Recombination
昼下がりの羽田空港。
大きな荷物を預け終えて、ロビーを歩く足取りは恐ろしく重かった。
気がついたら、ここに戻っていた。
ギャラクシアにより人としての死を与えられたあの日、虚無の中でうさが呼び続けてくれている気がした。うさの力になれないことが辛くて、不甲斐なくて。
だから今度こそ、繋いだこの手は離すまいと心に誓った。…それなのに。
――どうして留学直前の空港からなのだろう?せめてあと1日前に戻れたら。再び離れてしまうその前に、あと一晩で良いからうさと過ごしたかったのに。
後ろからついてくるローファーの足音。聞き慣れた愛おしい音が僅かに遅れた事に気がついて、振り返ると精一杯平静を保とうとしている顔がみえた。
「――うさ」
たまらず駆け寄り、抱き寄せる。すんなりと胸の中に収まる華奢な体温が心地よい。目の前にいるうさは、あの日と変わらず甘えん坊で、泣き虫で、頼りなげで。
濡れた子犬のような目をして見上げるお団子を撫でながら、放っておけないという気持ちだけが強く燻った。
「うさ、(――帰ってきたら…)」
その続きを、言いかけて躊躇い飲み込んだ。あの日言えなかった言葉は、いま再び言い直すにはあまりにも重い。
ただひたすらに、抱きしめた温もりを手放す事が惜しかった。
「まもちゃん、もう行かなくていいの?」
「ん、あともう少しだけ」
「ねぇまもちゃん、ホントに乗り遅れちゃうよ」
「ああ、わかってる…」
「もう、まもちゃんってば!」
するりと腕から抜けたうさが、ゲートまで手を引いた。
そんなうさを再び引き寄せて、ぎゅーっと痛いくらいに抱きしめると、腕の中でうさがジタバタともがいて潤んだ瞳で頬を膨らませた。
「ホラぁ!いってらっしゃい!」
「…うさ…」
うさは、その先に起こった出来事をまるで知らないかのように、あの日のままだ。
ポカポカと背中を叩かれて渋々ゲートに足を向けると、名残惜しそうにしながらも柔く押し出そうとする彼女。
そんな健気な姿に再び後ろ髪を引かれるのだが、出発を急かすアナウンスが煩いくらい館内に響いている。
「もう!まもちゃんったらしっかりしてよね!?着いたら連絡してね!」
「ああ、すぐ連絡するよ。」
「――ねえ!ほんとにもう遅れちゃう!」
そう言いながら見えなくなるところまで力強く手を振ってくれるうさが、とても強く見えた。
搭乗予定の便のゲートが開き、チケットを示す。…今、「忘れ物をした」と言ったら戻る事ができるのだろうか?
飛行機の扉が閉まり、緊急時の対応についての説明が始まった。…このタイミングで誰かが具合を悪くしたら、離陸は取りやめになるだろうか?
エンジン音が加速し、空港の建物が次第に遠くなる。…うさも、あの建物のどこかからこちらを見ているのだろうか?
…轟々と胸に響く離陸音は、いよいよ彼女から遠ざかる現実を否が応でも感じさせられた。
――――――
晩秋のボストンは、日本よりもひと月ほど季節が進んでいるような冷え込みだった。
着いたその日は移動や手続きに慌ただしくあっという間に過ぎてしまったが、二日目の午後になってようやく荷解きに取りかかれた。
まだ何もない部屋で、ひとつ目の荷物を開ける――と、東京で荷造りをしながら過ごした日々の記憶がいっきに溢れ出した。
(ダメだな…)
湿ったため息が、雑然とした部屋にひとつ落ちる。
孤独には慣れていたはずなのに、今回ばかりはどうしてもそれがキツイ。うさのいない街は、全てが色褪せて見えるのだ。
国際電話なんて余程の用事がなければかける事などないと思っていたのに、気がつけば受話器をとっていた。
「ふにゃ…まもちゃ、おはよ……え!?まもちゃん!?」
寝ぼけた彼女の声はいつもの彼女だった。あまりに普段と変わらぬうさの様子に、思わず肩が下がる。
と同時に、オレが離れてしまってから後、うさは本当に大丈夫だったのだろうかと、あの戦いの事が気にかかった。
「うさ、大丈夫か?何も変わったことないか?」
「うん、寂しいよー。でもこんな早くにまもちゃんから電話もらえるなんて、嬉しい!」
「良かった。本当に変わりないんだな?――敵とか…」
「敵?なにもないよ?なんで?」
「そうか?――いや。なんでもない」
「そういえば進悟がね、『どうせピーピー泣いても3日も寝てればケロッと忘れるんだろ』なんて言うんだよ?ひどくない?」
電話口のうさの声を聞きながら、もしかしたら彼女はギャラクシアと戦った世界線のうさではないのではないかと気がついた。どうしても、話が噛み合わないのだ。
まるで何事も無かったかのように電話がつながった事を無邪気に喜ぶうさの声を心地よく受けとりながら、それならどうしてオレだけこんな戻り方をしたのかと胸がつかえる。
「よかった。うさが元気そうで。」
「まーもちゃんは?そっちは寒い?」
「ああ、うさが居ないと何もかも色褪せて見える。…うさ…寂しいよ、な。」
「そだね。でも、声が聞こえただけでもずいぶん近く感じられる。」
「……そう、だな。。」
