Reunion
―――――
「ねえ?美奈P」
「…」
「――美奈、大丈夫?」
そっと肩を叩かれて、ハッと我に帰った。
久しぶりに顔を出したバレー部の練習、ネットの向こうから勢いよく飛んできたボールを顔面に受けた美奈子は、偶然通りかかったうさぎたちに見つかり保健室に連れて来られたところだった。
押さえていたティッシュをそっと外すと、すかさずまことがゴミ箱を差し出して、新しい紙を渡してくれる。うさぎが「まだ痛そうだよ…」と心配そうに覗きこんでくれるのが申し訳なくて、「はは…」と、空笑いした。
自分でも自覚はあるのだが、あれからどうしても、何においても身が入らない。
「何かあったんでしょう?なんだか最近ボーッとしているもの。」
と、昨日レイに言い当てられて否定したばかりだというのに、その翌日にコレだ。
「何もなかったよ」とは、なんとなく言えないけれど、仲間たちの気づかわしげな表情を見るとなんだか申し訳なくなる。
それでも、敢えて深く追及することなく側にいてくれる4人がいなかったら今ごろどんなに心乱れていただろうかと思うと、その優しさが胸に沁みた。
「ねえ亜美ちゃん、亜美ちゃんが言ってたあの『可能性』って、どれくらいあり得るもんなの?」
「可能性?」
「ほら、あの、コルドロンを出たあとあたし達以外にも違う人生をやり直してる人がいるかも知れないっていう話」
唐突な美奈子の問いに一寸目を瞬かせた亜美だが、そうね…と、何かを思案しつつノートを取り出した。
「計算はしていないけど…あの時もし50%と見積もっていたとしても、他の要因が加われば隔離は大幅に上下するわ。
例えて言うなら…もし広い海の底深くに未知の生物がいたとして、それをこの20〜30年の間に見つけられるか、みたいな感じかしら。技術的には可能かもしれないけれど、途中で海底火山の噴火みたいな他の問題が発生してしまったら、途端に難しくなるでしょう?逆に、何かの拍子でその生物が水深の浅いところに上がってきていた時にたまたま見つかる、なんて事もあるかもしれないわ。それと同じくらい、奇跡の起こる可能性なんて、なかなか測れないもの。」
「ふーん。奇跡…か。」
「美奈、どうしたの?」
「ううん、何でもない。」
気がつくと頬に当てていた濡れタオルはすっかりぬるくなって、腫れも引いてきたようだった。
「みんなありがと!そろそろ戻るね。」
「えー、もう?」
「帰らなくて大丈夫かい?」
「うん、元気でたから!」
心配そうな仲間たちの声があたたかくて、体の内側から元気をもらえたような気がした。
(そうね、奇跡の起こる確率なんて分からないわ。それに…)
気づかわしげな表情のうさぎにヒラヒラと手を振ると、「もう!美奈Pってばムリしないでよ!?」と笑い返してきた。その表情は、遥か昔の記憶と変わらない。この笑顔を守るためなら何でもできるなあと、あらためて愛おしさを噛み締める。
少し前にあの屋上で、「オトコなんてお呼びじゃないの」と言い放ったあの時の自分の気持ちに嘘はない。
なにより、あの時、連絡が途絶えた衛のことを胸にしまいながらたったひとりで闘っていたうさぎの孤独感を思えば、こんな事で動揺するような美奈子ではないのだ。
タンッと勢いよく椅子から立ち上がると、胸いっぱいに深呼吸した。開け放たれた保健室の窓からは、薬の匂いに混じって微かに金木犀の香りがした。
――――――
10月22日
テーブルの上にはまことが腕によりをかけて作った色とりどりの料理が並び、ジュースの乾杯を合図に賑やかなホームパーティーが始まった。
今日は美奈子の誕生日。毎年決まってお祝いしてくれる大好きなうさぎたちに囲まれて、美奈子の腕の中は次々と仲間たちからのプレゼントで埋められていった。
「あーみちゃん、これなあに?」
「あれ?問題集かと思った!」
水色の包みから出てきた亜美からの誕生日プレゼントが、珍しく参考書ではなかったことに思わずうさぎまで声を上げる。
紺色の艶消し仕様のカバーに星が散りばめられたような美しい装丁のそれは、見たことのない生き物の写真集だった。
