君に惹かれて不思議を見つけたい【赤司】
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高校二年の夏休み。日本列島は毎年ほとんどが猛暑日だった。そんな中信州へ行こうと言い出したのは真昼だった。週末のことであった。
「善光寺に行きたいの。付き合って」
デート中に突然そう言われて赤司は少しだけ意外に思った。
「寺とかに興味が?」
「あるわよ。だってあそこにはね、面白い話がいっぱいあるんだもの」
——そっちか、と赤司は納得して自分の浅さを知った。つまり信仰ではなく、伝承の方に興味があるのだ。この少女らしい理由だった。
「分かった。付き合おう」
そうして二人は夏の朝。新幹線に乗って長野へと向かったのだった。
***
長野駅から参道を歩いた。夏の日差しは強かった。いつもならおしゃれしてくる真昼も帽子を被って、日傘まで差していた。格好も歩きやすさ重視らしい。夏が好きな癖に相変わらず暑さに弱い。
「暑いわねえ」
「本当に暑がりだな、君は」
「夏は好きよ。暑いのが嫌なだけ」
「矛盾していると思わないか?」
「してないわよ。生体として普通なのだわ」
参道は緩やかな上り坂だった。両側には日本の原風景を思わせる古い店が並んでいる。七味唐辛子の店。蕎麦屋。土産物屋。木造の建物が夏の光を鈍く跳ね返していた。
歩きながら真昼が話し始めた。
「赤司くんは牛に引かれて善光寺参りって、知ってる?」
「言葉としては知っている。思わぬ縁に導かれて良い方へ向かうことの喩えだったかな」
「そう。それの元になった話があるのよ」
真昼は日傘の下で実に楽しそうに語り始めた。
昔、信心のない欲深い老婆がいた。ある日、川で布を晒しているとどこからか一頭の牛が現れてその角に布を引っ掛けて走り去った。
老婆は怒って追いかけた。その布を取り返すために。
牛は走り続け、老婆は追い続けた。
そして、気づいた時には——善光寺の門前に立っていた。
日が暮れて老婆はやむなく堂で一夜を明かした。そしてその夜、夢を見た。
翌朝、老婆は改心して信心深い人間になった。
「——という話」
真昼はそう締めくくった。赤司は少し考えた。話だけなら日本に昔からありがちな雰囲気である。
「つまり牛は仏の化身だった、ということか」
「そう言われてるわね。観音様が牛の姿を借りて老婆を導いたって」
「そうして怒りで寺まで走った女がそのまま救われた、と」
「そういうこと」
指を立てて笑う真昼に赤司は少し笑った。
「少し君に、似ているね」
「えぇ?」
「怒って追いかけていたらいつの間にか良い場所に着いていた。君の生き方に近いとオレは思ったな」
真昼が日傘の下できょとん、とした顔をして首を傾げた。
「私ってそんなに怒ってるように見えるのかしら?」
「そうではないよ。理屈より先にまず足が出る、という意味だ」
「褒めてるの?」
「褒めている」
***
山門をくぐって本堂の前に立つ。大きな伽藍だった。木の色が深く沈んで屋根の反りが夏空を切り取っている。どこからか線香の匂いが風に乗って流れてきた。
「参拝の時に投げるお金。五円でご縁なら十円で遠縁なのよ」
「それは結局迷信だろう」
「なぁんだ知っていたのね。つまらないじゃない」
参拝を済ませると二人で本堂の脇の日陰になったところに腰を下ろした。真昼は日傘を畳むとペットボトルの水を飲んだ。
「——ねえ、赤司くん」
「なんだい」
「ここでね、昔、すごく大きい地震があったのよ」
「善光寺地震か」
「知ってるの?」
「一般教養だ」
「一般かしら」
赤司は淡々と続けた。
「弘化四年。西暦で一八四七年。五月八日の夜十時頃。長野盆地の西縁を震源とする直下型の地震。マグニチュードは七・四と推定されている」
「あら、詳しいわね」
「地震学の資料で読んだことがある」
赤司が少し遠くを見ると真昼もその方向を見た。
「——問題はその年が、御開帳と重なっていたことだ」
「七年に一度の御開帳。全国からお参りの人が集まってた」
「参詣者は七千から八千と言われている…そのうち、生き残ったのは、約一割だ」