「まもちゃん、寂しい?」
「ふふ、そんなんじゃないよ。…ただ、こうしてコッチに来てみると改めて、留学したいだなんてオレの我儘でうさを1人にしてしまって良かったのかと後悔してる。」
「後悔?」
「ああ…ごめんな、うさ。オレはいつも君に甘えてばかりだ。」
「……まもちゃん?もしかして、ホームシック?」
「…ちが…」
「大丈夫だよ?まもちゃんがもし留学のコトをわがままだと思ってるのだとしたら、それは違うから。
あたしにとっては、まもちゃんの全部が大事だもん。…まもちゃんがやりたいって思う気持ちも、アメリカ行きたいって決めた事も、まもちゃんの気持ちでしょ?そういうの、みんなみーんな叶えてあげたいんだ。
まもちゃんがあたしに何でもしてくれるみたいに、まもちゃんの大事に思うものはあたしも大事にしたいんだよ?」
「…うさ…」
「それに、本当に本気で会いたいと思えば会いに行っちゃうよー。」
電話口で照れ臭そうに笑う声が胸に沁みる。
「――クス、うさは強いな。」
電話を切り、星空を見上げた。
日本はもう朝だろう。星はとっくに見えなくなっているはずだが、あの月くらいは見えているだろうか。
手は届かないけれど、遠いようで少し近い――そんな距離感のもどかしさが、うさの声で少し和らいだ気がする。
――――――
数日後、驚いたことに、うさからパソコンで連絡が来た。
「すごいでしょ?亜美ちゃんからやり方教えてもらって設定してもらったの。これで毎日連絡できちゃうね!」
「そうだな。でもあんまりやりすぎないように気をつけないと。通信量も心配だけど、うさ、もうそろそろ学校行く時間だろ?」
「あと、亜美ちゃんから伝言があるよ。
『たぶん、今感じてる違和感は、例えるとDNA修復機構のなかで偶然生じたほんの小さな変異のようなものだと思います。それがどのように作用するかは分かりませんが、どの時点から修復を始めたのかは人それぞれだと思うので、時間のあるときに衛さんの考えも教えてください。』だって。どういう意味?」
――そうか!そういうことか!
亜美の文章を何度か読み返す。違和感の正体…オレがうさに対して感じている感覚は…つまり、彼女も「ギャラクシアによる死」を経験しているのだ――
急いでパソコンのキーボードを叩いた。
「うさ、亜美ちゃんの連絡先教えてくれるか?いくつかオレの考えを教えてあげたいんだ。」
生物の遺伝子情報、いわゆる設計図であるDNAは「A,T,C,G」の4つの塩基が並んだ2本の鎖で構成されている。細胞分裂とはこの2本の鎖が解れ、それぞれ対になる鎖を複製することで生じるものだが、このとき塩基の配列が変わってしまうと細胞の設計図が書き換えられてしまい、「変異」が起こる。
DNAの鎖は、紫外線や放射線、その他なんらかの化学物質などに曝されると損傷してしまうが、このような損傷を受けても再びあるべき並びの鎖に複製する「DNA修復機構」のおかげで我々の身体は多少の紫外線やタバコなどの化学物質に曝されても元の姿でいることができるのだ。
しかし、このDNA修復機構も完全ではない。2本の鎖の両方が損傷してしまうなど、複製すべき元の情報を失った場合には類似の情報で置き換えられる場合もあり、それらはほんの小さな「変異」として設計図に刻まれていく。
――もし、そんなDNAの修復機構のように今のオレたちは人生をやり直しているのだとしたら…
ギャラクシアにいちど壊された鎖を修復する過程で置き換えられたパーツは、ネガティブな変異として癌細胞のように燻るか、あるいはポジティブな変異として進化の鍵となるか――?
変わるなら進化でありたい。
「まもちゃんがあたしに何でもしてくれるみたいに、まもちゃんの大事に思うものはあたしも大事にしたいんだよ?」
先日の電話で聞いたうさの声を思った瞬間、胸の中で消えそうになっていた何かが強く煌めいた。
そう、変わるなら全てを守れるように。
うさが全てを包み込もうとしているように、オレもうさが大事にしたいと思う全てを守っていきたい。――うさが大切に思ってくれているオレ自身のことも含めて、「すべて」をだ。
そんな思いを新たにした翌日、なぜか引き寄せられるように小さなカフェを見つけた。
扉を開けるとコーヒーの香りが温かく迎え入れてくれる。少し古びた店内はどこか懐かしくて居心地が良い。まるで、ずっと昔から知っているような空気感の場所だった。
注文を取りに来たウェイターと目が合った瞬間、ドクンと胸が高鳴る。
――お前は…いや、まさか…
「――『どの時点から修復を始めたのかは人それぞれだと思うので、時間のあるときに衛さんの考えも教えてください。』だって。どう言う意味?」
パソコン越しに読んだあの一文が甦る。
複雑に絡み合った鎖の解き方が分かりはじめたように、急速に店内の解像度が上がった。
見渡せば隣のテーブルに、窓側の席に、そしてその隣にも…
――間違いない。皆、ここにいる。
オレの中に、新しい力が湧き上がるのを感じた。