なんでもないという日に【赤司】
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秋。十月にもなれば日が落ちるのが早くなる。暑い日と涼しい日はいずれやってくる冬の足音を感じさせていて、ブレザーの下にカーディガンや薄手のセーターを着ては外の世界に駆けていく。
練習が終わると部員たちは一人、また一人と体育館を出ていく。当たり前の話だが結局のところ子供でしかない彼らは帰宅するしかないのだから。モップがけの音、ボールを片付ける音…誰かの笑い声が廊下の方へ遠ざかっていく。そういういつもの放課後の音を背景に赤司は体育館の隅で練習メニューのノートを広げていた。
翌週のメニューを組み立てるのは日課の一つだった。誰と誰を組ませるか。誰の負荷を落とすか、あるいは上げるべきなのか。頭の中で無数の組み合わせをシュミレーションしていく。
そしてその隣で白鯨真昼がスコアシートの整理をしていた。マネージャーの業務ももう慣れたものであった。入部したころは人に一緒に入って欲しいと懇願され連れてこられたというのに、「なにか見つけたかも!」とあっという間に馴染んだ。今日の練習の記録をまとめて、桃井に渡す前の下処理をする。二人ともそれぞれの作業に没頭していてしばらく会話はなかった。窓の外はもう夕暮れの色を過ぎて青く暮れかけていた。
「——ねえ、赤司くん」
不意に真昼が口を開いた。
「どうしたんだい」
赤司はノートから顔を上げずに返した。声色から若干飽きたらしいことが伺えた。
「最近ね聞いたのだけど、この学校の理科室…夜になると人体模型が動くらしいわよ」
赤司の手が止まった。そして、ゆっくりと顔を上げて真昼を見た。真昼もこちらを見ていて眼を輝かせていた。楽しい、が見て取れる。普段同学年に比べたら大人びた印象なのにこういうところは年相応なのだろう。
「ちなみになぜ今話そうと思ったのか聞いてもいいかな」
「だってもう夜だもの」
「残念ながらまだ十八時だ。夜ではないね」
「でも見て、外は真っ暗よ」
「日没と夜は別だ」
「夢もロマンもないのだわ」
真昼が不満そうに口を尖らせるのを見て赤司は少しだけ笑った。
この少女はいつもこうだった。
何の脈絡もなく突然オカルトな話を投げてくる。そして赤司が理屈で否定すると必ずこういう顔をした。素直な女であった。
そして正直に言えばこの時間が赤司は嫌いではなかった。嫌いではないという言い方は少し、不正確かもしれない。けれど当時の赤司はそれ以上の言葉を自分に許していなかったし、まだ形容する術も持っていなかった。
「じゃあ、赤司くんは信じないのね?」
「どちらかと言われたら信じない。人体模型が動くならその質量を動かすエネルギーはどこから来るのか。骨格標本は樹脂と金属なことを考えると自律駆動する機構がない」
「もう、科学の時代の裏にはまだまだ隠れた事象があるに違いないのよ」
「事実を述べているだけだ」
真昼はスコアシートに視線を戻しながら笑う。
「でもあなたのそういうところも好きよ」
その言葉に赤司のペンが止まった。ほんの一瞬だけ。
「——……何が」
「理屈で否定してくれるところ。神の時代も妖怪も終わった今を生きる人の考えを聞くと安心するの」
真昼は赤司の方を見ていなかった。スコアシートに数字を書き込みながらなんでもないことのように言った。
「怖い話も、不思議な話もね、人間がいるから在るの。あなたは特に真面目に返してくれるのと…やっぱり繋ぎとめてくれる感じがするから」
赤司はしばらく何も言えなかった。ノートの上のペン先が乾いていくのを見て、考えていた。
「——だから、話しているのかい」
「話がいがあるもの、一番」
真昼が再び顔を上げて赤司を見た。真っ直ぐに、ただ自分の好きだけを込めた瞳。
「迷惑かしら…」
「いや…それは、よかった」
赤司の答えを聞いた真昼はそれで満足したようにまたスコアシートに戻った。赤司もノートを見下ろす。練習メニューの途中まで書かれた文字列を。なぜか、続きが書けなかった。
***
体育館の蛍光灯が、じ、と鳴った。
