♡SS〜東京


体中が熱を帯びたように火照る。
大学から帰り、ゆったりとした肌触りの良い服に着替えると、どっと疲れが出たような気がしてソファーにもたれかかった。

かゆい。
ここ最近、ストレス性の蕁麻疹が増えたのは環境の変化だろうか。
今まで限られた友達と学校と塾の中で完結していた亜美の世界は、この春から急に大きく広がった。
ひととおりの講義に留まらず、知的好奇心の赴くまま研究室を訪ねれば誰もが惜しむ事なく最先端の知識や知見を与えてくれる。
亜美にとってそこは、泉のように湧き出る知識欲に応えてくれる未だかつてない場所だった。
加えて、何事もスポンジのように吸収しようとする彼女の元には、入学前から優秀だと知られていた事もあって1年生ながらゼミや勉強会の誘いが絶えない。
そして…それに比例するかのように
最近、ラブレターを受け取る機会が増えた。

それでも、未だ亜美は蕁麻疹の薬だけは常備していなかった。もしまたそうなった時のために…と、思うことはあったけれど、誰かからのそんな事が「また」起こるだろうと予想して常備できるほど自分に自信はないし、そんな事を考えてしまうこと自体恥ずかしくて買うのを躊躇ってしまうのだ。

-———

「ごめんなさい。今日は会えないわ。」
どうしたのと聞くと、歯切れ悪く体調が悪いとだけの返事。
その様子に、なんとなく理由を悟る。
他の理由で体調が悪いなら、彼女は比較的素直にそう伝える。発疹を見せたくないだけでなく、彼女が誰かに好意を持たれていると知るとゾイサイトが不機嫌になるのを察したのだろう。

「ちょっといい?薬買ってきたんだけど」
インターホン越しにそう言われると、彼女はどうしてわかったのと言いつつ渋々ゾイサイトを部屋に入れた。

「またもらったの?」
「ーごめんなさい…でも私、送り主の顔が思い浮かばないの。そんな私なんかにどうして。」
一体何に対して謝っているのか。
困惑した表情で口元に手をやる彼女は、本当に自覚が無いのだろう。
その自覚の無さもまた、周囲に隙を与えているというのに。
そういえば、先日も彼女の元に好意を示してきた奴がいた。その時はたまたまその現場にゾイサイトが現れたため、断り方に苦慮している彼女の肩を抱いて「悪いけど」と一瞥すると相手は気まずそうに挨拶して去っていったんだっけ。

ゾイサイトの知る限り、亜美は今まで手紙以外では思っているほど蕁麻疹を発症していない。
ラブレターを貰うと蕁麻疹が出る理由を、彼女自身は恥ずかしさとか申し訳なさではないかと考察していたけれど、むしろ直接言われた方が恥ずかしくないか?確信を持てるほどそのような場面を見た訳ではないけれど、これだけの頻度でラブレターを貰っているのなら、それ以外にも直接なりメールなりで好意を示された事はあるだろうに。

ゾイサイトの脳裏にも朧げに遠い昔の記憶が蘇る。
…きっと彼女も、思い出しているに違いない。

-———

その年、月と地球の関係はこれまでになく緊張していた。
地球国の一部に芽生えた月への疑念はあらゆる手を尽くして消そうとしても燻り続け、よもや王宮内でも月に対して良からぬ疑いを抱く者がある。
もうこれ以上エンディミオンとプリンセスの逢瀬を黙認する訳はいかなくなり、両国の四天王と四守護神は今まで以上に厳しく2人の接近を禁じる事となった。
もはや名ばかりの友好条約。
一部の外交筋を除き、月と地球との往来は殆ど無くなった。

焦がれる地球への往来を一切禁じられ、悲しみに暮れるプリンセスの姿は誰が見ても痛々しく、王宮の空気さえ暗くしてしまう。
講義のためプリンセスの部屋を訪れたマーキュリーは、少しやつれた主の横顔に胸を痛めた。
(…無理もないわよね…。このところプリンセスは食事もあまり召し上がらないのだから。)

「プリンセス、今日はいつもとは少し違うことを致しましょう。地球の文化に関するお勉強です」
そう言うと、マーキュリーは持参した文具の中から色とりどりの便箋を取り出した。
数日前、書庫で読んだ地球の大衆文化に関する文献。その中で、詩に想いをしたためる"恋文"という奥ゆかしくも色鮮やかなやりとりを知ったのだ。
「暫く会えないのはお辛い事ですが、その想いをこちらに記してみませんか?文章の表現力や感性を磨くお勉強にもなりますし、いずれまたエンディミオン様にお会いできた時、今以上に彩豊かな言葉で想いを伝えることができるようになるかと。」

まずはどのような気持ちを彼にお伝えしたいのか、その気持ちを四季の移ろいや目に浮かぶ情景に重ねて言葉を紡ぐ。その詩に合いそうな色や材質を考えつつ便箋を選び、想いをしたためる。
ーーそれは思いのほか心の晴れる体験で、珍しくプリンセスがお勉強に興味を持った講義にもなった。
あの人のこんな姿が好きなのと想いを馳せるプリンセス、参考書として持参した歌集を頬を赤らめて解説するマーキュリー…それはもはや勉学に勤しむ主と守護ではなく、ただ無邪気に恋の話に花を咲かせる2人の少女の姿だった。