真昼が黙って夏の蝉の鳴き声がよく反響した。
「——一割」
「そう。地震で建物が倒れ、直後に火災が起きた。夜だったこともあって逃げ遅れた者が多かったという。死者は全体で一万人を超えるとも言われているね」
赤司はそこで言葉を切った。
「そして、その参詣者たちは全員」
「えぇ」
「善光寺にお参りに来ていた人間だった。日本中から」
真昼はしばらく本堂を見上げていた。その目には何を映しているのかは赤司からは見えなかった。そして静かに言った。
「——牛に引かれて来た。みんな、何かの縁でここに来たのよ。仕事の合間かもしれないし、一生に一度の願いだったかもしれない。誰かに誘われたのかもしれない。理由はみんな違うけど」
真昼は日傘の柄を握りしめていた。ペットボトルの結露はもう乾いていた。
「導かれてここまで来たのよ。そして——」
そこで真昼は言葉を止めた。
「私には視えるもの。あの時の信州の大地の震動が」
蝉の声だけが境内に満ちていた。真昼を見ると彼女は真剣な顔で夏空を見ていた。
「白鯨は、導かれた先がそれだったと言いたいのかい」
「なんだか切ないじゃない」
赤司は少し考えた。赤司には大昔の人のことを想像の域でしか測れない。真昼とは見えているものが違うから。口を開く。
「オレはそうは思わないな」
「え?」
「牛に引かれて善光寺参り、という言葉の意味は思わぬ縁に導かれて良い方へ向かうこと」
赤司は本堂を見上げた。ここに二人で居るのも縁、なのだろう。
「その言葉が今でも残っている。地震の後も。百七十年以上経った今も」
「そうね」
「一万人が死んだ場所でその言葉が生き延びた。それは…導かれたこと自体が否定されなかった、ということだとオレは思う」
真昼の方へと視線を戻す。少しだけ前髪が崩れていた。
「災いは来る。誰にでも来るもので人間では抗えない。それ自体は導きとは無関係だ。導かれてここまで来た、という事実は災いでは消せないんじゃないか?」
真昼はわずかに驚いた顔をしてしばらく黙って、それから少しだけ笑った。
「……あなたってたまにお坊さんみたいなこと言うわね」
「理屈の帰結を述べただけだよ。それに現存しているならオレの見解は正しいと思うな」
「それがお坊さんっぽいのよ」
真昼はやや勢いをつけて立ち上がると日傘を開いた。長い髪が水のように流れた。
「——じゃあ私たちも何かに引かれて来たのかもね」
「そうかもしれないな」
「やっぱり牛かしら」
「残念ながら新幹線だ」
「相変わらず夢がないわ。おは朝を見た方がいいわよ」
「遠慮しておく」
***
参道を下っていた時のことだ。真昼がふと、足を止めた。
「——ねえ」
「どうしたんだい」
「あそこ」
真昼が指差した先には店があった。古い小さな土産物屋。軒先に風鈴がいくつも吊るされてちりん、と夏の音を奏でている。その店先に置物が一つ、置かれていた。よく見てみると牛の置物だった。赤い布を角に引っ掛けている。
「牛に引かれて善光寺参りの、あれね」
真昼は嬉しそうにその置物を見ていた。一緒に見てみたところ特に変わったところはなかった。よくある土産物の置物だった。
「気に入ったなら、買うかい?」
「んー。でも、大きいわね」
「送ればいいじゃないか」
「そうねえ」
そんな会話をして二人はその店の前を通り過ぎた。
——そして。
十分ほど歩いて真昼が忘れ物に気づいたらしく声をあげた。日傘をあの店の軒先に立てかけたままだったらしい。
「あ、傘! 忘れちゃった」
「うっかりさんめ、取りに戻ろう」
二人は来た道を引き返した。
——けれど。
その店はなくなっていた。同じ場所には別の店があった。蕎麦屋らしく軒先に風鈴はなく、音もなければ牛の置物もなかった。
「……あれ?」
赤司も周囲を見回した。道は間違えていない。そもそも参道は一本道だ。距離も、時間も、記憶と合っている。けれど店が違った。
「——真昼」
「なあに?」
「君の日傘は」
真昼がはっとして自分の手を見た。日傘は真昼の手の中にあった。畳まれた状態でずっと持っていたかのように。
