解れる


「亜美ちゃん、今度イギリス行くんだって?」

中間試験が間近に迫ったある日の放課後、受験生だった頃と同様にレイの家に集まり勉強会をしていた時だった。
うさぎが不意に切り出した話題に、ドキン、とまことの手が止まった。

「え…えぇ。行くのは試験が終わってからよ?再来週、1週間ちょっとだけど。」
「いーなぁ。学校休んで行けるんでしょ!?あたしも行きたーい」
「何言ってんのよ。亜美ちゃんのはちゃーんと先生からの推薦付きでお勉強のためのお休みなんだからね!」
「そーだけどさぁ!ねね、イギリスって何が美味しいの?やっぱパスタかなぁ」
「それはイタリアでしょ」
「ロンドンならあたしのおすすめのお店教えてあげる!」

試験勉強はそっちのけでお土産をねだるうさぎ。それをレイが嗜めたり、現地のおすすめを美奈子が話したり。
亜美の渡英の話で盛り上がるうさぎたちだったのだが

バン!!

突然、まことが乱暴にノートを閉じて机に置いた。
一瞬、空気が凍りつく。

「まこ…ちゃん?」

「ーーっごめん。何でもない。ちょっと…」

それだけ言うと、荷物もそのままにレイの部屋を飛び出した。



「まこちゃん…!まこちゃん待って!」
息を切らして追いついてきた亜美がまことの手を掴んだ途端、反射的に出た舌打ち。
びくん、と掴んだ手が緩み、気まずい空気が流れた。

「あの…ごめんなさい…私…」
おずおずと話しかける亜美に、精一杯の自制心で取り繕おうとしたけれど、出てくる言葉はそれを抑えきれない。
「なにが!?」
「私…やっぱり…やめーー」
「ーーなにも謝ることないでしょ!?」
亜美の言葉を遮るように強く重ねる。
しまったと後悔した時にはもう遅く、ただ呆然と、悲しそうな目を向ける彼女を見下ろした。

「…ごめん。なんでもない。
 なんかあたし、ちょっと変だ。」

(1人にして。これ以上、亜美ちゃんのこと傷つけたくないんだ。)

ふいっと逸らした視線の奥で、何かが怯えるように揺らめくのを亜美は見逃さなかった。

-———

誰もいないマンションでひとり、何をする気も起きず、あてもなくテレビを見るまこと。バラエティー番組のふざけた笑い声がやけに薄っぺらく感じる。
「♪♪♪♪あなたもJALゥーでおっきなっわへ♪」
画面が切り替わり、陽気な音楽と共に国内旅行セールを伝えるCMに、ドキンと慌ててチャンネルを変えた。

10年近く前に起きた国内最悪の航空事故。まことの両親は、その飛行機にいた。まだ幼い彼女を祖父母に預けて、友人の結婚式へ出席した帰り。

大好きなパパとママは「明日帰るよ」という電話越しの声を聞いたのが最後だった。翌日、祖父母に連れられて駆けつけた空港は混沌としていて、苛立つ人々の怒声と淡々と聞こえるアナウンスだけがやけに煩かった。外に出ると、他の飛行機のエンジン音が身体の底から揺らすようで。幼いながら状況を理解するにつれ、上空を往来する轟音がどんどん彼女に恐怖心を与えていった。

ーーそして、独りになった…。



————

「こんばんは。水野です。衛さんから連絡先を教えていただきました。相談したい事があるのですが、近々どこかでお時間をいただけないでしょうか?」

うさぎと衛経由で連絡先を聞き出したその行動は、普段の亜美なら考えられないような大胆な行動。でも、それが彼女にできる精一杯の事だった。

待ち合わせの場所に現れた大柄な彼は、最近まことの家によく来るネフライト。苦手…というわけでもないが、特に共通の話題も無いし、あまり話したことが無い。まことの家で3人で会った時も、ほとんどまことを間に挟んでいたし。近寄られるとなんだか圧倒されそうになるのをキュッと堪えて丁寧に挨拶をした。

ひととおり話を終えると、彼は亜美の緊張を察してか、ポンと肩を抱き
「ありがと。頼ってくれて」と微笑んだ。

大きな腕から伝わる包容力。ああ、やはりこの人は知恵と安らぎの人なんだと感じさせる。こまかな事は心配しなくとも、きっと彼なら大丈夫。そんな深い安心感に、少し身が軽くなった。


——

亜美に呼び出されたのはネフライトにとっても意外な事だったけれど、話を聞くとすぐにその理由を理解した。そして自分を頼ってきたことも。
(…ああ、あの子なら意外でもないか。)