窓の外は先ほどよりも暗くなっていた。二人以外の部員はもう誰もいなかった。用具室の鍵は赤司が持っているから最後に出るのはだいたい赤司で、真昼はなんとなくそれに付き合って残ることが多かった。
なぜ付き合うのか、赤司は聞いたことがなかった。
聞いたら答えを返してくれるだろう。そしてもしも、その答えが自分の望むものでなかったら——という思考が一瞬だけ頭をよぎった。赤司はその思考をそっと押し込めた。
(…オレは、何を考えているんだろうか)
「——白鯨」
「なあに?」
「そろそろ帰った方が良い、もう遅い」
「赤司くんは?」
「オレは…あと少しだけやることがあるから気にしないでくれ」
真昼が瞬きした。そして少し考える。
「じゃあ、待ってるわ」
「待つ必要はないよ、後は大した内容じゃない」
「だって暗いもの。それとも赤司征十郎くんは女の子を一人で帰らせるのかしら~?」
「ついさっきまで人体模型が動く話をして、こちらを怖がらせようとしていた人間の台詞かな?」
「わかってないわ。あれはね怖い話じゃなくて、面白い話よ」
「同じだろう」
「違うわよ。怖い話はね、一人の時に思い出すの。面白い話は誰かといる時にするの」
(——なるほど)
つまり、この少女は赤司といる時、それを「面白い話」として扱っているということになる。そしてそれを共有したがっている。一人の時に思い出す怖さを赤司の前で面白さに変えている。そういうことになる。少し肩を竦めるとノートを閉竦める
「——帰ろう」
「え? まだやることあるんじゃないの?」
「明日でもいいよ」
真昼が少しだけ驚いた顔をした。赤司征十郎がその日のうちにやると決めたことを明日に回す。それはこの男にしてはかなり珍しいことだった。
けれど真昼は深くは追及しなかった。
「…わかった。じゃ、帰りましょ」
***
暗くなった外は冷えていた。十月の夜の空気は乾いていて、少しだけ命が終わりに向かう季節の匂いが混じっていた。校門までの道を二人で歩く。
「あ、そうだ」
思いついたように真昼が鞄をごそごそやって、何かを取り出すと赤司に手渡す。
「はい。糖分」
見てみると飴だった。オレンジ色の包み紙のなんでもない、コンビニでも買えるような飴。
「飴」
「そうよ」
真昼は再度赤司の手に飴を押し付けた。この少女の好きな食べ物に飴は入っていない。以前好きだと語っていたものではないのに、こうして時々渡してくる。そして押し付けられて、受け取る。三回に一回くらいに真昼が忘れる。忘れられた日はなんとなく物足りないと思う。物足りない、と感じていることに赤司は、まだ気づかないふりをしていた。
「食べないの?」
「後で食べるよ」
「いつもそう言うじゃない」
「甘いものは、後で食べる主義だ」
「そんなの初めて聞いたのだけど?」
笑う真昼を見ながら飴をポケットに入れた。校門を抜け少し歩けばいつもの分かれ道。
「じゃあね、赤司くん。また明日」
「ああ。また明日」
笑顔で手を振って歩いていった真昼の背中をしばらく見ていた。見ている、という自覚はあまりなかった。ただ視線が自然とそちらを向いていた。真昼の姿が街灯の明かりを何度か横切ってやがて角を曲がって見えなくなった。
赤司はそれからようやく帰路を歩き出す。道中、ふとポケットの中の飴を取り出してみる。オレンジ色の包み紙は手のひらの中で、少しだけ温かくなっていた。
なぜ、すぐに食べないのか。
自分でもそれに関してはよく分からなかった。すぐに食べればいい。これはただの飴だ。糖分だ。なにか特別なものではない。
けれどなぜか、惜しかったのだ。
食べてしまえばなくなる。なくなるのがなんとなく惜しい。たったそれだけの話で、不思議だった。
包み紙を開けずに鞄の内ポケットにしまう。家に帰って一人になってから食べるつもりだった。いつもそうしていたから。思考を切り替えて練習メニューのことを考えようとした。明日に回した作業のことを。翌週の対戦相手のことを。けれど、頭に浮かんだのは。
『怖い話はね、一人の時に思い出すの。面白い話は誰かといる時にする』
ふと、窓ガラスに映った自分の顔を見た。口の端がほんの少しだけ上がっていたもんだからおかしかった。その夜、部屋で一人になって飴の包みを開けて口に入れると優しい蜂蜜の味がした。どこにでもあるただの飴の味だった。けれど、それが悪くなかった。