「珍しいわね、亜美ちゃんが美奈にプレゼントするなら問題集かと思ったのに。試験近いし。」
「ふふ、そうね。でもプレゼントとは別に、美奈にはもう白チャートを渡したのよ。」
辛辣なレイの話し口に、亜美は無自覚だ。しかしそれを別の意味で無自覚に受け止めた美奈子は、勉強以外の物をプレゼントされた事を無邪気に喜んだ。
「この本に載ってる虹色の魚はね、このまえ美奈に話した深海生物のコトなの。」
「この前の?…ああ、あの『奇跡の確率』の話してたときの?」
そう、と頷きながら亜美がページをめくると、そこには絵本にでも出てきそうな美しいネオンカラーの魚が載っていた。
「この虹色の魚を見つけたのはある大学の研究者なんだけど、彼は昔からずっとこういう虹色の魚がいるはずだと信じていたんですって。
それでね、絶対無理だという人もいたけれど、どうしても見つけたくて、私財を投げうって何十年も探索を続けていたら、ある時偶然水深の浅いところに上がってきていたこの魚を見つけたの。」
「へー、なんだかドラマチックだね。」
亜美の話を横で聞いていたうさぎが呟いた。
「そうよね。叶わないと思っていても心ではどうしても追い求めてしまう、そんな衝動は誰にも止められないわ。だけど、その気持ちがこうして奇跡を起こすんだと思うの。」
「おーいみんな!ケーキできたよ!」
まことの合図をきっかけに、誕生日パーティーはさらに賑やいだ。
つけっぱなしのリビングのテレビからは午後のワイドショーが、これまた賑やかしい。
『ご覧ください!このイベントでは世界各国で新事業に挑戦する様々なスタートアップ企業がブースを構え、新商品が所狭しと展示されています。日本をはじめ多くの若手企業様たちが夢に向かって羽ばたこうとしています!少しお話を伺ってみましょう。こんにちはー!』
(――!!!)
ぼんやりと惰性で眺めていたテレビの画面に映ったその顔に、美奈子はハッとした。
(あの人…!彼だわ!間違いない。)
テレビ越しでも分かる、何故かどうしようもなく惹き寄せられるオーラ。髪型は少し違うけれど、堀の深い顔立ちと落ち着きのある声…そう、この前、ビルの中での戦闘で美奈子を助けてくれたあの騎士に間違いないのだ。
突然、ローソクに灯された火を吹き消す事も忘れてインタビューに釘付けになった美奈子に、うさぎたちも何事かとテレビの方を見た。
『――それで、ついにアメリカでこの事業を始められるんですね!』
『はい。まずは今週末から半年ほど、アメリカに拠点を置いて試験的に運用を始めるつもりです。』
「今週末…」
無意識に、美奈子の口から溢れた声にうさぎが反応した。
「美奈P?どうかしたの?」
「…うん、ちょっと…。なんでもない…」
テレビの画面はイベント会場からスタジオに切り替わり、次の話題に移ってしまった。
少し短くなったケーキのローソクに目を戻しながら、鼻の奥がツンとしたのは煙のせいなのか何なのか、美奈子にはよく分からなかった。
「美奈、あなたもう帰ったら?」
ケーキを切り分けている間、しんみりと黙り込んでいる美奈子に見かねたレイが切り出した。
「なんで?」
「なんでも。ほら早く、用事があるんでしょ?」
「あたしこのパーティーの主賓なんだけど?」
「いいから行ってらっしゃい。早くしないと、間に合わないかもよ?」
「レイちゃん…」
ふとまことの手元を見ると、綺麗に取り分けられた美奈子の分のケーキは既にお皿ではなく小さな箱へ移されようとしていた。
「さっきのイベントは有明って言ってたから、今から行くなら月島で乗り換えた方が早いわ」
亜美が手際よく電車の時刻を調べる間に、うさぎが玄関先に荷物をまとめ美奈子の肩をポンと叩いた。
「…みんな……うん、行ってみる!」
陽が傾きはじめた商店街を、地下鉄の駅までいっきに駆け抜ける。石畳を叩くローファーの音に混じって、美奈子の脳裏にはさっきの亜美の声が蘇った。
「叶わないと思っていても心ではどうしても追い求めてしまう、そんな衝動は誰にも止められないわ。」
(そうだ、あたし…やっぱり、もう一度でいいから彼に会ってみたいんだ!!)
