萌えるゴミ
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「ねえ、聞こえなかったの」
私はしばらく長い間呆けていたのだろう。彼のその呆れ返った声で漸く我に返った。しかし、私をしばし遠くの世界に追いやった原因は、そもそも彼のその理解に及ばないとある一言だという事実が、耳の奥深くで何度も何度も反響していたからだ。彼は、片眉を潜めて私を避難でもするかのような視線を向けていた。
「き……聞こえてた」
私は遂にそう答えたが、次に「けど、ごめん。もう一度言って」と確認を取ったのだった。イルミは何度も言わせるんじゃないとばかりに溜め息を吐き、腕組を今度は反対に取り成した。その仕草は、自分が優位に立っていると確信している時の彼の行動だ。急速に、心臓の音が速まる。私はそれが、恐くてたまらなかった。嘘だと、言ってほしかった。
「だからさ。他の男とセックスしておいでよ」
ほら、また言った。反芻されたその悪魔の宣告のような一言は、先程と同じ事だった。どういう事なのだ。その真意は。意図は。それともただの冗談なのか、やはり本気なのか。本気としたら、それはあまりにも。
唐突に喉が熱くなり、乾き切る。ぽっかり肺に空いた風穴のせいで、呼吸が追い付かなくなってしまったかのようだ。ひゅうひゅうと荒がる息の音が彼に聞こえてしまっているんじゃないかと、焦燥がまた私を追いやるのだった。
「どうして」
その一言を絞り出すだけで、私には精一杯だった。
「結婚するからだよ」
理解に苦しむ。余計にわからなかった。
私とイルミは所謂幼馴染みだ。旧知の仲で家同士の繋がりもあり、もうすぐ結婚する事が決まっている。事実上婚約している間柄なのだから、彼のその指示は不貞行為に相当する。しかしそうしろと彼は言う。簡素な彼の説明は、余計に私を混乱させた。
「意味がわからない?」
素直に首を縦に振った。彼はまたもや溜め息を吐いた。その吐息の深さが、恐ろしくて仕方が無かった。
「結婚したら出来なくなるからだろ」
「……それは、わかるけど」
結婚とは、貞操の美学。それが彼にはまったくと言っていいほど通用していないのが明白であった。私は、彼の為に、彼と一緒になる為に、これまで体を綺麗でいた。しかし、彼はどうだったのだろうか?今となっては、私の唇は既に、堅く締められた蝶々結びのようであった。
「イルミ、あのさ、私、……そういう経験がないの」
「知ってるよ」
「え?」
「処女ってことでしょ。けどそれがどうかした?」
「だから、その。そういうのは、大事なのかなって思ってたんだよ」
「大事?ふーん、そう」
イルミは、顎に手を添えていつものように考える素振りをする。わかってくれただろうか。大事の意味。大切にしたい。意味がある。そういうことだ。
最初を味わうのはあなたがいいと、私はずっとずっと夢見ていた。
「あ。じゃあ、ミルキはどう?あいつなら仮に妊娠してもゾルディック家の血筋だし問題無いよね」
ああ、そういうことだ、私、ただ夢見ていたんだ。
イルミは、きっと私が言った大事の意味を理解している。しかし、それは少しずれていた。それを間違いだと指摘するには、私の蝶々結びは、どう足掻いても解けてくれそうにない。
彼と結婚して、そして深く愛されて、ずっとずっとそれが続いて、沢山子を授かって、いつまでも幸せに暮らす。朝食には温かいトースト、味わい豊かなミネストローネ。たまに二人で陽光を浴び、詩的な本を嗜む。ガーデンを探索しては花々を愛でる私を、彼はつまらなさそうだけど付き合ってくれる。私は時々、彼が漏らす兄弟や仕事の愚痴を黙って聞いて、大変だね、と相槌を打つ。お互いに尊厳があり、信頼があって、そして想い合う。
そんな夢をみていた。
けれども、違うのね。何もかも違っていた。まずは、結婚の概念が。そして私を愛してもいないし、家の繁栄だけが目的で自分の子はさほど望んでもいないし、幸せが何なのか解釈も違う。
私はあなたの傍にいたつもりだった。幼馴染みのつもりだった。理解者だと思っていたし、だからこそ結婚するのだと勘違いしていた。
しかしきっとあなたは私を何とも感じていなかったのだ。その果ての結果が、こういう事だ。結局、何も理解していなかったのだけど、最後にそれだけは理解出来たのが、より押し寄せる絶望の波。
「わかった」
私は、どういう声をしていただろう。悲しみに満ちていたか、怒りを含んでいたか、それとも諦め切っていたか。そのすべてだ。それをイルミは感じ取ってくれたのかわからないけれど、彼は両眉を釣り上げて嘘くさく笑った。
そしてミルキは、戸惑いもなく私を受け入れる準備をしていた。
「ああ、聞いたよ。アンタも気の毒だな。オレは現実の女で楽しむ趣味はないけど、もうイル兄から入金されてるから仕方ない。受けてやるよ」
倫理感が屑だ。これから義理の姉となる私を、当の兄から依頼された、ただそれだけの理由で抱くという。ミルキもまた、イルミの弟であり、ゾルディック家の人間。ミルキとも幼馴染みのような関係であったのに、容易に男と女との関係を成立させた。虚構だったのだろうか。それとも、虚構を真実と思っていた私の愚かさか。どちらにせよ、私は望まざる男性に、愛する人の弟に、全部を亡くした。
イルミ。ちゃんとあなたに言ってなかったけれど、あなたを好きだった。今では、少し、自信が無い。
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