赤司征十郎がその感覚に、正しい名前をつけるまでには。
まだあと数年の時間が必要だった。
練習が終わると部員たちは一人、また一人と体育館を出ていく。当たり前の話だが結局のところ子供でしかない彼らは帰宅するしかないのだから。モップがけの音、ボールを片付ける音…誰かの笑い声が廊下の方へ遠ざかっていく。そういういつもの放課後の音を背景に赤司は体育館の隅で練習メニューのノートを広げていた。
翌週のメニューを組み立てるのは日課の一つだった。誰と誰を組ませるか。誰の負荷を落とすか、あるいは上げるべきなのか。頭の中で無数の組み合わせをシュミレーションしていく。
そしてその隣で白鯨真昼がスコアシートの整理をしていた。マネージャーの業務ももう慣れたものであった。入部したころは人に一緒に入って欲しいと懇願され連れてこられたというのに、「なにか見つけたかも!」とあっという間に馴染んだ。今日の練習の記録をまとめて、桃井に渡す前の下処理をする。二人ともそれぞれの作業に没頭していてしばらく会話はなかった。窓の外はもう夕暮れの色を過ぎて青く暮れかけていた。
「——ねえ、赤司くん」
不意に真昼が口を開いた。
「どうしたんだい」
赤司はノートから顔を上げずに返した。声色から若干飽きたらしいことが伺えた。
「最近ね聞いたのだけど、この学校の理科室…夜になると人体模型が動くらしいわよ」
赤司の手が止まった。そして、ゆっくりと顔を上げて真昼を見た。真昼もこちらを見ていて眼を輝かせていた。楽しい、が見て取れる。普段同学年に比べたら大人びた印象なのにこういうところは年相応なのだろう。
「ちなみになぜ今話そうと思ったのか聞いてもいいかな」
「だってもう夜だもの」
「残念ながらまだ十八時だ。夜ではないね」
「でも見て、外は真っ暗よ」
「日没と夜は別だ」
「夢もロマンもないのだわ」
真昼が不満そうに口を尖らせるのを見て赤司は少しだけ笑った。
この少女はいつもこうだった。
何の脈絡もなく突然オカルトな話を投げてくる。そして赤司が理屈で否定すると必ずこういう顔をした。素直な女であった。
そして正直に言えばこの時間が赤司は嫌いではなかった。嫌いではないという言い方は少し、不正確かもしれない。けれど当時の赤司はそれ以上の言葉を自分に許していなかったし、まだ形容する術も持っていなかった。
「じゃあ、赤司くんは信じないのね?」
「どちらかと言われたら信じない。人体模型が動くならその質量を動かすエネルギーはどこから来るのか。骨格標本は樹脂と金属なことを考えると自律駆動する機構がない」
「もう、科学の時代の裏にはまだまだ隠れた事象があるに違いないのよ」
「事実を述べているだけだ」
真昼はスコアシートに視線を戻しながら笑う。
「でもあなたのそういうところも好きよ」
その言葉に赤司のペンが止まった。ほんの一瞬だけ。
「——……何が」
「理屈で否定してくれるところ。神の時代も妖怪も終わった今を生きる人の考えを聞くと安心するの」
真昼は赤司の方を見ていなかった。スコアシートに数字を書き込みながらなんでもないことのように言った。
「怖い話も、不思議な話もね、人間がいるから在るの。あなたは特に真面目に返してくれるのと…やっぱり繋ぎとめてくれる感じがするから」
赤司はしばらく何も言えなかった。ノートの上のペン先が乾いていくのを見て、考えていた。
「——だから、話しているのかい」
「話がいがあるもの、一番」
真昼が再び顔を上げて赤司を見た。真っ直ぐに、ただ自分の好きだけを込めた瞳。
「迷惑かしら…」
「いや…それは、よかった」
赤司の答えを聞いた真昼はそれで満足したようにまたスコアシートに戻った。赤司もノートを見下ろす。練習メニューの途中まで書かれた文字列を。なぜか、続きが書けなかった。
***
体育館の蛍光灯が、じ、と鳴った。
窓の外は先ほどよりも暗くなっていた。二人以外の部員はもう誰もいなかった。用具室の鍵は赤司が持っているから最後に出るのはだいたい赤司で、真昼はなんとなくそれに付き合って残ることが多かった。
なぜ付き合うのか、赤司は聞いたことがなかった。