「ねえマーキュリー!この書いたお手紙、エンディミオンに渡すことはできないかしら?」
書き上げた渾身の一筆を胸に、キラキラとした瞳でプリンセスがマーキュリーの手をとった。
「プリンセス…それは…」
冷え込んだ関係を改善するべく両国の会合は定期的に行われ、シルバー・ミレニアムの顧問団からはマーキュリーが、ゴールデン・キングダムからはエンディミオンの四天王であるゾイサイトが、それぞれ次世代を代表する若き外交担当として参加している。
その事を知るプリンセスの、無邪気だが切実なお願い。
困惑するマーキュリーだが、これほど晴れやかなプリンセスの表情を見るのも久しぶりのこと。元はと言えば自身が提案した恋文作りなのだから、せっかく書いたのに渡せないの?と再び悲しませるのも心苦しい。会うことは叶わなくても、少しだけ、文を交わすくらいなら…。ーー彼女の優しすぎる甘さと、若さ故のほんの少しの好奇心が、些細だが大きな後悔への呼び水となる事をこの時はまだ知る由もなかった。


地球との定例の会合の日。会議が終わり、各々が帰り支度をしたり簡単な雑談などを交わしているほんの少しの間に、マーキュリーはそれとなくゾイサイトの元へ近づいた。
「これを…エンディミオン様に。このことはどうか内密に。」
小さくそれだけ伝え、他の誰にも気づかれぬよう素早く彼の手元の書類に手紙を忍ばせる。
一瞬怪訝そうな顔をしたゾイサイトだが、すぐその意図を察し、確かに、とだけ応えてその場を去った。

文を受け取ったエンディミオンが大層喜び、より一層プリンセスへの想いを焦がしたことは言うまでもない。
…ただ、その惹かれ合う2人の想いは、マーキュリーとゾイサイトが予想する以上に強く激しかった…。

それから何回か、エンディミオンとプリンセスの密かな文通が続いた。
(自分がきっかけを生んでしまったことだけど…あまり度が過ぎると良くないわ。こんなやりとりを続ける必要が無くなるよう、早く両国の関係を改善させなければ。)
しかし現実はマーキュリーの願いとはむしろ逆で、最近は地球国側から関係を悪化させようとする意図すら感じる要求が浴びせらていれる。会合のたびにゴールデン・キングダムの使節団の態度も冷たくなってきているし、もうこれ以上、密かに文通を続ける事は危険かもしれない。

「マーキュリー…本日はお時間を賜りありがとうございました。」
会合の後、いつものように淡々と挨拶を交わしながらさりげなく白い封筒を渡したゾイサイトだが、その日はほんの少しだけ様子が違っていた。
「…また次回…お会いできる事を願っております。」
珍しく握手を求めてきた彼の手の中には、小さく包まれた薄緑色の紙ーー。
これは貴女に。そう加えた切長の目が、少し悲しげに微笑んでいた。


その数日後、ゴールデン・キングダムで大きな戦闘が起きた。
それからの出来事は足場が崩れ落ちるようにあっという間。
ーー最後にエンディミオンから渡された恋文には、禁じられたはずの逢瀬を約束する内容が書かれていた。

その日、文に記した約束の地でーー
重なり合うように命を落とした2人と、守護戦士たちの悲鳴。崩れていく宮殿…

戦闘の中、深傷を負ったマーキュリーは朦朧とする意識の中で、あの日受け取った文を思い出していた。
緑色のインクでそこに記されていたのは、叶うことのない彼からの想いーー。
もうこの世には居ないだろうその姿を追うように、静かに瞼を閉じた。


-———



「ーなにそれ。あなた本当に心当たりが無いの?よっぽど鈍いとしか思えないんだけど」

どうして…などと間の抜けた事を言う亜美を鼻で笑いながら、ゾイサイトはソファーの近くにあった本をパラパラとめくった。
「あ、これ借りようと思ってた本。ふふ、貸出中になってたけど、こんな近くに借りてた人がいた。」

他愛もない会話。そうやってごく自然に寄り添い、そばにいてほしいと思っていた亜美の願いに言葉無く応えてくれる。
気を遣っていると思わせない、本当に自然な気遣い。

ティーカップにお茶を淹れてきた亜美が隣に腰を下ろした。少しゆるめの襟元から見える鎖骨は発疹で赤く色づき、それさえも清艶さを引き立てている。

ーーあの時、2人が取り計らった事について、戦禍の中で当時の彼女はどれほど自分を責めた事だろう。
そのやり場のない自責の念が、無意識ではあるけれど今も彼女の心深くで古傷を抉り、瘢を浮かべるのなら…

「みせて」
ゾイサイトは本を閉じて亜美の手を取ると、痛々しい瘢にそっと手を当てた。
ーほんの少しだけ、赤みが引いた気がする。

「お薬より、こっちの方が効くみたい」
そう言って微笑む彼女に
「他もやる?」と言って襟元へ手を伸ばすと、小さな悲鳴をあげて一気に耳まで真っ赤になった。
「ばか」
「なんでよ。ふふ、可愛い」
もうどこが蕁麻疹だったのかわからないよと笑いながら、そっと彼女の唇を塞ぐ。

消せぬ後悔は、幸せな記憶で満たしてあげる。

例えその悲しい記憶は消えなくとも、貴女に問われる罪は無いのだから。

ーそれでもなお、贖罪を乞うなら共に。

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