♡SS〜シルバー・ミレニアム
「二国間の友好協定に基づく治水事業支援」
そんな名目で視察団に派遣されたマーキュリーは、いつもの戦士の姿ではなく同じ年頃の少女のような平服だった。
度重なる災害に困窮し、疲れた人々の心は荒み易い。
このところ地球の一部に月への不信感を募らせる風潮があることは月の王国でも知られているため、「万が一、月からの来訪が大ごとになると良からぬ事を計る者があるかもしれない」という予防的な理由で、民間人に紛れるようにと地球国側が用意したものだ。
だがそれは表向きの理由。
迎え入れたゾイサイトはその姿を見て憤りを隠しきれなかった。
ノースリーブのふんわりとしたワンピースに、華奢なパンプス。小脇に抱えた書物を除けば、それはまるで絵画から出てきたかのような可憐な乙女の姿。細い手足が初夏の陽射しを浴びて眩しいくらいに綺麗だ。けれど
あまりにも丸腰。
剣を添え、爪先まで堅牢な軍服に身を包んだ騎士と並ぶと、露出した肌が無防備さを際立てて、それだけで違和感を感じる。
有事に備えた護衛としてここに派遣されたが、これはもう、有事が起こり、それをきっかけに月からの抗議を引き出す事が目的ではないかという悪意を感じる。
ーいや、事実、ゾイサイトが派遣された時点でその意図は明らかだったのだ。
「"懸命に"護衛をしてくるように。」
たったそれだけを命じられた。
それは言葉とは裏腹に、月の者の身に何か起きても形だけの護衛をするようにという仄めかしである。
プリンセスの守護戦士である彼女には、本来戦闘力でいえば地球の人間をを凌駕するものがある。
しかし、外交理由での来訪である以上、彼女がその力を使う事は許されないだろう。
普段の戦闘服とは全く違う、こんな身動きの取りづらい格好では尚更に。
これは危険だ。本当に。
(だから貴女には来てほしくなかった。こちらの要望を聞いた時点で、マーキュリーだって気づいているはずなのに…)
そんなゾイサイトの苛立ちを知ってか知らずか、ゲートから降り立った彼女はいつものように美しく、礼儀正しく挨拶をした。
——
遠雷とともに急にひんやりと冷たい風が吹き始めた。
持参した傘にマーキュリーを入れながら、突然の雷雨を恨めしく睨んだ。
雨粒が地面を叩き、視界を悪くする。
嫌な予感。
「地球では、雨は『降る』ものなのですね。」
月での降雨は計画的なものだから。
そう言って微笑む彼女は濡れることを少しも厭わず、むしろ予定外の雨を楽しんでいるかのようだった。
なんて呑気な人だろう。それとも、敢えてそのように振る舞っているのか?
「お恥ずかしい事に、この星では未だ避けようのない現象ですから」
自国の暴走を祓いきれない不甲斐無さを天気に喩えたゾイサイトだが、マーキュリーはこっそりと掌に落ちた雨粒を結晶にして遊んで見せた。
「それも含めて、私たちのプリンセスはこの星に恋したのだと思います」
私のことは大丈夫、と伝えるかのように。
その直後
ドォッという地鳴りと共に不自然に堰が崩れ、濁流が駆け降りてきた。
追われるように逃げる役夫の男たち…だが、その逃げ方はどうにも不自然だった。
焦点の合わない目をした役夫たちの群れが、たちまちゾイサイト達の視察団を取り囲み、もみくちゃにした。
俊敏に身をかわし、なんとか集団の外へ出ようとした2人だったが、男たちは明らかに彼女を目がけて雪崩のように押し寄せてくる。
「ーー危な…!!」
ゾイサイトが叫ぶより早く、掴もうとした細い腕は奪われるように群の中に埋まっていった。
数秒後
堰を破った泥水とは違う清らかな水流が現れ、人々の塊を解きほぐした。
崩れた堰は氷で固められ、たちこめる冷気に役夫たちは我に帰ったように目の色を取り戻していく。
やがて、霧が晴れると凍った泥の上にひとり、肩で息をしながらぺたりと座り込むマーキュリーの姿が見えた。
——
これほどの大ごとでありながら、1人の怪我人も出なかったのは奇跡的だった。
駆けつけたゾイサイトに、力を使ってしまった事を詫び、「月よりも重力が大きいから、思うように動けませんでしたけど」と笑うマーキュリー。
不自由な条件下でこれだけの水を操ったのだから、相当なエネルギーを使ったのだろう。それだけ言うと、くたんとゾイサイトにもたれかかり、暫くの間、動くことができなかった。
不自然に堰が壊れ、濁流から逃れるという名目で何者かが人々を操り彼女を襲わせた…ように見えた。
いや、実際にそうだったのかもしれない。
言葉は交わさずとも、得体の知れぬその疑念に、2人ともぞくりと巨大な影を感じていた。
——
「ーー以後、十分に気をつけます」
ゴールデンキングダムに呼ばれたマーキュリーは、深々と頭を下げ、自ら責任を被ることで些細なトラブルとして片付けた。
自然現象により堤防が壊れ、事態を収集するために少しだけ力を使った。と。
それが2人にとって、そして両国の平和のために、考え得る最善の方法だったから。
——
やがて雨音はバラバラと硬い音に変わり、雨粒に混じって氷の粒が降り出した。
月へのゲートまで彼女を送り届ける道すがら、大粒の雹がバチバチと音を立てて地面に打ちつけている。
「不思議ですね。気流に乗って、こんな大きな粒を作ることができるなんて。」
マーキュリーが掌に落ちた氷の粒を転がしながら、天を仰いだ。
薄暗い雨雲に覆われた空は、彼女の帰る月を隠している。
細い肩に氷の粒が当たるのを見てはいられず、着ていた外套を被せた。
一瞬、驚いたような表情を見せたが、彼女はふんわりと微笑むと
「はやく、嵐が止むと良いですね」
と、少し悲しげにゾイサイトを見上げた。
雨粒を硬い氷に変えてしまう大気の乱れのように、手が届かないところでこの星は明らかにどこか乱れてきている。
これ以上、彼女たちを近づけてはならない。
何としても我々の中で止めなければ。
巨大な陰に戦慄を覚えながら、強くならねば…と、自分に言い聞かせるのであった。