聞いたら答えを返してくれるだろう。そしてもしも、その答えが自分の望むものでなかったら——という思考が一瞬だけ頭をよぎった。赤司はその思考をそっと押し込めた。
(…オレは、何を考えているんだろうか)
「——白鯨」
「なあに?」
「そろそろ帰った方が良い、もう遅い」
「赤司くんは?」
「オレは…あと少しだけやることがあるから気にしないでくれ」
真昼が瞬きした。そして少し考える。
「じゃあ、待ってるわ」
「待つ必要はないよ、後は大した内容じゃない」
「だって暗いもの。それとも赤司征十郎くんは女の子を一人で帰らせるのかしら~?」
「ついさっきまで人体模型が動く話をして、こちらを怖がらせようとしていた人間の台詞かな?」
「わかってないわ。あれはね怖い話じゃなくて、面白い話よ」
「同じだろう」
「違うわよ。怖い話はね、一人の時に思い出すの。面白い話は誰かといる時にするの」
(——なるほど)
つまり、この少女は赤司といる時、それを「面白い話」として扱っているということになる。そしてそれを共有したがっている。一人の時に思い出す怖さを赤司の前で面白さに変えている。そういうことになる。少し肩を竦めるとノートを閉竦める
「——帰ろう」
「え? まだやることあるんじゃないの?」
「明日でもいいよ」
真昼が少しだけ驚いた顔をした。赤司征十郎がその日のうちにやると決めたことを明日に回す。それはこの男にしてはかなり珍しいことだった。
けれど真昼は深くは追及しなかった。
「…わかった。じゃ、帰りましょ」
***
暗くなった外は冷えていた。十月の夜の空気は乾いていて、少しだけ命が終わりに向かう季節の匂いが混じっていた。校門までの道を二人で歩く。
「あ、そうだ」
思いついたように真昼が鞄をごそごそやって、何かを取り出すと赤司に手渡す。
「はい。糖分」
見てみると飴だった。オレンジ色の包み紙のなんでもない、コンビニでも買えるような飴。
「飴」
「そうよ」
真昼は再度赤司の手に飴を押し付けた。この少女の好きな食べ物に飴は入っていない。以前好きだと語っていたものではないのに、こうして時々渡してくる。そして押し付けられて、受け取る。三回に一回くらいに真昼が忘れる。忘れられた日はなんとなく物足りないと思う。物足りない、と感じていることに赤司は、まだ気づかないふりをしていた。
「食べないの?」
「後で食べるよ」
「いつもそう言うじゃない」
「甘いものは、後で食べる主義だ」
「そんなの初めて聞いたのだけど?」
笑う真昼を見ながら飴をポケットに入れた。校門を抜け少し歩けばいつもの分かれ道。
「じゃあね、赤司くん。また明日」
「ああ。また明日」
笑顔で手を振って歩いていった真昼の背中をしばらく見ていた。見ている、という自覚はあまりなかった。ただ視線が自然とそちらを向いていた。真昼の姿が街灯の明かりを何度か横切ってやがて角を曲がって見えなくなった。
赤司はそれからようやく帰路を歩き出す。道中、ふとポケットの中の飴を取り出してみる。オレンジ色の包み紙は手のひらの中で、少しだけ温かくなっていた。
なぜ、すぐに食べないのか。
自分でもそれに関してはよく分からなかった。すぐに食べればいい。これはただの飴だ。糖分だ。なにか特別なものではない。
けれどなぜか、惜しかったのだ。
食べてしまえばなくなる。なくなるのがなんとなく惜しい。たったそれだけの話で、不思議だった。
包み紙を開けずに鞄の内ポケットにしまう。家に帰って一人になってから食べるつもりだった。いつもそうしていたから。思考を切り替えて練習メニューのことを考えようとした。明日に回した作業のことを。翌週の対戦相手のことを。けれど、頭に浮かんだのは。
『怖い話はね、一人の時に思い出すの。面白い話は誰かといる時にする』
ふと、窓ガラスに映った自分の顔を見た。口の端がほんの少しだけ上がっていたもんだからおかしかった。その夜、部屋で一人になって飴の包みを開けて口に入れると優しい蜂蜜の味がした。どこにでもあるただの飴の味だった。けれど、それが悪くなかった。
赤司征十郎がその感覚に、正しい名前をつけるまでには。
まだあと数年の時間が必要だった。
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