それはまだ月の王国が栄えていた頃。初めて会ったとき彼女はまだ10歳にも満たない少女だった。同じくまだ幼さの残る年頃だったネフライトは、本当に偶然、ちょっとしたハプニングで地球のゲートの向こう側に行ってしまったことがあった。突然地球からやってきた少年に驚く人々のなかでただ1人、青い瞳の少女だけは思慮深げに少し考えた後、深々と頭を下げて挨拶をした。

この少年は敵意を持って侵入してきたのではない。
その証拠に彼の腰に納められた剣は真剣ではないし、他に武器らしき物も持っていない。でも、身につけている服装から何かしらの位に就く人なのだろうと、瞬時に判断して。

知恵があるとか賢いとか、神童と言われるような子供は幾らでも居る。だが、彼女はそれらとは明らかに違う。深い水の底のような瞳に吸い込むような洞察力を、幼いネフライトにも感じることができたから。

ーーだからこそ、ネフライトとしても彼女の意を汲み取り、真摯に向き合おうと考えを巡らせた。
大丈夫。安心して行ってこられるように。と。


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出発当日ーー

まことはひとり、ぼんやりとベッドから自分の部屋を眺めていた。

亜美ちゃんがお気に入りの水色のクッション。彼女がよく使っているマグカップ。いつも遊びにくるとテーブルのこの席があの子の定位置で…
…自分1人の家だと思ってたのに、いつのまにかこんなにあの子の面影が焼き付いてたなんて。

(…ああ、ダメだ。なんでだろ。泣きそう。)

ピンポン
玄関ベルが鳴る。

おぅ、いま何してた?などと言いながら遠慮なく部屋に入ってきたネフライトは、さも当然のように冷蔵庫からお茶を取り出した。
あんたこそ何しにきたの?と言いたかったのに、ため息しか出ない。

「まこと、今夜うちに泊まりに来い」
「うん…は?え?」

「いいから。ちょっと付き合え。」

そう言って強引に連れ出され、それからはもうあちらこちらへと遊びに連れ回された。ガーデニングショウに、植物園、高原へのドライブ、古民家カフェを巡ったり、海に行ったり…

学校もサボってこんなに遊び呆けたのはいつぶりか。
何かを思い出す暇もないくらい。一日中遊んで、2人でネフライトの部屋に帰って、毎朝寝坊して。

ーーそんな日が続いて1週間。

ネフライトのベッドで目を覚ましたまことは、今日で何日目だっけと振り返る。

もうだいぶ陽が高くなっていて、そよそよと揺れる洗濯物の影がレースのカーテン越しに見える。

(…そろそろ学校行かなきゃな。もうずっとサボってる。)
そんなことを考えながら、気怠げに身体を起こすと、起きた?とネフライトがベッドに腰を下ろした。

「あたし…そろそろ学校行かなきゃ…」
「ん。今日でお終いな。ドライブ行くぞ」
まだ目が覚めきらないまことの髪をくしゃりと撫でて、いつもの優しい笑顔を向ける。
(ホントにもう、こんな笑顔で強引に連れ回されたら嫌って言えないよ…)



連れ出された先は…
ーー空港…

そこに近づいていると気づいた頃から、じっとりと手に汗が滲んだ。

駐車場を降りると否が応でも耳に入るエンジン音、アナウンス…朧げに見覚えのある、独特の雰囲気…

(そうだ、この人にはまだあたしの苦手なこと、話していなかったんだ。)
ごめん、無理。もう帰ろう。
そう言いたいのにネフライトは何やら携帯をいじって上の空。

「お、こっちだ!」
顔色の悪い事なんか気にもせず、半ば強引に手を引かれてやってきたのは
"到着ゲート"

「ほら、あそこ」
まことの肩に手をやり、ぐいっと身体をゲートの方に向けさせる。
そうしてネフライトが指差す先に見えたのはーー

「ただいま」
と言って小さく手を振る大好きなあの子の姿だった。

「ーーあみ…ちゃん!!」

小さな悲鳴をあげたのも構わず、ぎゅっと抱きすくめた。
細い肩、頬に触れる青い髪、ほんのり赤くなってるほっぺた。
懐かしい亜美ちゃんの香り…
おかえり。
そう言いながら、涙が溢れた。

ぎゅうと抱きしめられながら、亜美はそっとネフライトに目礼した。
(ちゃんと帰ってくるところを見せてあげたかったの。
突然消えたりしないから。)


抱きしめた腕の中から伝わる暖かさが、まことの胸の中に響くエンジン音をかき消してくれた。


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