――――――
「有明のイベント会場」といっても、この広いなか連絡先も知らない相手をどうやって見つけるつもりだったのか。
駅から降りた美奈子は、途方もなく広い展示会場の地図を前に立ち尽くしていた。
衝動的に飛び出したとはいえ、手がかりが無さすぎる。確かなのはテレビ越しにみた彼の姿と、1時間ほど前のテレビ中継の時にはこのあたりにいたであろうという事だけなのだ。
さっきの中継で見たイベントホールはまもなく終わりの時間らしく、多くのブースが撤収の支度をしている。今から入場する客は少ないようで、美奈子は人の波に逆らいながら会場内をひたすら探し歩いた。
けれど、思い返せばブースの名前もうろ覚えなのに何を目印に探せば良いのかも分からない。
「何やってんだろ、アタシ…」
不意に自分がとても場違いなところに紛れ込んでしまったような気がして、いたたまれずホールを後にした。
秋の空は陽が落ちるのが早い。ホールの外が思いのほか暗くなっていた事に少し驚きながら、美奈子は展示会場の屋上に上がってみた。
あまり人のいない屋上は静かで、対岸に夕暮れの街が見えた。濃い紫とオレンジ色の空を背景に、公園の観覧車やその周辺のビルの灯りが美しい。
潮風に乗って上空の飛行機が飛んでいく音を聞きながら、不意に泣きたくなった。
「アメリカ…か。」
衛の留学を見送ったうさぎの事を思えば、付き合っていないどころか知り合いでもない彼の旅立ちなんて、ちっとも寂しくないはずなのに…
「…会いたいよ…もう一度でいいから…」
フェンスにもたれ掛かると、美奈子の鼻をすする音だけが夜空に溶けた。
――――――
どれくらい、こうしていたのだろう。
ぼんやりと屋上から眺めていた街並みは、すっかり夜の景色に変わっていた。
「帰ろっかな。」
ハァとため息を吐きながら来た道を戻ろうとして、
もう一度あの会場をのぞいた。18時を過ぎた展示会場はもう片付けが始まっていたけれど、来場者の人混みがなくなったぶん、さっきよりも見通しが良くなっていた。そのおかげだろうか。奥の方で片付けを始めているブースがテレビで映ったそれだということに気がついた。
(あのブースだわ!どうしてさっきまで気づかなかったんだろう。)
近くに寄ろうと会場の中に足を踏み入れた途端、美奈子の前に屈強な警備員が立ちはだかった。
「こちらはもう閉会していますよ。」
「あっ…ええと、そうなんだけど、ちょっと…」
「ちょっと?」
「忘れ物を?しちゃったかなー、って思いまして。ハハ。」
「忘れ物でしたらインフォメーションセンターに」
「あ〜、ハイ、そうなんだけど、見当たらないかなぁって思って…」
しどろもどろになんとか通してもらえないかと粘る美奈子に、警備員は訝しげにな視線を向ける。もう、これ以上は無理かもしれないと諦めかけた時だった。
「失礼しました。ウチの関係者です。」
銀髪の男が二人の間に割り込んで、自分のネームプレートを見せた。
いちどは見失いかけていた奇跡の糸が、繋ぎ止められていく。
――――――
「…どうして、ここに?」
ぎこちなく並んで歩きながらようやく切り出された彼からの言葉に、美奈子はまだ応えることができていない。
間近で聞くその声は、記憶の中に残るクンツァイトと同じではないのに、どこか懐かしくて、切なくて…。胸いっぱいに広がる様々な感情が次から次へと押し寄せて、何も言えない…というのが正しいのかもしれない。
周りの雑踏で聞こえないはずなのに、2人の足音だけがやけに大きく耳に響いた。
「…正直、驚いている。でもこうなる気はしていたんだ。」
「え?」と顔を上げた美奈子と視線が重なって、彼は少し心許なげに目尻を下げた。
「この前、あのビルで貴女を見かけたとき…情け無いくらいに色々な思いが溢れて、どうしようもなかった。ただ、貴女がこの世界にいると知れただけでも――」
「!!あのね!」
彼の言葉を遮って、美奈子は勢いだけで口を開いた。何と伝えたら良いのかわからないけれど、とにかく繋ぎ止めたい。ようやく見つけた虹色の魚をつかまえるように、精いっぱい心の中に手を広げて、止められない思いを吐き出した。
「あたし、このまま会えなくなるのは寂しいから!…うまく伝えられないけど、とにかく今は、あなたのこともっと知りたいの!…もっと…もう一度…」
何故か泣きそうになるのを堪えながら途切れ途切れに話す美奈子の言葉を、クンツァイトは全て拾いながら頷く。
その優しくて澄んだ瞳は、あの頃と変わらないんだなと安堵した。
「まだ、時間はある?夜景でも見ながら、少し話そう。」
包み込むような落ち着いた声に導かれて、美奈子の頬にひと粒の雫がこぼれた。
あたたかな涙だった。
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