2:果てを望む砂塵の王




「食らえ、グリム様のスーパーシュート!……ムニャムニャ……」
 べちん、と顔面をグリムに叩かれて目を覚ます。闇に慣れた目で横を見ると、グリムは幸せそうな顔で人の枕を半分以上奪って眠っていた。今日の敗北はあまり傷になっていないようで何よりだ。
 枕からグリムを下ろして、形を整えてから頭を預ける。ぼんやりと天井を見上げて考えた。
 ……まさかまた、生身で自分より強い奴と戦う羽目になるとは思わなかった。いや未遂だけど。……でも次に何かあったら殴り合いになるのは必至な気がする。
 体格の不利を覆す、なんて言うのは簡単だがやるのは難しい。相手が力押しのウドの大木ならまだしも、『人と闘う』事にセンスがある相手だと虚を突くやり方も通用しない。
 まして相手は『獅子の獣人』だ。感覚器も鋭く、腕力も脚力も人並み以上の相手。
 空手を習い、魔法少女としての一年間の実戦を経て多少センスが磨かれ、腕力も鍛えているので平均よりあるとは言え、身長は男子の平均に届かない僕には厳しすぎる相手だ。相手の精神面のコンディションが最悪か、鋭い感覚器を逆手にとって罠でも仕掛けないと勝ち目はない。
 出来たら戦いたくない。多分勝てない。
『もっと強くなりたい、って思わねえのか?』
 昼間のグリムの言葉が頭に浮かぶ。
 思わなかったわけではない。ただ、その天井が存外あっさり見えてしまっただけの事なのだ。
 中学の頃、自分ではこれ以上高みには行けない、と思わされる相手に出会ってしまった。それも複数。
 でも悔しい、と思った事はあまりない。格闘技に限らずスポーツの世界は大抵、大柄な方が有利だ。例外は勿論あるけど。自分の体格では割とすぐに限界が来る事は予想できた。
 それに、自分が空手を始めた目的はただ強くなる事じゃない。自分や周りの人を守れるようになる事だ。あんな高スペックを相手にするのは完全に例外だし、第一『守る』という目的は腕力だけで達成する必要はない。
 だけど、もし。
 あんな高スペック相手に、腕力でしか立ち向かえない状況が来たとしたら、僕は逃げずにいられるだろうか。
 戦うだけが正しい選択ではないと解っているのに、どこかで逃げる事を悪い事だと思う自分がいる。相手が自分より強くても、自分が負けると解っていても、立ち向かい死してでも抗うべきだと考えている。
 先月の、ハーツラビュル寮の騒動でのエースたちのように。
「……感化されちゃったかな」
 我ながら単純だ、と呆れつつ目が冴えてしまった事を自覚する。
 少し外の空気を吸ってこよう。
 グリムに上掛けを乗せてベッドを降り、勉強机のイスにかかっていたカーディガンを手にする。寒くなってきたから、と先日ゴーストたちがくれた部屋着用のもので、手触りが良くて気に入っていた。肩に羽織って部屋を出る。
 軋む階段もすっかり慣れたもので、どの辺りを踏めば音が小さく済むかは把握済みだ。ゴーストたちの姿は見えない。眠らない彼らは、しばしば学校で働く他のゴーストたちと交流しているという。多分今日もそういう日だ。
 玄関の外に出て、空を見上げる。暗い紺色の空に、白い砂のような星が散りばめられていた。都会では見られない、林間学校とか旅行でしか見た事のない光景。思わず息を吐く。
 星座には詳しくないけど、見た事ある星がないかと夜空を探す。詳しくないんだから解りっこないのに、ただ綺麗に瞬く星空を眺めていた。
 星空に同じ何かを見つけられたならきっと、元の世界に帰れると信じられただろうに。
「……そこに誰かいるのか?」
 声がして身を竦めた。自分が悪い事をしているわけでもないのに。
 近くに誰かいる、と思って周囲を見回していると、金属が擦れる音がした。オンボロ寮のひん曲がりすぎてて意味があるのか不安になる形の門扉が動いた音だとすぐに気づく。門までの石造りの小道を下ると、門に付けられた申し訳程度の灯りに人影が照らし出されていた。
