなかったでしょうに』。
4月半ばを過ぎたこの季節。少し肌寒い春風が窓から吹き込み、その金の髪を爽やかにそよいだ。春は別れと出会いの季節。俺は今から彼女に出会いに行く。
ーーーシャルくん。
ああ、そっか。なんとなく懐かしい感覚がある理由が、今わかった。あの子と別れた時も、こんな時期だった。今ではどこにいるのか、何をしているのか、生きているのか死んでいるのか、知らないけど。彼女にもう一度会いたいと感じるのは、夢の中のあの女の子に少し似ているからだ。
春風に吹かれて、シャルナークはふと、そう自覚をした。
03:夢では会いません
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