3:探究者の海底洞窟
顔に早朝の冷気が突き刺さる。吐く息が白くなって、風に流されて消えていく。
「ジャックはテスト勉強とかどうしてんの?」
「特別な事はしてない。復習の範囲がいつもより増えるぐらいだ」
隣を走るジャックが平然と答えた。……そうだね、君は下手な優等生より真面目に毎日頑張る子だったね。
魔法薬学室の前を通り過ぎ、大回りでメインストリートとの合流地点に向かう。サイドストリートをコロシアム前まで進んで、折り返した先の運動部棟がゴール地点だ。
早朝のランニングを始めたのはほんの一週間前。初日にジャックと鉢合わせして、以降は顔を合わせたら何となく一緒に走るようになった。
僕のペースだとジャックにはかなり遅いはずだが、腿上げを混ぜたりなんか器用にやってる。ホント体力でも頭でも勝てそうにない。
始めた理由は、まぁ単純な事で、体力づくりだ。
先日のオーバーブロット騒ぎが終わって考えたのだが、もし今後も学園長にあんな感じで面倒事を押しつけられるのなら、似たような事件に巻き込まれる可能性は否定できない。
そうじゃなくても巻き込まれてるけど、尚の事警戒は必要だろう。
じゃあ何が出来るかと言えば具体的な事は何も浮かばず、唯一思いついたのが『体力づくり』だった。
キングスカラー先輩と戦った時、体格の不利もあったが、自分の力不足は心から感じていた。グリムやエーデュース、ジャックや先輩たちの協力で最悪の事態は避けられたとはいえ、オーバーブロットする前に倒せていればもっと安全に事は終わっていた。
自分を守るための力だけでは、この世界で生きるには足りないかもしれない。
帰れれば全部必要のない事だが、帰る術が見つからない以上、対策は必要だ。他人の助けは肝心な所で期待できない。結局、自分を守れるのは自分だけなのだ。
という事で自室でやる筋トレの量を増やし、それだけだと足りない気がしたのでランニングも始めた。相手が見つかれば組み手もしたい所だが、これは慎重に探したい。
自分の戦闘手段は空手がベースだけど、近年はたまにしか稽古に行ってなかったし、ルール無用の実戦を積んだ事で型を崩してしまった自覚はある。いっそ初心に返ってこの世界の武術の門下に弟子入りするのもアリだな、とは思ったが、いったいいつまでこの世界にいる気なんだ、という話になるので一旦横に置いとく。
「心配な教科でもあるのか?」
「どの教科も心配しかないよ。僕もグリムも勉強苦手だもん」
大体、入学して最初のテストなんてものは手心が加えられているものだ。少なくとも自分が通っていた公立の高校はそういう感じだった。
でもここは名門校。異世界の魔法士養成学校とかいう、元の世界の常識が通用しない場所だ。
ただでさえ複雑化している授業の内容を、更にひっかけを交えてお出ししてくる可能性がある。自分にもグリムにも対処できないかもしれない。初テストから赤点なんてさすがに嫌だ。常識も何もかも違う世界であっても、それが言い訳として通用するのは解っていても、回避するに越したことはない。
「まぁ、ノート貸すぐらいはしてやる。いつでも言え」
「あーありがとうめちゃくちゃ助かる……」
予定通りのコースを走り終え、どちらともなく協力してクールダウンのストレッチをこなす。
「レオナ先輩なら古代呪文語が得意だぜ!!」
「今それ言う必要ある?」
「というか、全体的に成績が良いから何を聞いても教えてくれると思うぜ!」
「死ぬ間際に思い出したら頼るわ」
そうか、と言いつつ落ち込んだ感じに耳が寝ている。露骨なんよ君たち。
「ていうか、先輩の得意教科なんてよく覚えてるね?」
「ブッチ先輩から聞いたのと、よく古文書みたいなの読んでるんで」
「へー。本とか読むんだ、あの人」
「よく談話室のソファに寝そべって読んでる。おかげで課題の質問とかは割としやすいな。私室を訪ねるのは一年にはハードル高えよ」
「本当に面倒見がいいんだね……」
「だろ!?」
ジャックの尻尾がぶんぶん揺れている。先輩が褒められたと思って喜んでるっぽい。こういう所は年齢より幼いぐらいなんだよなぁ。
「あら、珍しい組み合わせね」