 薄暗い灯りの下でも分かる、石膏のような白い肌。整った顔立ちの輪郭を縁取る漆黒の髪。闇に慣れた目が、その頭から上に伸びる角を捉えた。緩やかに曲がった二本の角。人間ではあり得ないものだ。髪と同じ黒色で、飾りでは無さそう。よく見ると耳も尖っている。
「……これは驚いた。お前、人の子か」
 作り物のように美しい顔をした青年は、低く穏やかな声で静かに呟いた。その言葉で我に返る。
「初めまして、一年A組の羽柴悠と申します」
 いつものように一礼する。視線を下ろしてやっと、彼が学校の制服を着ている事に気づいた。左腕に腕章もある。暗くて見づらいけど多分、黄緑と黒。何て寮だったっけ。
「ハシバ……耳慣れぬ名前だな」
「あー、えっと……グレート・セブンの逸話も伝わってないようなド田舎の出身なもので。悠が名前で、羽柴が苗字です」
「そうか」
「あの。……失礼ですが、お名前をお伺いしても?」
 そう尋ねると、薄暗い灯りの下でも分かるぐらい、心底驚いたという顔をされた。
「お前……僕の名前を知らないのか?」
「全く心当たりが無いです」
 田舎者煽りじゃないのは雰囲気で分かる。本当に、心の底から、純粋に驚いて訊いてるんだと思う。だからこっちも素直に返した。
 すると、青年は作り物みたいな美貌をくしゃっと歪めて笑い出した。声は控えめなんだけど明らかにもう堪えきれないって感じの大爆笑。悪意は多分無いと思うけど、ちょっと自信がなくなってきた。
「そうか、それは幸福な事だ。……いや、不幸かな?」
「どっちでも構いませんけど、教えては頂けないんですか?」
 青年は悪戯っぽく目を細めて微笑む。
「そうだな。聞かない方がお前のためだ」
 非常に楽しそうだ。多分、彼を前にして知らないと口にする人間なんて、本当に今までいなかったんだろう。そんな感じがする。
「知ってしまえば、肌に霜が降りる心地がするだろう。世間知らずに免じて、好きな名前で呼ぶ事を許す」
 いずれそれが後悔に変わるかもしれないが、と言い添える。何なんだこの人。
「お前、ここに住んでいるのか?この館はもう長いこと廃墟だったはず」
「あー……はい、学校の温情で、一ヶ月くらい前からこちらにお世話になっています」
「独りで静かに過ごせる、僕だけの場所として気に入っていたのだがな」
 その言葉は少し寂しそうに聞こえた。
 学園長は使う人のいない建物だと言っていたけれど、用途が違うとは言え大切にしている人は他にいたのだ。なんだか申し訳ない気持ちになる。
 独りで静かに、って事は、ゴーストは彼にちょっかいをかけた事がないのか。……無いだろうな、この雰囲気は彼らからしても絡みづらそうだ。
「人が住み着いてしまったという事は、もうこの廃墟は廃墟ではない。残念だ」
 オンボロ寮を見上げる視線は、なんだか悲しい雰囲気だった。慰めの言葉もうまく出てこない。きっと僕たちが近日中に出て行ってまた廃墟になったとしても、彼の愛した光景はきっと戻らないのだろう。軽々しく何かを言える雰囲気ではなかった。
「また次の夜の散歩用の廃墟を探さなくては。では、僕はこれで」
 一人で勝手に呟いたかと思うと、その姿が光に包まれて消えた。鱗粉のような光だけが残されて、ちらちらと揺れながら地面に触れる前に薄れて見えなくなる。
 後に残ったのは静まりかえった夜の庭だけ。わずかに開いたオンボロ寮の門扉が、霞のように消えた来客が存在していた事を語る。とりあえず閉めた。
 角の生えた廃墟マニアかぁ。
「ホント、この学校変な人多いなぁ……」
 呟くと大きな欠伸が出た。いい感じに眠気が頭を占めている。今なら良く眠れそう。
 目を擦りながら、僕はオンボロ寮に向かって歩き出した。


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