二人はしばらく無言でその日傘を見ていた。
「……ねえ、赤司くん」
「ん?」
「今のは何だと思う?」
「——分からない」
「あら、否定しないのね?」
「今回は否定する材料がない。それに…」
参道を見渡した。夏の日差し。木造の建物。歩く観光客。何もかも普通の光景だった。
「記憶違いの可能性はある。疲労と暑さで店を見間違えた。日傘を持っていたことを忘れていた。そのどちらもあり得る」
「そうねえ」
「だが」
赤司は少し笑った。今日は構わなかった。
「——牛に引かれた、という説明の方が今日はしっくりくるんじゃないか?」
「あなたがそんなこと言うなんて。明日は富士の霊峰が火を噴くわ」
「たまにはそういう日があっても良いだろう?」
赤司はしれっとそう言って歩き出し、真昼がその隣に並んだ。日傘の下で真昼が笑って夏の風鈴の音がどこからか聞こえた気がした。
けれど振り返っても風鈴を吊るした店はどこにもなかった。
***
帰りの新幹線。
真昼が窓の外を見ながら言った。
「——結局あの店、なんだったのかしらね」
「分からない」
「調べないの?」
「調べたら答えが出るかもしれないが…」
赤司はそう言って少し目を伏せた。
「答えが出ると、面白くない——たまには、分からないままの方がいい。違うかい」
真昼が少し、驚いた顔をしてそれから実に、嬉しそうに笑った。
「あなたもいよいよ理解してきたってことね」
「そうかもしれないな」
「じゃあ今度は墓場に行かないとね」
「それも遠慮しよう」
「えー」
窓の外を見ると信州の山が夏の光の中で遠ざかっていくところだった。一八四七年の五月。この土地で一万人が死んだ。牛に引かれてこの寺まで来た人たちが。
そしてその言葉だけが今も残っている。
——思わぬ縁に導かれて、良い方へ向かうこと。
隣の真昼を見るといつの間にか赤司の肩を借りて寝落ちていた。自由なことだ。理屈よりも先に足が出る、不思議を集めるこの少女に。
(——オレも、引かれてきたのかもしれない)
赤司はそう思って少しだけ笑みを浮かべた。窓の外の山が夕日で赤く、染まり始めていた。
「善光寺に行きたいの。付き合って」
デート中に突然そう言われて赤司は少しだけ意外に思った。
「寺とかに興味が?」
「あるわよ。だってあそこにはね、面白い話がいっぱいあるんだもの」
——そっちか、と赤司は納得して自分の浅さを知った。つまり信仰ではなく、伝承の方に興味があるのだ。この少女らしい理由だった。
「分かった。付き合おう」
そうして二人は夏の朝。新幹線に乗って長野へと向かったのだった。
***
長野駅から参道を歩いた。夏の日差しは強かった。いつもならおしゃれしてくる真昼も帽子を被って、日傘まで差していた。格好も歩きやすさ重視らしい。夏が好きな癖に相変わらず暑さに弱い。
「暑いわねえ」
「本当に暑がりだな、君は」
「夏は好きよ。暑いのが嫌なだけ」
「矛盾していると思わないか?」
「してないわよ。生体として普通なのだわ」
参道は緩やかな上り坂だった。両側には日本の原風景を思わせる古い店が並んでいる。七味唐辛子の店。蕎麦屋。土産物屋。木造の建物が夏の光を鈍く跳ね返していた。
歩きながら真昼が話し始めた。
「赤司くんは牛に引かれて善光寺参りって、知ってる?」
「言葉としては知っている。思わぬ縁に導かれて良い方へ向かうことの喩えだったかな」
「そう。それの元になった話があるのよ」
真昼は日傘の下で実に楽しそうに語り始めた。
昔、信心のない欲深い老婆がいた。ある日、川で布を晒しているとどこからか一頭の牛が現れてその角に布を引っ掛けて走り去った。
老婆は怒って追いかけた。その布を取り返すために。
牛は走り続け、老婆は追い続けた。
そして、気づいた時には——善光寺の門前に立っていた。
日が暮れて老婆はやむなく堂で一夜を明かした。そしてその夜、夢を見た。
翌朝、老婆は改心して信心深い人間になった。
「——という話」
真昼はそう締めくくった。赤司は少し考えた。話だけなら日本に昔からありがちな雰囲気である。