「ぴぎゃあああああああ!!!!」
唐突に後ろから聞こえた声に、反射的に叫んで思わずジャックを盾にした。ジャックが戸惑った顔で、僕とシェーンハイト先輩を交互に見ている。僕の反応を見て、先輩は意地の悪い笑みを浮かべて目を細めた。
「化け物でも見たような反応ね。朝っぱらから元気だこと」
「ヴィル先輩もランニングっすか」
「ええ、いま終わった所。丁度よかった、そこの小ジャガに言いたい事があったのよ」
「い、言いたい事、って……?」
笑みを深めたかと思ったら、片手で頭を掴まれた。ミシッて音がした気がする。
「アンタ、テレビ中継されるカメラの前に、よくもあんなズタボロな顔で出てきたわね」
「み、見てたんですか!?」
「ええ、見てたわよ。驚きのあまり、お気に入りのオペラグラスをひとつ壊しちゃったわ」
「握りつぶしたんですか?……痛い痛い痛いごめんなさい!!!!」
いや僕悪くないのになんで謝ってるんだ。でもホント痛い、謝って解放されるなら謝っていいと思うくらい痛い。この人こんな細いのに握力どんだけあるんだ。
「ヴィ、ヴィル先輩。あの、マジフト大会でユウがズタボロだったのはその、うちの寮のせいでもあるので」
「ええ、聞いたわ。例の事件の首謀者がアンタたちの寮長だったって。でもね、アタシはこの子に忠告したの。怪我しないうちに引いておきなさい、って」
一度緩んだ手の力が再び入り、頭がミシミシ音を立てる。
「それを無視した挙げ句、レオナとタイマンで殴り合ったですって?」
「タイマンの時は殴り合ってないです!!殴り合った時はグリムがいました!!」
「大差ないわよこのお馬鹿!!!!!!」
トドメとばかりに怒鳴られた所で、手が離れた。頭を抱えてうずくまると、頭上から呆れたような声が降ってくる。
「これに懲りたら、危ない事に首を突っ込むのはやめることね。命が幾つあっても足りないわよ」
「……僕が突っ込まなくても、学園長が持ってくるんですけど」
「テキトーにやっときなさいそんなもの。死ぬよりマシでしょ」
無茶を言いよる。こっちは衣食住の生命線掴まれてるってのに。
「そういえば、あの時の怪我の治りすげー早かったよな。貰った魔法薬飲んだのか」
「飲んだよ。おかげであの日のうちにほとんど痛みなくなってたもん」
「……魔法薬?」
「市販の魔法薬ッス。傷の治りが早くなるヤツ。コイツに高いのを差し入れしてくれた人がいるんすよ」
「一本飲んだだけで、次の日にはもうほとんど腫れも無くなってて凄く助かりました」
「……魔力が無いアンタに、そんな効き方するはずないわ」
シェーンハイト先輩がぽつりと呟く。ジャックが真剣な顔になった。
「……何か仕込まれてたって事ですか?差し入れされた時点で未開封なのは俺も見たんすけど」
「アンタ、傷の治りが早い体質か何か?」
「そんな事はないと思いますよ。言われた事もないですし」
「他に変な事は起きてない?体調に変化は?」
「特に何も。足もこの通り問題なく走れますし」
「足?アンタ、足も怪我してたの!?」
しまった、やぶ蛇しちまった。
「あ、僕、自力で着替えないといけないんでこれで失礼します!お疲れさまでした!ジャックもお疲れー!」
「ちょっと!」
「おう、お疲れ……」
全力のダッシュで逃げた。追いかけてはこなかったけど、覚えてるうちに顔を合わせたら詰問されそう。しばらくは周りに気をつけて過ごそうと心に決めた。
……それにしても。
あの薬の効果は魔力のない僕には不自然な効き方だと、先輩は言っていた。
顔も知らない彼はポムフィオーレ寮生だから、魔法薬学もたぶん得意だろう。効果を高めるくらい出来るのかもしれない。未開封ラベルの復元も魔法があれば出来そうだし。……今回は良い事だったけど、今後は油断できないな。
いつか、面と向かってお礼が言いたい。
どんな人なのだろう。きっと優しくて面倒見が良くて、育ちの良い穏やかな人なんだろうな。想像するだけでなんだか顔がにやけてしまう。向けられた優しさがもっと大きかった事を知ったら嬉しくて、胸の中が暖かかった。
寮に帰ってグリムを起こして、今日も一日が始まっていく。