「つまり牛は仏の化身だった、ということか」
「そう言われてるわね。観音様が牛の姿を借りて老婆を導いたって」
「そうして怒りで寺まで走った女がそのまま救われた、と」
「そういうこと」
指を立てて笑う真昼に赤司は少し笑った。
「少し君に、似ているね」
「えぇ?」
「怒って追いかけていたらいつの間にか良い場所に着いていた。君の生き方に近いとオレは思ったな」
真昼が日傘の下できょとん、とした顔をして首を傾げた。
「私ってそんなに怒ってるように見えるのかしら?」
「そうではないよ。理屈より先にまず足が出る、という意味だ」
「褒めてるの?」
「褒めている」
***
山門をくぐって本堂の前に立つ。大きな伽藍だった。木の色が深く沈んで屋根の反りが夏空を切り取っている。どこからか線香の匂いが風に乗って流れてきた。
「参拝の時に投げるお金。五円でご縁なら十円で遠縁なのよ」
「それは結局迷信だろう」
「なぁんだ知っていたのね。つまらないじゃない」
参拝を済ませると二人で本堂の脇の日陰になったところに腰を下ろした。真昼は日傘を畳むとペットボトルの水を飲んだ。
「——ねえ、赤司くん」
「なんだい」
「ここでね、昔、すごく大きい地震があったのよ」
「善光寺地震か」
「知ってるの?」
「一般教養だ」
「一般かしら」
赤司は淡々と続けた。
「弘化四年。西暦で一八四七年。五月八日の夜十時頃。長野盆地の西縁を震源とする直下型の地震。マグニチュードは七・四と推定されている」
「あら、詳しいわね」
「地震学の資料で読んだことがある」
赤司が少し遠くを見ると真昼もその方向を見た。
「——問題はその年が、御開帳と重なっていたことだ」
「七年に一度の御開帳。全国からお参りの人が集まってた」
「参詣者は七千から八千と言われている…そのうち、生き残ったのは、約一割だ」
真昼が黙って夏の蝉の鳴き声がよく反響した。
「——一割」
「そう。地震で建物が倒れ、直後に火災が起きた。夜だったこともあって逃げ遅れた者が多かったという。死者は全体で一万人を超えるとも言われているね」
赤司はそこで言葉を切った。
「そして、その参詣者たちは全員」
「えぇ」
「善光寺にお参りに来ていた人間だった。日本中から」
真昼はしばらく本堂を見上げていた。その目には何を映しているのかは赤司からは見えなかった。そして静かに言った。
「——牛に引かれて来た。みんな、何かの縁でここに来たのよ。仕事の合間かもしれないし、一生に一度の願いだったかもしれない。誰かに誘われたのかもしれない。理由はみんな違うけど」
真昼は日傘の柄を握りしめていた。ペットボトルの結露はもう乾いていた。
「導かれてここまで来たのよ。そして——」
そこで真昼は言葉を止めた。
「私には視えるもの。あの時の信州の大地の震動が」
蝉の声だけが境内に満ちていた。真昼を見ると彼女は真剣な顔で夏空を見ていた。
「白鯨は、導かれた先がそれだったと言いたいのかい」
「なんだか切ないじゃない」
赤司は少し考えた。赤司には大昔の人のことを想像の域でしか測れない。真昼とは見えているものが違うから。口を開く。
「オレはそうは思わないな」
「え?」
「牛に引かれて善光寺参り、という言葉の意味は思わぬ縁に導かれて良い方へ向かうこと」
赤司は本堂を見上げた。ここに二人で居るのも縁、なのだろう。
「その言葉が今でも残っている。地震の後も。百七十年以上経った今も」
「そうね」
「一万人が死んだ場所でその言葉が生き延びた。それは…導かれたこと自体が否定されなかった、ということだとオレは思う」
真昼の方へと視線を戻す。少しだけ前髪が崩れていた。
「災いは来る。誰にでも来るもので人間では抗えない。それ自体は導きとは無関係だ。導かれてここまで来た、という事実は災いでは消せないんじゃないか?」
真昼はわずかに驚いた顔をしてしばらく黙って、それから少しだけ笑った。
「……あなたってたまにお坊さんみたいなこと言うわね」
「理屈の帰結を述べただけだよ。それに現存しているならオレの見解は正しいと思うな」
「それがお坊さんっぽいのよ」
真昼はやや勢いをつけて立ち上がると日傘を開いた。長い髪が水のように流れた。
「——じゃあ私たちも何かに引かれて来たのかもね」
「そうかもしれないな」
「やっぱり牛かしら」
「残念ながら新幹線だ」
「相変わらず夢がないわ。おは朝を見た方がいいわよ」
「遠慮しておく」
***
参道を下っていた時のことだ。真昼がふと、足を止めた。
「——ねえ」
「どうしたんだい」
「あそこ」
真昼が指差した先には店があった。古い小さな土産物屋。軒先に風鈴がいくつも吊るされてちりん、と夏の音を奏でている。その店先に置物が一つ、置かれていた。よく見てみると牛の置物だった。赤い布を角に引っ掛けている。
「牛に引かれて善光寺参りの、あれね」
真昼は嬉しそうにその置物を見ていた。一緒に見てみたところ特に変わったところはなかった。よくある土産物の置物だった。
「気に入ったなら、買うかい?」
「んー。でも、大きいわね」
「送ればいいじゃないか」
「そうねえ」
そんな会話をして二人はその店の前を通り過ぎた。
——そして。
十分ほど歩いて真昼が忘れ物に気づいたらしく声をあげた。日傘をあの店の軒先に立てかけたままだったらしい。
「あ、傘! 忘れちゃった」
「うっかりさんめ、取りに戻ろう」
二人は来た道を引き返した。
——けれど。
その店はなくなっていた。同じ場所には別の店があった。蕎麦屋らしく軒先に風鈴はなく、音もなければ牛の置物もなかった。
「……あれ?」
赤司も周囲を見回した。道は間違えていない。そもそも参道は一本道だ。距離も、時間も、記憶と合っている。けれど店が違った。
「——真昼」
「なあに?」
「君の日傘は」
真昼がはっとして自分の手を見た。日傘は真昼の手の中にあった。畳まれた状態でずっと持っていたかのように。
二人はしばらく無言でその日傘を見ていた。
「……ねえ、赤司くん」
「ん?」
「今のは何だと思う?」
「——分からない」
「あら、否定しないのね?」
「今回は否定する材料がない。それに…」
参道を見渡した。夏の日差し。木造の建物。歩く観光客。何もかも普通の光景だった。
「記憶違いの可能性はある。疲労と暑さで店を見間違えた。日傘を持っていたことを忘れていた。そのどちらもあり得る」
「そうねえ」
「だが」
赤司は少し笑った。今日は構わなかった。
「——牛に引かれた、という説明の方が今日はしっくりくるんじゃないか?」
「あなたがそんなこと言うなんて。明日は富士の霊峰が火を噴くわ」
「たまにはそういう日があっても良いだろう?」
赤司はしれっとそう言って歩き出し、真昼がその隣に並んだ。日傘の下で真昼が笑って夏の風鈴の音がどこからか聞こえた気がした。
けれど振り返っても風鈴を吊るした店はどこにもなかった。
***
帰りの新幹線。
真昼が窓の外を見ながら言った。
「——結局あの店、なんだったのかしらね」
「分からない」
「調べないの?」
「調べたら答えが出るかもしれないが…」
赤司はそう言って少し目を伏せた。
「答えが出ると、面白くない——たまには、分からないままの方がいい。違うかい」
真昼が少し、驚いた顔をしてそれから実に、嬉しそうに笑った。
「あなたもいよいよ理解してきたってことね」
「そうかもしれないな」
「じゃあ今度は墓場に行かないとね」
「それも遠慮しよう」
「えー」
窓の外を見ると信州の山が夏の光の中で遠ざかっていくところだった。一八四七年の五月。この土地で一万人が死んだ。牛に引かれてこの寺まで来た人たちが。
そしてその言葉だけが今も残っている。
——思わぬ縁に導かれて、良い方へ向かうこと。
隣の真昼を見るといつの間にか赤司の肩を借りて寝落ちていた。自由なことだ。理屈よりも先に足が出る、不思議を集めるこの少女に。
(——オレも、引かれてきたのかもしれない)
赤司はそう思って少しだけ笑みを浮かべた。窓の外の山が夕日で赤く、染まり始めていた。
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